2015年7月26日日曜日

説教集B2012年:2012年間第17主日(三ケ日)

第1朗読 列王記下 4章42~44節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章1~15節

   本日の福音に記されている、主イエスがガリラヤの湖東の岸辺で、大麦のパン五つと魚二匹を増やし、5千人の男たちに食べさせた奇跡は、四福音書全てに述べられている、かつて無かった程の大きな奇跡であったと思います。四福音書全部に共通して述べられている出来事は、このパンの奇跡の他には、ご受難直前の主のエルサレム入城と、主の最後の晩餐・ご受難・ご死去・ご復活など、主が最後の段階でなされた最も重要な救いの御業だけですので、福音記者たちは主が公生活の途中で為されたこのパンの奇跡を、それらの御業と並べて特別に重視していた、と申してもよいと思います。ところでマタイとマルコ福音書によりますと、主はこのパンの奇跡の後にも、もう一度七つのパンと少しの小魚を増やして、四千人の男たちに食べさせるという奇跡を為しておられます。どちらの福音書でも、主は後で、「私が五つのパンを五千人に与えた時、残りを幾つの籠に集めたか。また七つのパンを四千人に与えた時、残りを幾つの籠に集めたか」と弟子たちに問い、それぞれ「十二籠です」、「七籠です」の返事を聞いて、「それでも、まだ悟らないのか」と、彼らの信仰の弱さを咎めておられますから、主は彼らの信仰を少しでも固めるため、パンの奇跡を二回もなさったのだと思います。

   本日の第一朗読によりますと、天に上げられた神の人エリヤから、その預言者的権能を受け継いだ神の人エリシャも、パン20個を百人の人々に食べさせた奇跡を為しています。エリコに近いギルガルの人々が飢饉に見舞われて苦しんでいた時、一人の男の人が、その地を訪れた神の人エリシャの許に、初物の大麦のパン20個と新しい穀物とを、袋に入れて持って来ました。為政者側の政策でバアル信仰が広まり、真の神に対する信仰が住民の間に弱められていた紀元前9世紀頃の話です。飢饉という恐ろしい自然災害に直面しても、信仰を失わずに敬虔に生活していたその男の人は、神の人エリシャの助けを求めて、その初物を持参したのだと思います。信仰に生きるイスラエル人たちは、神の恵みによって収穫した穀物の初物は、感謝の印に神に献げるべき最上のものと考えていましたから、それを預言者エリシャを介して神に献げようとしたのかも知れません。一人の人が袋に入れて持参したパン20個は少量ではあっても、飢饉時代には特別に心の籠った貴重な供え物であったと思われます。それを受け取った神の人エリシャはすぐに、「人々に与えて食べさせなさい」と召使たちに命じました。召使たちは驚いたと思います。「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えましたが、エリシャは再び命じて、「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる『彼らは食べきれずに残す』」と言いました。それで、召使たちがそれを配ったところ、主のお言葉通り、人々は飢えていたのに、それを全部食べきれずに残してしまいました。

   いったいそのパンは、いつどこで増えたのでしょうか。聖書をよく読んでみますと、預言者エリシャは召使たちに「人々に与えて食べさせなさい」と命じただけですから、パンは預言者の手元で増えたのではないようです。パンは、それを配る召使たちの手元で増えたのではないでしょうか。本日の福音にも、主イエスは過越祭が近づいていた冬から春にかけての頃、すなわち農閑期で多くの農民が主の御許に参集し易い時期に、人里から遠く離れた土地で、五つのパンと二匹の魚を増やして5千人もの人々に食べさせ、残ったパンの屑で12の籠がいっぱいになるほど満腹させています。マタイやルカの福音書によりますと、それは日が傾いてからの夕刻の出来事でありますから、暗くなるまでの限られたわずかな時間内に、パンが大量に配布され群衆を満腹にさせたことを思いますと、パンは主の手元でだけ増やされ、弟子たちがそのパンを、5千人もの人々が分散して腰を下ろしている所に運んだのではなく、預言者エリシャの時と同様に、パンを分け与える弟子たちの手元でも、次々と増え続けたのではないでしょうか。それは、その奇跡を間近に目撃した群集一人一人の心を驚かし、感動させた出来事であったと思われます。全能の主の御力が弟子たち各人の中に現存して、この奇跡を為したのだと思います。その主は今も、ミサ聖祭の時に同様に現存してお働きになります。この「信仰の神秘」を堅く信じつつ、ミサ聖祭に出席していましょう。公会議後に刷新された典礼では、ミサ聖祭の聖変化の直後に司祭が「信仰の神秘」と宣言し、参列者がそれに続く短い祈りを捧げていますが、これは東方教会が古代から続けている典礼から学んで導入したものです。東方教会では古来この祈りを唱える時に、復活の主キリストの現存に対する信仰を新たにしていると聞いています。私たちもこの伝統を心を込めて順守しましょう。

   本日の第二朗読は、神からの招きにふさわしく歩むこと、そして柔和で寛容な心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、神の霊による一致を保つように努めることを強調しています。しかし、それらの勧めを自分の人間的な自然の力に頼って実践しようとしても、次々と弱さや不備が露出して来て、なかなか思うようには行きません。人間関係となると、私たち生身の人間の心には、無意識の内に、各人のこれまでの体験に基づいて築き上げて来た外的自然的価値観に頼って隣人を評価してしまう動きが強く働くようです。そのため、お互いに善意はあっても、心と心とはそう簡単には一致できません。そこで使徒パウロは、各人のその価値観をもっと大きく広げさせるために、「すべてのものの父である神」に心の眼を向けさせ、「神から招かれているのですから、その招きにふさわしく」神の愛の霊によって生かされるよう勧めているのだと思います。「神から招かれている」というこの言葉を、心にしっかりと銘記していましょう。私たち人間相互の本当の一致も、人類社会の本当の平和も、各人が神からの招きに応えよう、何よりも神の御旨に従おうと努めることによって実現するように、神がこの世の全てをお創りになったのだと思います。


   話は違いますが、私は年齢が進んで80歳代になりましたら、気をつけていても物をどこかに置き忘れたり持参しなかったりすることが多くなりました。そこで私は数年前から、全く日常的な小さな仕事や外出を為す時にも、自分の力だけに頼らずに、神の導きや守りを願い求めたり、自分の守護の天使や保護の聖人たちに助けを願ったり感謝したりしています。すると神は実際に私たちの小さな日常茶飯事まで関心をもって眺めておられ、幼子のように素直な心で助けを願い求める者を助けて下さるということを、日々数多く体験するようになりました。神信仰は頭の中だけ、聖堂で祈る時だけのものにして置いてはなりません。こういう小さな日常体験に根ざしたものにする時に、私たちの頂戴している神信仰は、大きく強く成長し始める生き物のようです。ある聖人は、「私はもう神を信じているのではなく、神の働きを見ているのです」と言ったそうですが、この頃の私も、時々同様に感じています。....