2016年5月15日日曜日

説教集C2013年:2013年聖霊降臨(三ケ日)



第1朗読 使徒言行録 2章1~11節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章8~17節
福音朗読 ヨハネによる福音書 14章15~16、23b~26節

   本日の第一朗読は、過越祭から五十日目の五旬祭に弟子たちが体験した出来事を伝えていますが、この出来事は、復活なされた主キリストの許に呼び集められた新しい神の民、新約時代の教会の根本的特徴を如実に示していると思います。御昇天直前の主から、聖霊によって洗礼を受けるまでエルサレムを離れないようにと命じられた弟子たちは皆、「婦人たちやイエスの母マリア、及びイエスの兄弟たちと共に、心を合わせてひたすら祈っていた。百二十人程の人たちが一つの群れとなっていた」と、使徒言行録に記されています。ここで「イエスの兄弟たち」とあるのは、使徒小ヤコブやイスカリオテでない使徒ユダたち、主イエスの従兄弟に当たる弟子たちを指していると思います。各人は主のお言葉に従い心を一つにして集まり、一緒に熱心に祈っていたのですが、それだけではまだ百パーセントの新約の教会になっておらず、そこに聖霊が下って各人の心を内部から生かす必要があったのだと思います。それが、聖霊による洗礼というものであると思います。使徒たちが、聖母や婦人たちを中心にして集まっていたように記されていることも、注目に値します。ペンテコステ前の神の民は、女性が主導権を持つ自由な家庭的性格を示していたのではないでしょうか。復活なされた主が、女性たちに先にそのお姿をお示しになり、使徒たちに告げるように命じておられることも、注目を引きます。男性は自分で現実を把握し理解することを重視し勝ちですが、女性は愛の心で新しい現実を受け止め、与えられた現実に従って行動しようとする素質を心により多く持っているからではないでしょうか。聖霊降臨前の家庭的教会においては、神は女性を介して信仰の群れをお導きになることが多かったのかも知れません。
   余談になりますが、私が大学一年の神学生であった時、あるドイツ人神父が聖霊降臨の説教の中で、当時のあるヨーロッパ人神学者のこんな見解を紹介したことがありました。聖霊降臨前のその家庭的教会の段階で、突然ペトロが立って、ユダが主を裏切って使徒職から離れ死んでしまったので、聖書に基づいて12という使徒の数を補充するため、私たちと行動を共にした人たちの中から誰か一人を主の復活の証人にしなければならないと呼びかけたこと、そしてヨゼフとマティアの二人を選んで、「全ての人の心を知りたもう主よ、この二人の内、あなたはどちらをお選びになったかをお示し下さい。ユダが捨てた使徒職の後を継がせるためです」と祈って二人に籤を引かせ、マティアを使徒に加えましたが、これは聖霊の導きに基づかない、人間側の聖書解釈に基ずく早まった決定だったのではないか、という見解でした。聖霊降臨前のペトロたちによって使徒に選ばれたマティアが、その後どれ程福音宣教の実績を挙げたのかは知られていませんが、その神学者によりますと、後に主イエスご自身によって使徒に召されたパウロを、ユダに代わってその裏切りを償い、他の使徒たち以上に大きな苦しみと働きを神に捧げる使徒となすことを、神はあらかじめ予定しておられたのではないかとのことでした。一つの注目に値する見解だと思います。主は聖霊によって洗礼を受けるのを待ちなさい、と弟子たちに命じられたのですから、聖霊降臨の後に、すなわち新約の教会が聖霊に生かされ導かれる新しい社会的共同体として誕生してから、神に祈り神によって決めて戴くべきであったと思います。私たちも、自分の人間的合理的な見解や聖書解釈を先にして、神や教会のために何か良いことをしようとするような早まった生き方に警戒し、何よりも祈りの内に聖霊の導きや働きを待つこと、そして心から聖霊に生かされて生きることに心掛けましょう。
   過越祭から七週間後のペンテコステは、出エジプト記23:1634:22によりますと、古くはイスラエルの民にとって畑に蒔いた産物の初物を刈り入れる祭り、小麦の初穂の収穫祭とされていました。しかし、エルサレムでは後に、シナイ山での律法の公布を記念する祝日、すなわちイスラエル民族が神の民となったことの記念日として、過越祭に次ぐ大きな祝日にされていました。それでキリスト時代には、この日にオリエント・地中海世界の各地から多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まり、神への忠誠心と民族の団結心とを新たに固めていました。天にお昇りになった主は、その十日程後のこのペンテコステの祭日を選んで、天から聖霊を豊かに派遣なされたのだと思います。本日のミサの三つの祈願文はいずれも天の御父に向けられていますから、聖霊降臨の祝日は聖霊だけの祝日と考えてはなりません。天からその聖霊を派遣なされた天の御父と主イエスの祝日でもあると思います。本日の福音に読まれる、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」という主イエスのお言葉も、聖霊降臨の祝日に当たって忘れてならないと思います。聖霊だけではなく、天から聖霊をお遣わしになった天の御父も復活の主ご自身も私たちの心を訪れ、聖霊とご一緒にお住み下さることに感謝する大祝日なのですから。
   本日の第一朗読によりますと、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し始めた」のです。それはもう、この世の人間が主導権を持つ人間的な活動や出来事ではありません。全世界に散在している全ての人を復活の主キリストの一つ体に呼び集めて、神の愛に生きる全く新しい神の民に創り上げようとする、神の霊による新しい創造であります。この新しい社会的教会においては主イエスから召された使徒たちが立ち上がり、「霊が語らせるままに」語り始めましたが、彼らはガリラヤ人たちの一つの言葉だけで話したのではありません。自然的人間的には彼ら自身もまだ知らない、いろいろな国の言葉で話し始めたのです。そしてオリエント・地中海世界のいろいろな国からエルサレムに来ていた多くの人たちが、それぞれ自分たちの国の言葉で、自分たちの文化的伝統の立場から使徒たちの語る「神の偉大な御業」、神の新しい救いの御業を理解できたのです。この福音宣教は、無学なガリラヤ出身の人たちが自力ではなし得ない大きな奇跡であったと思います。神の御業の証し人、宣教師として召された使徒たちは、神の僕・聖霊の生きる道具のようになり、自分たちの受けた神の霊の語らせるままに話せば良いのです。それが、新しく生まれた社会的教会、神の民の根本的特徴だと思います。家庭的教会とは違うこの社会的教会においては、男性が主キリストと聖霊の器・道具となって活躍する使命を持つというのが、神の御旨であると思います。
   現代のカトリック教会はこの一番大切な特徴を無視し、忘れ去っているのではないでしょうか。人間たちが自力でなす宣教活動をどれ程続けても、神が求めておられる豊かな実を結ぶことができません。そこでは、神の霊が自由に働けなくなっているからです。現代の教会がこの残念な現状に目覚め、ファリサイ的パン種に警戒しつつ、神の僕・婢として謙虚に神の霊に導かれ生かされて生きる初代教会の熱心を体得するに至るよう、本日のミサ聖祭の中で恵みを祈り求めましょう。本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって体の業を絶つならば、あなた方は生きます」と説いています。私はこの「肉に従って生きる」や「体の業」という言葉を、可能な限り大きく広げて理解しています。大きな善意からではあっても、自分の人間的主導権を第一にして、神のため何か良いことをしようと励むファリサイ的信仰生活も、パウロの言う「肉に従って生きる」こと、「体の業」なのではないでしょうか。そんな古いアダムの精神、古いアダムの生き方には、「聖霊による洗礼」によって一旦完全に死に、天の神への従順中心の主キリストの精神、我なしの僕の精神に徹底して生きるよう心掛けましょう。しかし、このように心掛ければ、全能の神の働きによって万事が問題なく順調に行くと思ってはなりません。むしろ主イエスご自身や使徒パウロが度々体験したように、様々な不運や誤解、失敗や迫害などを体験するかも知れません。でも、その時神の霊が私たちの心の中でも自由にのびのびと働いて下さいます。そして後になって見ると、自分が耐え忍んだこの苦しみを介して、神ご自身が豊かな実を結ばせて下さったことを見出すに至ると思います。本日私たちのこの献げの決心と神への信頼とを、復活の主キリストがお献げになるこのミサ聖祭のいけにえに合わせて、天の父なる神に献げましょう。聖霊も私たちの心の中で、私たちの全てを天の御父に一緒に献げて下さると信じます。