2016年5月22日日曜日

説教集C2013年:2013年三位一体(三ケ日)



第1朗読 箴言 8章22~31節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~5節
福音朗読 ヨハネによる福音書 16章12~15節

   本日の第一朗読は神の知恵が語る言葉ですが、この知恵は何方を指しているのでしょうか。神の創造の御業に先だってあり、いつもその創造の御業に伴っておられることから察しますと、神の御独り子あるいは神の聖霊を指している、と考えてよいと思います。この箴言の言葉は詩的で、主なる神はまるで遊んでいる子供のように、全く自由に次々と天地万物を創造なされたように描かれています。神の知恵は、主なる神のこの御業についての話の最後に、「私は御許にあって巧みな者となり、日々主を楽しませる者となって絶えず主の御前で楽を奏し、主が創られたこの地上の人々と共に楽を奏して、人の子らと共に楽しむ」と語っています。「日々絶えず主の御前で楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」というこの生き方は、神に似せて創られた私たちも心掛けるべき、人間本来の生き方なのではないでしょうか。私たちも、神が創造なされたこの大自然界を眺めて神に讃美と感謝の歌を捧げつつ、楽しく喜んで生活しましょう。
   奈良の都を建設した万葉時代の人たちの心の表現である和歌には、「御民われ生けるしるしあり 天地の栄ゆる時に逢えらく思えば」という歌もあり、太平洋戦争が連戦連勝を続けていた小学六年生の春に、この和歌に節をつけた歌を教わった私は、戦後にカトリック信者になってからも、時々美しい日本の自然界を眺めながらこの歌を口ずさんでいます。小さな自分個人の苦楽よりも、神がお創りになったこの美しい天地万物の発展、その中での日本国の発展に心の眼を向けて喜び祝いつつ、その発展のために自分の人生を捧げようとしていた人たちが、奈良時代には多かったのではないでしょうか。この大宇宙を創造なされた三位一体の神も、そのような感謝と喜びに溢れている若々しい社会を、また生まれて間もない日本の国家を、喜びの御眼で眺めておられたと思われます。
   それに比べると、現代日本の社会では人々が高度に発達した科学文明のお蔭で、遥かに豊かにまた便利に生活していますが、そこでは驚くほど多くの人の心が孤独に苦しんでいるようです。毎日同じ家に住む家族であっても、相互に殆ど会話せず、各人ばらばらに自分なりの生活を孤独に営んでいるということが多いようです。相互に喧嘩もしないが、積極的に愛し合うこともなく、各人が夫々自分の好みや自分の考えのままに、家庭も社会も日々出会う自然界も、全て自分中心に利用しながら生活しているという、そんな個人主義・自由主義に生きている人たちの家庭や社会を、三位一体の神はどんな御眼で眺めておられることでしょうか。わが国では、今の人生に生きがいが感ぜられずに自死する人が、十数年前から毎年3万人以上も続いたことがあり、最近多少少なくなったようですが、それでも心の奥に自分の人生に感謝も喜びも感じられず、内的には全く孤独な個人主義の中に寂しく生きている人が多いようです。
   奈良時代のまだ貧しかった時代には、皆で助け合って希望の内に逞しく生きていた日本人が、現代文明の豊かさの中で、どうしてこれ程惨めな人間に成ってしまったのでしょうか。貧しさの中で皆で助け合って一緒に働く共同体精神が家庭でも社会でも消え失せ、個人主義・自由主義の利己的精神が社会のあらゆる分野に広まり、昔の人たちが大切にしていた共同体精神や心の教育をなし崩しに葬り去ったからだと思います。皆のため全体のために生きようとする、自己犠牲的無料奉仕の愛のない心、自分中心の「古いアダムの精神」がはびこっている心には、ずる賢い悪霊が働きかけて来ます。こうして神にも人にも信用できない絶望的孤独感の内に、人間相互の温かい心の交流も消え失せ、自分の命を絶つ人が増えて来たりしたのではないでしょうか。真に恐しいことだと思います。
   本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「私たちは」「このキリストのお陰で」「神の栄光にあずかる希望を誇りにしており」「苦難をも誇りとしています」という、どんな苦労も苦難も厭わない、力強い希望と喜びの言葉を表明しています。聖書学者たちによると、新約聖書の中に23回登場する「誇り」という名詞は、ヤコブ書とヘブライ書にそれぞれ1回使われている以外は全てパウロの書簡に使われており、新約聖書に39回登場する「誇りとしている」という動詞も、ヤコブ書に2回使われている以外は全てパウロの書簡にだけ使われています。この頻度から察しますと、使徒パウロにとって復活なされた主キリストにおける「誇り」は、何か特別な意味を持っていたように思われます。彼は、神の働きやキリストの救う力にしっかりと根ざして生活し、日に幾度もそのことに思いを馳せながら、日々の労苦や苦難を多くの人の救いのため、主キリストの救いの御業に合わせて、天の御父に献げていたのではないでしょうか。こういう実践を数多く度重ねたので、キリストご自身の御命がその心の中に次第に力強く働き始め、やがて彼のいう嬉しい「誇り」の心情も、心の中に強く逞しく成長して、輝き始めたのだと思います。
   未曾有の過渡期である現代に生きる私たちも、刻々と移り行く現代世界の流れや、社会から提供される事物には少し距離を置いて、何よりもまず三位一体の神の共同体的愛の働きに日々幾度も心の眼を向け、その働きに根ざして生きるように心がけましょう。そして使徒パウロのように、自分の祈りや生活の全てを、主キリストの救いの御業に合わせて神に献げるよう努めましょう。そうすれば三位一体の神の愛が私たちの心の中でも次第に力強く働き始め、明るい感謝と喜びの心情と共に、神に愛され神に支えられているという誇りの心情も、私たちの心の中に芽生えて輝き始めると信じます。