2009年6月14日日曜日

説教集B年: 2006年6月18日、キリストの聖体(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 24: 3~8. Ⅱ. ヘブライ 9: 11~15.  
  Ⅲ. マルコ福音 14: 12~16; 22~26.


① 本日の第一朗読は、シナイ山の麓で神とイスラエルの民との間で結ばれた契約の締結式についての話です。モーセを通して読み聞かされた神の言葉に、民が皆声を一つにして、「私たちは主が語られた言葉を全て行います」と答えると、モーセは神の言葉を書き記し、翌朝早くに起きて祭壇を築き、イスラエル12部族のシンボルである12の石柱を建てさせました。そして若者たちに雄牛を焼き尽くす献げ物として神に献げさせますが、その時雄牛の血の半分を鉢に取り分け、残りの半分を祭壇に振りかけます。それから契約の書を民に読んで聞かせ、民が「私たちは主が語られたことを全て行い、守ります」と言うと、モーセは取り分けてあった血を民に振りかけて、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいて、あなたたちと結ばれた契約の血である」と宣言しました。契約を結ぶ時にこのようにして動物の血を流すことは、遊牧民の間では、その契約が命をかけたものであることを意味していました。英語では契約を contract と言いますが、それは近年外交問題で耳にすることの多い agreement (合意、了承) とは違って、当事者の心も生活も束縛する重大な約束事を意味しています。神がアブラハムと契約を結ばれた時も、神はまず特定の動物たちを二つに切り裂いて、それぞれ互いに向かい合わせて並べさせ、夜に燃える松明の火の形でその動物たちの間を通り抜けておられます。またアブラハムとその子孫の男子全てに血を流す割礼の式を受けさせています。これも、命をかけて契約を守り抜く意志を表明する儀式だと思います。
② 本日の第二朗読は、動物の血を流して結ばれた旧約時代の契約とは違って、キリストの血による新しい契約についての話です。この話に先立ってヘブライ書7章と8章には、モーセの時に神の啓示に従って立てられたレビ族の祭司職とは違う、メルキゼデクの祭司職について説明されています。メルキゼデクはアブラハムとは血縁でない、言わば旧約の神の民以外の王、いと高き神の祭司ですが、アブラハムはそのメルキゼデクに歓迎され祝福してもらった感謝に、自分の財産の十分の一を捧げたのですから、メルキゼデクはアブラハムとその子孫よりも上にいる祭司であり、後に神の民から収入の十分の一を納めさせて祭司職をなしていた、アブラハムの子孫アーロンとその子孫の祭司たちよりも、優れた祭司であることが説かれています。そしてアーロン系統の大祭司は、人が造った地上の幕屋で供え物といけにえを献げるために任命された仮のもので、天上の真の聖所で神に供え物といけにえを献げるメルキゼデク系統の大祭司 (キリスト)の模型、影であるに過ぎず、契約に対する不忠実によってアーロン系統の祭司職は、主キリストの献げたいけにえにより、もう古びて無益なものとなっていると述べられています。
③ 本日の第二朗読は、この思想的前提の上に立って、メルキゼデク系統の恵みの大祭司としてお出でになったキリストが、この世のものでない、更に大きく、更に完全な幕屋を通って、ご自身の御血を天上の神の至聖所に献げることにより、ただ一度で永遠の贖いを成し遂げて下さったこと、それでその御血によって心を清められた者たちが、生ける神を礼拝するようになり、約束されている永遠の遺産を受け継ぐ者になることを教えています。主キリストが大祭司としてお献げになったそのいけにえは、過ぎ行くこの世の歴史的次元においてはただ一度だけで過ぎてしまう出来事でしたが、時間空間を全く超越している天上の至聖所においては、過去・現在・未来の全ての被造物に恵みを与え続ける永遠の現実となっています。主が最後の晩餐の時に制定なされた聖体の秘跡とそのご命令に従って、私たちが日々捧げているミサ聖祭は、天上の大祭司の働きと恵みを、時間空間の大きな隔たりを超越して私たちの目前に現存させる儀式で、全能の神のみが成し得る奇跡的出来事であり、小さな人間理性の理解を遥かに超える神秘であります。小さな古い自分に死んで、ひたすら主のお言葉に対する徹底的信仰と従順に生きようとする人の心は、やがて天上の主が実際にこのミサ聖祭の内に現存し、私たちに永遠の命と力を豊かに与えて下さることを、数々の体験によって確信するようになります。これは、無数の聖人賢者たちの信仰体験であり、小さいながら私の体験でもあります。
④ 本日の福音の始めには、「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」とありますが、以前にも申しましたように、ヘロデ大王がエルサレム神殿を美麗に大増築すると、世界各地から巡礼に来る人口が激増して、キリスト時代の過越祭にはユダヤ人の数が日頃の3倍ほどに達していたと推測されています。市外のオリーブ山麓などで野宿する巡礼者たちまでいる、その大勢の人たちが皆金曜日の晩に過越の食事をする場所がないため、大祭司は除酵祭の日を一日増やして、巡礼者たちには木曜日の晩に過越の食事をすることを許可していたのだそうです。ですから主とその弟子たちは、その最初の日に二階の大広間を借りて、大祭司たちよりも一日早く過越の食事をすることができたのだと思います。主はその食事の最中に、「これは私の体です」、「これは多くの人のために流される契約の私の血です」とおっしゃって、弟子たちにパンとぶどう酒の形で、ご自身の命とご精神を分け与えられ、聖体の秘跡を制定なさいました。ヘブライ語でもアラマイ語でも「からだ」は人間の一部ではなく、人間全体を表現するそうですから、主が讃美の祈りを唱えてから裂いて弟子たちに渡されたそのパンは、主イエスの全体、主ご自身を指していると思います。「契約の私の血」という言葉は、それを飲む人は皆、大祭司キリストによる神との新たな契約に参与し、ユダヤ人・異邦人の別なく新しい神の民になることを意味していると思います。なお、体と血とを分けて渡されたのは、死の形で秘跡を定め、主の受難死によって全ての罪が償われることと、そこに神の力によって復活の恵みが働くこととを示しているのではないでしょうか。
⑤ 使徒パウロはコリント前書11章に、ふさわしくない心で主のパンを食べたり、その御血を飲んだりする者は主に罪を犯し、自分に対する裁きを飲み食いすることになるので、拝領する前に自分自身をよく吟味するよう警告していますが、6章と10章では、主のパンを食べ主の御血を飲むことにより、私たちが大勢であっても主と一つの体、一つの霊になることが強調されています。従って、主が制定なされた聖体の秘跡の目的は、私たち各人の存在を内面から霊的に高揚させ変化させて、主と共に一つの体、一つの霊にして行くことにあったのではないでしょうか。使徒パウロはその深い現実を生き生きと体験していたようで、ガラテア書2章の終りに、「生きているのは、もはや私ではなく、キリストこそ私の内に生きておられるのです。云々」と書いています。私たち各人の命がこの秘跡によって高められた命に変えられて行くことは、主ご自身の強いお望みなのではないでしょうか。主はヨハネ福音書の6章に、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方の内に命はない。私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠の命を持ち、私はその人を終りの日に復活させる。云々」と、この言葉が多くの弟子たちを躓かせ、離れ去らせることも厭わずに繰り返し強調し、彼らが己を無にして主のこのお言葉を受け入れ、その信仰に生きることを求めておられるからです。
⑥ 使徒たちばかりでなく、古代の殉教者や教父たちは皆、聖変化したホスチアの中での主キリストの現存を堅く信じていました。例えば聖アウグスティヌスは、洗礼志願者向けのある説教の中で聖体拝領の式について説明し、司祭が一片の聖体を見せて Corpus Domini (主のからだ) と言う時、そのご聖体をしっかりと見て「アーメン」と答え、それを手に受けて拝領します。それが主ご自身であることを信ずる信仰表明と、その主と一致して生きるという決意表明との意味を込めて、「アーメン」と答えるのですというように教えています。40年ほど前の典礼刷新で、古代教会のこの美しい聖体拝領の仕方が現代の教会にも導入されましたが、それは、ミサ聖祭の中で聖別されたパンを主の真の体と信ずる信仰と深く結ばれている典礼行為であります。一度聖変化したパンは、ミサ聖祭の後にも変化したまま残るという信仰は初代教会からあり、教会はそれを病人に拝領させるために保存したり、東方教会で今日も行われているように、それに畏敬の念を表明したりしていました。
⑦ 12世紀の西方教会内に信仰の乱れが目立ち始め、多くの信徒が多かれ少なかれ世俗化している司祭たちの教会堂に行こうとしなくなる、一種の教会離れ現象が広まった時、13世紀に入って神からの新しい促しを受けて創立されたフランシスコ会やドミニコ会などのいわゆる托鉢修道会が、多くの若者たちの心を信仰へと連れ戻し、その教会離れ解消に大きな成果を挙げましたが、同じ頃にカトリック教会で盛んになったのが、主のご聖体に対する信心であります。その最初の例は、パリの大司教オドが1200年頃に導入した、司祭は聖変化した主のパンを会衆によく見えるように高く上げるというelevatio (聖体奉挙) の習慣であります。ベルギーのリエージュでは、修道女ユリアーナに与えられた主キリストの私的啓示に基づいて、1246年に聖体の祝日が導入されましたが、同じ頃ドイツのマンハイムの大聖堂で聖変化直後のカリスからコルポラーレに流れ出た主の御血が、赤い血液になってそこに主の御顔を幾つも描いたり、1263年には同様の奇跡がローマの北北西70キロ程のボルセーナという田舎町の祭壇でも発生したりして、聖体の中での主の現存に対する信仰が無数の信徒たちの間に高まったので、以前にリエージュで助祭長を務めたことのある教皇ウルバヌス4世は、1264年に、本日私たちのお祝いしている「聖体の祝日」を全教会のために制定しました。教皇から依頼されてその祝日のミサ聖祭と聖務日課の典礼をつくったのは、ドミニコ会の聖トマス・アクィヌスであります。主のご聖体を力強く讃える “Lauda Sion” 、“Pange lingua” などの美しいラテン語の讃歌を作詞したのも、同じ聖トマスでした。
⑧ ボルセーナの奇跡の祭壇は今もそのまま現存し、私もそこを訪ねています。また近くのオルビエト司教座聖堂に保管されているその時のコルポラーレは、年を経て真っ白になっていますが、科学的に検証すると微かに血痕が感知されると聞いています。ドイツのマンハイムにも行きましたが、市役所に近いそこの大聖堂に保管されている奇跡のコルポラーレも、同様の状態になっていました。1270年代になりますと、この祝日と関連して聖体行列も盛大に挙行されるようになりました。16世紀の宗教改革時代には、聖別されたパンの中での主キリストの現存を否定するプロテスタント改革者たちの見解に対する反動として、聖体を祭壇上に顕示して信仰と感謝を荘厳に表明する、昔日本で「聖体降福式」と言われた儀式や、祭壇上に顕示されたご聖体を崇敬する長時間の聖体礼拝などが頻繁に行われたり、始めから聖体を祭壇上に顕示してミサ聖祭を献げたりすることが広まったりしました。第二ヴァチカン公会議後には、社会事情の変化や人々の好みの変化なども関連して、聖体行列も聖体降福式もあまり挙行されなくなりましたが、使徒時代以来の聖体の秘跡に対する信仰は新たに堅持しつつ、この秘跡から豊かに恵みを受けるよう心がけましょう。