2009年6月28日日曜日

説教集B年: 2006年7月2日、年間第13主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 1: 13~15; 2: 23~24.  Ⅱ. コリント前 8: 7, 9, 13~15.  
  Ⅲ. マルコ福音 5: 21~43.


① 本日の第一朗読は、旧約時代の末期に書かれた智恵の書からの引用ですが、この智恵の書は、神の民がそれまでに受けた神の啓示や、善悪さまざまの人生体験、歴史体験を総合的に回顧し、信仰に生きる人の中に働く神の智恵の霊に導かれて持つべき、世界観や人生観について語っていると思います。本日の朗読箇所はその一番最初の部分からで、著者はここで、創世記に述べられている人間の創造や堕落についての神話を思い浮かべながら、その人間観と人生観とを披露しています。神は「生かすためにこそ万物をお創りになった」のであって、「命あるものの滅びは」喜ばれません。「滅びをもたらす毒はその中にはなく、」「悪魔のねたみによってこの世に」入って来たのです。ですから、神が「ご自身の本性の似姿として」「不滅な存在として」創造して下さった人間は、その悪魔に抵抗し続けるなら、その義は不滅で、神と共に永遠に幸せに生きることができますが、悪魔の仲間に属する者になるなら、死を味わうに至るのです。これが、著者がまず創世記から学んでいる人間観であり、人生観であると思います。そこには生と死との対立が露わにされており、生は神から、死は悪魔からとされていることに注目致しましょう。
② 次に第二朗読に目を転じてみますと、本日の朗読箇所には、豊かさと貧しさとの対比が露わにされています。シルクロード貿易が盛んであったキリスト時代のコリントは、ギリシャ諸都市を結ぶ陸の幹線道路の拠点であるばかりでなく、東からも西からも大きな地中海が迫って来て狭くなっているその陸路の拠点には、東にも西にも交易の盛んな港があって、正に当時の地中海で一番栄えていた商業都市の一つでした。この世の富で豊かになっているその町のキリスト者たちは、信仰と神の言葉、使徒たちからの指導と愛など、全ての点で他地方の人々よりも豊かに恵まれていた、と言ってよいと思います。そこで使徒パウロは、主イエスのお示しになった模範を提示しながら、「慈善の業においても豊かな者となりなさい」と勧めています。主は豊かであられたのに、あなた方のために貧しくなられたのは、その貧しさによってあなた方を豊かにするためだったのです、とも書いています。
③ 昨日の晩の祈りの中で朗読された使徒パウロのこの言葉に、私は心がグサッと刺されたように覚えましたが、そのせいか夜中過ぎに夢で目を覚まし、その後でいろいろと考えさせられました。それは、大祝日か日曜のミサが終わって、ある聖堂の前庭に信者たちと一緒に出て来たら、すぐ前の道を主が十字架を背負って引かれて行くという夢でした。私たちが今こうして恐ろしい社会不安や災害などに悩まされずに暮らしておれるのは、その一番の本源にまで立ち返って考えるなら、神であられる主が貧しくこの世にお生まれになり、あらゆる苦難に耐えて私たちを贖って下さったお蔭ではないでしょうか。それを思うと、その主に対する感謝の心から、私たちももっと貧しさや苦しみに耐え、主と苦しむ人たちとの連帯精神を、日々多少なりとも生活の中で体現すべきなのではないでしょうか。パウロはそれを、一部の人たちだけが楽をして、他の人たちはいつも苦労するということがないように、ゆとりのある人たちが苦しむ人たちの欠乏を補って、釣り合いの取れた生き方をするためなのだと説明して、エジプトを出て荒れ野の旅をしていた時の、神の民の体験を例に取り上げているのだと思います。マンナを「多く集めた者も(それを乏しい人たちにも分け与えて)余ることなく、わずかしか集めなかった者も不足することはなかった」というのが、日々神からの導きや助けを受ける にふさわしい、信仰に生きる人たちの生き方なのではないでしょうか。
④ 現代の私たちは、2千年前のコリントの人たちの豊かさを凌ぐ、あり余るほどの豊かさの中に生活していますが、しかし同じ地球上には、明日の飲食にも事欠く貧しい生活を余儀なくさせられている人たちが数億人もいますし、半世紀前から局部的に内戦や集団虐殺などが多発しているアフリカでは、今も自分の生まれ故郷に住むことができず、不安な難民生活をさせられている人たちが275万人もいると聞いています。同じ神から創造され愛されて、将来は皆、神の御許に神の子として永遠に一つ共同体となって神を讃えるよう召されている人間として、現代世界のこれ程の不釣り合いは看過できません。人類の罪の大きさには圧倒されますが、小さいながらも救い主と一致して連帯精神を喚起しながら、多少なりとも節制と慈善の業に努めるのは、私たちキリスト者の責務だと思います。あるキリスト者は「十分の一献金」を主張したそうですが、それは心のこもったものでない画一的な律法主義の弊害に落ち込む虞がありますので、警戒したいです。私は、自分のポケットマネーの実情を考慮し、敬虔なユダヤ人家族の習慣なども参考にしながら、毎週の後半に神に一定の祈りを唱えて、千円ないし二千円を特定の献金箱に入れており、諸方面からの慈善献金の依頼を受けると、その献金箱から出しています。年間の献金額は十万円足らずだと思いますが、問題は金額ではなく、神に対する感謝の心と、貧しい人たち、今苦しんでいる人たちとの連帯精神で毎日を生きていることだと思います。私は毎週その心を新たにしながら神に祈り、主と一致して神から人々の上に恵みを呼び降す一つの小さないけにえとして、自分にできる多少の献金をしています。
⑤ 本日の福音であるマルコ福音書5章には、罪の結果である悪魔つき・病気・死に対して、主がなされた三つの奇跡的治癒の話が語られています。その一はゲラサ人の地での悪魔つきの治癒、その二は12年間出血の止まらない女の治癒、その三は会堂長ヤイロの娘の蘇りであります。いずれも大きな奇跡的治癒ですが、この三つに共通して、それぞれの人がかなり苦しい犠牲を神に捧げなければならなかったことも、注目に値します。本日の朗読箇所にない第一の治癒には、癒された人が悪魔たちから受けた数々の苦しみの他に、その土地の人々の豚2千匹程が犠牲になりました。本日朗読された第二の治癒には、まず12年間も出血が続き、多くの医者にかかり、財産を使い果たした病気の女の長い耐え難い程の苦しみがありましたが、それだけではなく、血の穢れを持つ者はその罪で他人を汚染しないため、人々の集まる所に近づいてはならないという規則に背き、癒してもらいたい一心で人ごみに紛れて主イエスに近づき、後ろから主の衣服に触れようと努めた時の、誰にも言えない大きな不安もありました。もしも見つかったら糾弾され、社会的に除け者扱いにされたり処罰されたりする虞もあったでしょうから。その人はおそらく誰にも顔を見られないように身をかがめ、人々が皆主イエスお一人に注目している間に、後ろからその主に近づいて、そっとその衣服に触れたのではないでしょうか。と、その途端に体じゅうが熱くなり、病気が癒されたのを感じたのだと思います。その時主も、ご自身の体から霊能が流れ出たので、「私の衣服に触れたのは誰か」とおっしゃって振り向き、その癒された女の人を捜されました。女はもう逃げ隠れることはできないので、恐ろしさに震えながら進み出てひれ伏し、全てをありのままに話しました。それを聞いて主は、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と公言し、その人の社会復帰を名誉あるものとして下さいました。
⑥ 第三の治癒にも、大きな隠れた苦しみが先行していると思います。まず会堂長ヤイロは、娘の死が近づき絶望的になった時、一生懸命に主を捜したと思います。しかし、その時主は弟子たちと共にゲラサ人の地に行っておられて、いくら多くの人と共に捜してもどこにもおられず、絶望的なあせりを感じていたと察せられます。そこに主を乗せた舟が対岸から着いたので、大勢の群衆が岸辺に集まり、会堂長も主の足元にひれ伏して、しきりに娘を癒してくれるよう願いました。主は一緒にその家へ行きますが、その途中で12年間出血の止まらない女の人の治癒があると、主は立ち止まってその女の人を捜し、時間をかけてゆっくりとその人の長い話を聞かれたのですから、一刻も早くと焦っていた会堂長は苦しんだと思われます。主がまだその人と話しておられた所へ、会堂長の家から人々が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げたのです。会堂長の苦しみは頂点に達したのではないでしょうか。しかし、その時に主が会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃって、一緒にその家に行き、その娘を蘇らせるという大きな奇跡をなされたのです。真に神のなさり方は、私たち人間の思いや願いと大きく違って、予想を超えた仕方で私たちの願いを叶えて下さる、ということが多いように思います。いくら祈っても願いが聞き届けられないようだからと、諦めることのないよう気をつけましょう。神は思わぬ時に、私たちの考え及ばなかった仕方で、私たちの願いを叶えて下さることもあるからです。
⑦ ご存じのように、二ヶ月ほど前に私の説教集A年が発行されましたが、私の聞いている所ではまだ売れ行きが芳しくなく、私からその本を贈呈された人たちの中でも、その本を「つんどく」の状態にして読んでいない人が少なくないように感じています。しかし、この説教集の出版はもともと私の望みからではなく、神の不思議な摂理を感じたことから手がけた事業ですので、全てを神の御手に委ねて祈りつつ待っていれば、神がお望みの時にお望みのようにして多くの人に役立てて下さると信じています。神の僕はそのために、まずは長期間、信頼して忍耐強く待つという苦しみを神に献げなければならないかも知れません。私は今、神のお望みになるその苦しみを日々祈りつつ喜んで献げています。大きな希望と信頼のうちに。