2009年6月21日日曜日

説教集B年: 2006年6月25日、年間第12主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヨブ 38: 1, 8~11.     Ⅱ. コリント後 5: 14~17.
Ⅲ. マルコ福音 4: 35~41.


① 本日の第一朗読の出典であるヨブ記は、この世の人生の苦しみにどう対処すべきかを考えさせる、42章にも達する長い詩文で、どこかで実際に発生した歴史的出来事ではなく、罪や人生苦の深い意味について教えるよう聖霊の導きを受けた作者が創作した、一種の聖なる文芸作品であると思われます。一日の内に考えられない程の大きな不幸が次々と発生し、その知らせに打ちのめされた時、ヨブは「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は取り去りたもう。主の御名は誉め讃えられよ」と言って、神を呪うような罪を犯すことはありませんでした。サタンの仕業で、頭から足の裏まで恐ろしい皮膚病に悩まされ続けても、「私たちは神から幸せを戴いたのだから、不幸も戴こう」と妻に答えていました。
② その知らせを受けた親しい友人3人が、ヨブを見舞う相談をしてそれぞれの国からやって来ましたが、ヨブの激しい苦痛を見て嘆きの声をあげ、七日七晩ヨブと共にただ地面に座っているだけで、話しかけることもできずにいました。やがてヨブが自分の生まれた日を呪い、神がなぜ罪のない人に大きな苦しみをお与えになるのかと、納得の行く説明を求めて長い嘆きの言葉を語り始めると、驚いた3人は、苦しみは罪の結果であるとする、今日でもユダヤ人が大切にしている教理に依拠して、ヨブの苦しみは何か隠れた罪の結果であろうと考え、悔い改めて神に罪の赦しを願い求めるよう説得し始めます。しかしヨブは、罪を犯していないのに、神が自分にこんな苦しみを下さったのはなぜなのかと、納得の行く説明を求めて嘆き続けます。自分は正しいと確信するヨブの力説を聞いて、3人の友人も黙してしまいますが、その時、自分は正しいと主張するヨブに対しても、その主張に適切な反論を見出せずにいる3人の友人に対しても怒ったエリフという人が、ユダヤ教の伝統的教理に基づいてヨブに悔い改めを迫る、非常に長い話をします。
③ その後に、神が嵐の中からヨブに答えて、38章から41章の終りまで続く長い話をなさいますが、その最初の部分からの引用が本日の第一朗読であります。神はその中で、ご自身がこの大自然界に対してなされた大いなる業を語られるだけで、ヨブの理性を納得させるような答えは一つも話しておられません。しかし、その話を聴いてヨブの心は大きく目覚め、神に対して「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」「私には理解できず、私の知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」と深く悔い改めます。自分中心、人間理性中心に罪や人生苦などの問題を納得の行くように説明してもらおうと尋ね求めることは止めて、この巨大な世界を創造された神の御働きにすべてを委ね、神の御旨中心に、いわば神の僕のようになって生きようとする心になったのだと思います。神はそのヨブに以前にも増して大きな富を与えて祝福しますが、ヨブの3人の友人たちに対しては、ヨブのように正しく語らなかったことを責めて、ヨブの所で神にいけにえを捧げさせ、ヨブの取次ぎでその罪を赦しておられます。
④ このことから考えますと、人間理性の産みだした何かの理知的理論を中心にして神の対する罪を考えたり、災害や不幸に見舞われた人には何かの隠れた罪がある筈だ、などと理知的に考えたりしてはならず、神の御前では人間理性中心の考え方を放棄して、神の被造物として神の御旨中心の謙虚な心で生活すべきなのではないでしょうか。神の御子は、人間としてはこの世で「神の僕」としての生き方の模範を示しておられますし、聖母マリアも「神の婢」としての生き方をしておられました。私たちも、自分の理性中心にではなく、神の僕・神の婢としての謙虚な心で、ひたすら神の御旨中心に生きるよう心がけましょう。人生苦の問題解決の必要性から産まれた仏教でも、悟りを体験した人たちは、いずれも人間の理知的考え方を厳しく退け、奥底の心に眠る霊的センスを厳しい修行によって目覚めさせようとしています。神は私たちにも、自分の奥底の心に与えられている霊的能力を磨き鍛えることを、求めておられるのでしないでしょうか。
⑤ 本日の第二朗読は、「キリストの愛が私たちを駆り立てています」という観点から、全ての人の救いのために死んで下さったキリストのために、もはや自分自身のために生きることを辞めるよう説いています。「私たちは今後誰をも肉に従って知ろうとしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」という言葉も読まれますが、ここで「肉に従って知る」という言葉は、人間理性を中心にして、人の心とその言行を理知的に判断することを指しているのではないでしょうか。自然界の現象や社会現象などを合理的に研究し、そこに隠れている原理や法則などを明確にするのには、人間理性は真に貴重な能力ですが、人の心とその言行の価値や、神と人との内的関係など、およそ奥底の心の愛と深く関係している事柄については、何か不動の原理や規則を措定して自主的に考える人間理性は、本来多種多様に創造されている心と心との間に、分裂や対立を産み出し易いと思います。それで、この第二朗読に述べられているように、何事も神の愛と神の御旨中心に考え生きようとするのが、極度の多様化世界になりつつある現代においても、平和と一致を産み出す道なのではないでしょうか。キリストの愛に結ばれて新しく創造された存在となっている私たちは、その新しい道を世に証しする使命を持っていると思います。
⑥ 本日の福音は、群衆に種まきの譬え話やからし種の譬え話をなさっていたガリラヤの地から、主イエスが夕方に「向こう岸に渡ろう」と弟子たちにおっしゃって、群衆を後に残し、二艘の舟でゲラサ人たちの地に向かって湖を横切った時の話であります。以前にも話したことですが、ガリラヤ湖は海面下210mほどの低い所にあって地熱の影響を受けるからなのか、日照りの日には温かくなった空気が上昇して、湖上の空気は希薄になります。そこへ夜間に外の世界からの冷たい強風が湖周辺の高い山々を越えて吹き始めると、その風は空気の希薄なガリラヤ湖の上で、落とし穴にでも落ち込むようにして上から湖に吹き降ろす突風となり、波が上下に激しくなるので、小船は一時的に水浸しになることもあるのだそうです。マルコ福音書はその情景を描写しているのだと思います。このような突然の危機的状態にまだ慣れていないある弟子たちは余ほど驚いたようで、艫(とも)の方で枕をして眠っておられた主イエスを揺り起こし、「先生、私たちが溺れても構わないのですか」と叫びました。
⑦ そこで主がすぐに立ち上がって風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」とお命じになると、急に風は止み、大なぎになりました。風が止んでも波はすぐには凪にならないのが常ですから、これは二つの大きな奇跡だと思います。驚いた弟子たちに主は、「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか」とお叱りになりました。こういう突然の変化に多少は慣れていたガリラヤの専業漁夫たちも、この大凪には非常に驚いたと思います。彼らは「いったい、この方は誰だろう。風や海さえも従うとは」と、互いに言い合ったとあります。もし私たちがその場にいたとしたら、同様に非常に驚いたことでしょう。しかし、自然界に対してそのような絶対的影響力を保持しておられる主が、目には見えなくても今も私たちと共にいて下さるのです。そして私たちがこの主の現存に対する絶対的信仰と信頼を堅持し、その信頼の内に日々生活することを求めておられるのではないでしょうか。
⑧ 第一朗読に登場したヨブは、神がご自身のなされた数々の驚くべき御業について語られるのを傾聴している内に、奥底の心の眼がゆっくりと目覚めて来て、神の恵みを豊かに受けるに至ったようですが、私たちも、大宇宙に比べるなら蟻子のように小さな人間たちの考えや言い分などにばかり注目していないで、もっと大きく神の声なき声に心の耳を傾けながら、打ち続く苦悩と不安の最中にあっても、神への信頼に力強く生き抜くよう心がけましょう。