2009年6月7日日曜日

説教集B年: 2006年6月11日、三位一体の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 4: 32~34, 39~40. Ⅱ. ローマ 8: 14~17.  
  Ⅲ. マタイ福音 28: 16~20.


① 本日の第一朗読は申命記4章からの引用ですが、この申命記4章には、約束の地カナアンを目前にして神の民イスラエルに語った、モーセの遺言と言ってもよいような詳細な勧告と警告の言葉が読まれます。「イスラエルよ、今私が教える掟と法を忠実に行いなさい」という言葉で始まるその前半部分には、日本語で「忘れないように自分に十分気をつけなさい」あるいは「自らよく注意しない」、「自ら慎みなさい」などといろいろに訳されている警告の言葉が、三度も言われています。高齢のモーセは約束の地を遠くから眺めて死ぬのですが、約束の地に定住した神の民が異教徒カナアン人たちの祭に参加したり、この世の技術や富を身につけて神により頼まなくなったりして、真の神から離れて行かないよう厳しく警告したのだと思います。第一朗読は、その長い警告の言葉に続く後半部分からの引用で、モーセはここで、神が人間を創造された最初の時代から話を起こし、まず神がご自身の民としてお選びになったイスラエルが目撃した数々の大きな恐るべき業を想起させています。「火の中から語られる神の声」という言葉は、一週間前にも申しましたように、神が大きな火に包まれてシナイ山に降り、全山が火の煙に包まれて激しく震動した時の雷鳴のような恐ろしい神の声、民が恐れて遠くに退いた時の神の声を指していると思います。エジプトで、また荒れ野の旅の途中で神の見せて下さった多くの奇跡も、他のどんな国民も見たことのない大きな恐るべき出来事でした。イスラエルはその力強い神を味方にし、その神と契約を結んでいることを片時も忘れないように、というのがモーセの願いであり、遺言であると思います。「天においても地においても、主こそ神であり、他に神のいないことをわきまえ」「今日私が命じる掟と戒めを守りなさい。そうすれば、あなたもあなたに続く子孫も幸いを得、あなたの神・主がとこしえに与えられる土地で長く生きる」と、モーセは最後に断言しています。
② 人や社会に対して何も悪いことはしていないのに、自分にだけ不幸が降りかかると絶望的になって、神も仏も信用しないという捨て鉢の気持ちになり、神を見失うということもありましょうが、それ以上に多いのは、豊かさと便利さに包まれていて、神を忘れ神から離れて行くことだと思います。晩年のモーセが一番心配したのは、神の民が豊かさの中で神を忘れ、神から離れてしまうことだったのではないでしょうか。この危険は、現代文明の豊かさの中で生活している私たちにもあります。現代社会の大きな豊かさはすべて神よりのものですが、しかし、神を忘れ神を見失う時、私たちの心を自分の欲望中心、人間の考え中心、この世での成功中心の生き方へと誘惑し、堕落させて行く恐ろしい罠にもなり兼ねません。非常に多くの現代人がその隠れた罠にかかって、孤独の内に自力でもだえ苦しんでいるのではないでしょうか。私たちも気をつけましょう。豊かさに恵まれれば恵まれるほど、感謝の内に一層しっかりと神の御旨中心に、神の僕・神の婢として生きる決意を新たに致しましょう。「自分はもう大丈夫」などという慢心は、危険です。悪魔は、神の御独り子をも誘惑しようとします。西洋には「最も高潔な魂は最も多く誘惑される」という言葉もあります。「自分の心に気をつけなさい」という、モーセの警告を忘れないよう心がけましょう。
③ 本日の第二朗読は、私がこれまでにも好んで利用することの多いローマ書8章からの引用ですが、本日の短い引用箇所は「神の霊によって導かれる者は皆、神の子です」という言葉から始まっています。神の御独り子の受肉によって始まった新約時代に、新たに神の民として生きるよう召された人類は、もうモーセの時代の民のように、神を恐れて遠くに離れていようとしてはなりません。神の霊によって、いわば神の家族にされたのですから。ここで言われている神は、三位一体の神だと思います。私たちの魂を神の霊の神殿となして留まっていて下さるこの霊は、私たちが神の子供であることを証しして下さるので、私たちはこの霊によって、天の父なる神を幼子のように素直な親しみの心で「アッバ、父よ」と呼ぶことができ、また神の独り子キリストと共同の相続人となって、すなわち主キリストの体の細胞のようになって、全能の神の計り知れない財産にも参与するようになるのです。私たち人間に対する三位一体の神のこの絶大な愛に対してはただ驚嘆するばかりですが、それが神の御旨なら、私たちも全身全霊を尽くして神の慈しみに感謝し、神の愛を讃えつつ、神の御旨中心に生活するよう努めましょう。
④ 計り知れない神の慈しみの大きさや深さに感嘆しつつ、神への愛に力強く生きていた聖人の一人は、聖アウグスティヌスであります。「主こそわが誉れよ」の言葉で始まるカトリック聖歌13番の神を讃える歌詞は、最後に括弧で包んで「聖アウグスティヌスの言葉より」とある通り、この偉大な聖人の心を如実に表明していると思います。彼は、「聖歌は祈りの言葉よりも早く天に昇る」などと話していたそうですから、日々力強く神への讃美を歌っていたのではないでしょうか。その聖人に ”De Musica” (音楽について) という著作のあることは、かなり以前の頃から知っていましたが、私の専門外の著作なので調べようとはせず、恐らく一つの opusculum (小冊子) であろう、と考えていました。しかし、この5月にふとした出来心から、図書館にあるラテン教父全集を開いてその著作を調べてみましたら、小冊子ではなく、邦訳してA 5判の本にしたら150ページぐらいに成ると思われる程の、かなり詳しい著作でした。内容は6巻に分かれていて、師匠と弟子との問答形式になっていますが、次第に師匠の解説する話が長くなって行きます。ラテン語の専門的音楽用語も多いので、専門家でない私には理解できないことが非常に多いですが、一応全体を通覧して見た印象では、アウグスティヌスは音楽を scientia bene modulandi (よく曲づけする学問) と定義しながら、その音楽を器楽や声楽だけではなく、詩歌の韻律や踊りのリズムや、その他およそ神から創造された全ての被造物の生き方、動きのリズムとハーモニーまでも含む、非常に広い意味で考えているようなのです。察するにアウグスティヌスは、惑星の運行や無数の星たちの知性的数理的動きを眺めながら、あるいは草花や鳥たちを観察しながら、それらの多種多様の存在や動きの中に、神を讃える宇宙的音楽を鋭敏に感じ取っていたのかも知れません。
⑤ 私はこの著作を通覧してから、10年程前に名古屋で聴いたバッハ音楽の専門家杉山好氏の講演を懐かしく思い出しました。杉山氏の研究によると、バッハの音楽は数理的に実に細かくまた美しく構成されています。バッハはそれを自分でもはっきりと自覚しながら、全ての楽譜に「神の栄光のために」とラテン語で書き込み、神を讃えるために作曲していたようです。ガリレオ・ガリレイも、自然界の全ての現象の中に神から与えられた数理的法則性や隠れている神の啓示を感じていて、「神は聖書の啓示のほかに、大自然界を通しても多くのことを人類に啓示しておられる。私はそれを見出そうとしているのだ」と話していましたが、被造物世界の秩序を一種の巨大な音楽として眺めるこのような美しい宇宙観の流れは、18世紀の理知的啓蒙主義によって痛めつけられながらも、少なくとも19世紀初頭の詩人ゲーテや音楽家ベートーベンの頃までは、まだ神信仰と結ばれて続いていたのではないでしょうか。「作品は作者を表わす」と申しますから、私は、この大規模な宇宙的音楽を産み出して下さった三位一体の共同体的神の内部には、ペルソナ相互の間に遥かに美しい愛のメロディーが絶え間なく奏でられているのではないかと想像しています。主イエスにおいて神の子とされ、その家族的愛の交わりに参与させて戴いている私たちの魂にも、神の愛のメロディーに共鳴する能力が授与されていると信じます。三位一体の祝日に当たり、私たちの魂に隠れているこの音楽的感性が目覚めて一層鋭敏になり、日々神の愛の音楽に参与する恵みを願い求めて、本日の感謝の祭儀を献げましょう。
⑥ 本日の第二朗読には、「私たちは神の子の霊を受けたのです。この霊によって『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とありますが、私はこの言葉を読むと、自分のノドや口を何か生きているマイクのように考えてしまいます。そして心から神の生きている道具となって皆と一緒に祈ったり歌ったりしていると、つたないその祈りや歌の中に、天上の祈りや歌が共鳴して来るように感じたり、 聖三位の御父の霊と御子の霊とが、私たちの祈りと歌を交流の場としておられるように感じたりすることがあります。カトリック聖歌集の13番は、「主こそわが誉れよ、輝く光よ」「いのちよ、喜びよ、力よ、助けよ」と、自分を内面から生かし使って下さる方として、神をほめたたえていますが、感性豊かなアウグスティヌスも、きっと自分の祈りや歌の中に天上の祈りや合唱が共鳴して来るのを感じ取っていたのではないでしょうか。聖三位一体の同じ一つの霊が全被造物の中でそのような美しい音楽を奏で、それを私たちの心にも感じさせてくれるのだと思います。
⑦ 本日の福音には、死ぬことのないあの世の命に復活なされた主が、予め指示しておかれたガリラヤの山で、弟子たちに出現して話されたお言葉が読まれますが、主がその中で「全ての民を私の弟子にしなさい」と命じておられることは、注目に値します。「教えなさい」と命じられたのではありません。無学なガリラヤの漁夫たちは、いくら聖霊の賜物によって心が満たされ強められたといっても、言語の違う世界に行けば、話すにしても書くにしても、言葉に不自由を感じたでしょうし、ましてや自分たちよりも遥かに教養の高い文化人たちに教えるなどということは、できなかったと思われます。しかし、自分の見聞きした体験から目撃証人として語り、その証言を聴いた世界各地の文化人も、それぞれ自分たちなりに提供された神の救いに心を大きく開き、主キリストの弟子となって生き始めることは可能だと思います。主のお言葉は、このことを指しているのだと思います。そして神による救いに心を開く人たちには、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、その魂を三位一体の愛の交わりに参与させ、弟子たちに命じて置いたことを全て守るように教えなさい、というのが主のご命令だと思います。これなら、無学な漁夫たちにも実践可能な命令だと思います。このようにして神の子の命に参与する人々と共に、主は世の終りまでいつも共にいるというのが、主のお約束だと考えます。
⑧ 私が、無学なガリラヤの漁夫たちは年齢が進んでから布教に行った諸外国では、協力者の援助を受けながら働いたのであって、ギリシャ語圏育ちの使徒パウロやバルナバらのようにではなく、言葉については最後まで多少の不自由を感じていたのではないかと考えたのは、例えばヨハネ福音書の最後に、「これらのことを証しし書き記したのは、この弟子である。そして私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」というような言葉を読んだからであります。主の弟子たちの中でもヨハネは一番長生きしていますし、察するに一番若いガリラヤ出身者であったと思われますから、他の漁夫たちよりも上手にギリシャ語を話したと思われます。それでも、晩年に書き上げられたと思われるその美しいギリシャ語福音書は、ギリシャ語に堪能な協力者たちの助けで出来上がったのではないでしょうか。ただ今の引用文で「この弟子」あるいは「彼の証し」とあるのは、ヨハネのことでしょうが、「私たちは」とあるのは、その協力者たちを指していると思います。聖霊降臨の日に異なる言葉の恵みを豊かに受けた使徒ヨハネではありますが、聖霊はギリシャの文化人が話したり書いたりする程には、彼に言語の恵みを授けなかったように見えます。欧米や日本などの先進諸国で司祭志願者が激減していることを思うと、そう遠くない将来の先進国では、その国の言語に堪能でない司祭たちが、先進諸国の教会を指導するようになるかも知れません。しかし、その司祭たちの魂が三位一体の神との内的交わりに参与しているようであるなら、心配いりません。主が協力者たちの中でも働いて、いつも教会共同体を危険から護り、正しく導いて下さると信じます。ただ私たち各人が、神との内的交わりから離れることのないよう気をつけましょう。