2012年7月8日日曜日

説教集B年:2009年間第14主日(三ケ日)



朗読聖書: . エゼキエル 2: 2~5.     Ⅱ. コリント後 12: 7b~10.  
   . マルコ福音 6: 1~6.

   本日の第二朗読には、「私は弱い時にこそ強い」という言葉が読まれますが、これは使徒パウロの数多くの体験に基づく確信であったと思われます。現代の私たちの教会も、全てが比較的落ち着いていた昔の時代の教会に比べると、グロバール時代、全地球化時代を迎えて、日々世界中の無数の情報、社会情勢・社会不安などの情報が、リアルタイムで信徒各人に届いて各人の心を動かし支配しているため、一般社会に流通している極度の多様化・流動化の流れにもまれて、恐ろしいほど一致団結の力を弱めていると思います。しかし、神信仰なしに人間の自力に頼ってもがいている、一般社会の考え方が私たちの心を支配して弱らせ勝ちなこのような不信の流れに雄々しく抵抗して、神の働きに対する私たち神の僕・婢としての信仰と信頼を若返らせ、揺るがないものとするなら、私たちも小さいながら使徒パウロのように、自分の弱さを厭わず、復活の主キリストの来世的命の力に支えられて、強く雄々しく生きるように為れるのではないでしょうか。恐れてはなりません。全能の神の力は、私たちの数々の弱さの中でも、神への信仰と信頼にしっかりと立って希望と勇気に輝いているなら、十分に発揮されることでしょう。使徒パウロに倣って、私たちも自分の弱さと行き詰まり状態の最中にあって、「むしろ大いに喜んで」その弱さを誇りとし、ひたすら神に眼を向け、信仰と信頼に励んでいましょう。「キリストの力が」一層豊かに私たちの内に宿るように。

   意図的に少し時代遅れのような生き方をしている私の考えは、現代人にはあまり理解されないかも知れませんが、しかし、時代遅れのこういう特殊な観点に立って私の見聞きしている体験から、特に現代の若い人たちに警告して置きたいこともあります。少し我慢して聞いて下さい。私は、1960年代の終わりごろにわが国で初めてワープロが売り出された時から、南山大学から支給される補助金を利用し、数回買換えながらワープロだけは今も愛用しています。一番最初に売り出された試験的プロッピーは1枚2万円でした。ちょうどその時ドイツ語から期限付きで急いで邦訳していた、ある文書の添削収蔵のためそのフロッピーを買いましたが、その三か月後にはもっと多く入るフロッピーが、遥かに安い値で大量に売り出されるようになりました。そんな失敗も体験しつつ、しかし、ワープロの発明で手書きの何倍も多く仕事をなすことができたことに、私は現代文明の恩恵に深く感謝しています。

   1970年代に入ると電話機も変わり、数字を指で押してかける電話機が一般的になりましたが、その時なぜか私は、自分の個室にある数字を時計回りに回してかける「古い電話機はまだ使えるので」と答えて、敢えて新しいタイプの電話機に変えませんでした。これが、私が時代遅れの人間になる始めでした。そのすぐ後に売りに出されたワープロには、他のワープロと電話回線で結んで画面や情報を交換できる機能も備わっていましたが、そのためには新しいタイプの電話機に繋ぐ必要がありました。しかし、今だに古い電話機を使い続けている私は、この新しい機能を全く使っていません。ワープロはただ自分が何かを書くため書いたものを保存するために、使っているだけですから。その後まもなく携帯電話機やインターネットの機器も売りに出され、その便利さ故に急速に普及して、今ではほとんどの人が、それらを生活必需品のようにして子供の時から使用していると思います。

   しかし、私は今だに敢えてそれらの文明の利器を持とうとしていません。必要な資料や情報を入手するという点では、他の人たちより時間も苦労もかかりますが、それには既に数十年前から慣れていますので、それほど苦になりません。ただこうして、一般の人たちより多少時代遅れの生き方を続けるようになりましたら、いろいろの便利さの陰にある現代人の新たな苦労や危険、あるいは現代人の心の働きのマイナス面などについて、違う流れに立つ者として学ぶことが多くなり、その意味では、神は私を敢えてこの道へとお導きになったのではないかなどと、心密かに感謝しています。というのは、陰ながらそっと観察していますと、日々頻繁に携帯やネットを利用している人たちは、ある意味でそれらの機器を通して流入する呼びかけや情報の奴隷のようにされている、と思われることが少なくないからです。それらの機器の背後にある目に見えない相手が皆良い人とは限りませんので、文明の利器が犯罪に利用されるケースも多いようです。一人前の司祭がそういう犯罪などに巻き込まれることはまずないでしょうが、しかし、外界からの頻繁な呼びかけや問い合わせなどに時間を奪われ、悩まされている司祭たちもいるのではないでしょうか。その点、そういう文明の利器を持たない私は、昔の修道者たちのように、自分に与えられている時間を、束縛なく自由に神と人とに使うことができ、仕合わせであると感じています。

   さらにもう一つ思うことは、日々ネットや携帯に半分束縛されるようにして生活している現代人の中には、それだけ、自然界の動植物にじかに接触して感動したり、苦労して学んだりすることも少なくて、人間理性が勝手に作り上げた半分バーチャルな世界に生きている人が多いのではなかろうか、というような不安であります。「誰でもいいから殺して見たかった」などと、悪気もなく話す最近の犯罪者たちの言葉を聞くと、その人たちは、人間を半分バーチャルな世界に生活させる現代文明の利器の犠牲者なのではないのか、と考えさせられます。苦労して生きている人たちの涙ぐましい心情や、愛する人たちに後事を託して死んで行く人たちの心情に直に触れて、自分が神から受けているこの貴重な人生の意味などについて考える機会が全く与えられなかったのではないか、と考えさせられます。ネット空間に生きている現代の学生たちが、次々と簡単に卒業論文を仕上げるのを見る時も、この人たちの脳の働きは、インターネットに順応して与えられた資料を巧みに利用するよう変化しており、昔の研究者たちのように苦しい体や観察の苦労から新しい真理や原理を自分で発見する喜びは知らないのではなかろうか、などと考えさせられます。数多くの古典など故人の著作を、何時間もかけてこつこつ読み解く意欲もないのではないでしょうか。それでは、現代の文明もやがて巨大な海流だけのような単なる人工的流れと化してしまい、神を目指した進歩も発展もない無意味なものとなって、神によって内部から崩壊させられてしまうのではないでしょうか。本日の福音に述べられている、故郷ナザレの人々から受け入れられない主イエスの御心境を偲びつつ、現代文明や現代社会の抱えている内的問題についての危機感を新たにし、神の憐れみを願い求めましょう。