2012年7月15日日曜日

説教集B年:2009年間第15主日(宝塚市売布の修道院で)



朗読聖書: . アモス 7: 12~15.     Ⅱ. エフェソ 1: 3~14.  
   . マルコ福音 6: 7~13.

   キリストという言葉を幾度も登場させている本日の第二朗読、すなわちエフェソ書の第1章は、キリストにおいて豊かに与えられた恵み故に父なる神を讃える、初代教会の荘厳な讃歌であったと思います。古来多くの聖人賢者たちも、深い感激のうちにこの讃歌を愛唱して来ましたが、私たちもそれに倣って、この素晴らしい信仰の遺産を大切にし、私たちの心が日々その深遠な神信仰と感謝の思想に満たされ養われるように心がけましょう。私たちの神は、毎日そのようにして神とその創造の御業、救いの御業を讃えつつ、大きな喜びの内に感謝と信頼の心で生きる人には、特別に恵み深いように思われます。私はこれまで数十年間の修道生活・司祭生活において、自分が見聞きした数多くの出来事を回顧しつつ、今はそのように確信しています。しかし残念ながら、第二バチカン公会議の頃から急速に発展した現代文明の、黒潮のように巨大なグロバール化、全地球化の流れに巻き込まれ押し流されて、信仰あるカトリック者であっても、日々心の底から喜んで神に感謝の讃歌を捧げている単純素朴な人たちは、非常に少なくなっているようです。主キリスト以来の聖人たちが実践していた、明るい希望と喜びと若さに輝く信仰生活の伝統も、現代のキリスト者たちの中では老化し形骸化して、ふ抜けたものになっているように見えます。残念でなりません。

   そこで本日は、現代の多くの人の心を弱くしていると思われるマイナス面について、ご一緒に少し考えてみたいと思います。私は自分で持たず使っていないのでよく判りませんが、日々頻繁にインターネットや携帯電話を利用している現代人の中には、心がある意味でそれらの文明の機器を通して流入する無数の呼びかけや情報の、言葉は悪いですが、奴隷のようになっている人が少なくないのではないでしょうか。まだ南山大学で教えていた10年前頃に、一部の学生たちの間で、既に「携帯依存症」や「ネット依存症」という言葉が囁かれていたのを耳にしたことがあります。教室での講義が終わって屋外に出た途端に、いつも携帯電話を取り出し、誰かと話し合うのが習慣的になっているような学生たちも、多く見かけました。

   最近の研究によると、そのように頻繁に携帯やインターネットを利用し、依存症のようになっていると、頭の脳の働き方が違って来ることが明らかにされています。私の体験から申しますと、私は子供の頃はソロバンが得意で、大きくなっても足し算・引き算の暗算は比較的速く正しく為していました。ところが、簡便な計算機が普及してそれを利用するようになりましたら、たちまち暗算能力が衰え、働かなくなってしまいました。暗算しようとしても、頭が働いてくれないのです。また長年ワープロで手紙や論文を書いていましたら、昔はよく知っていた漢字も思い出せなくなり、手書きできないことが多くなってしまいました。昔覚えた漢字は皆頭脳の奥に記憶されており、難しい漢字でも読むことはできるのですが、いざそれを書くとなると、頭のシステムが働いてくれず、その漢字を呼び出せないのです。同様のことが、現代文明の利器を日々頻繁に利用している人たちの中でも起こっているのではないでしょうか。

   インターネットは情報収集や検索などには非常に便利で、現代では必需品だと思います。しかし、人間が造ったその便利さ一辺倒の生活をするのではなく、同時に汗水流して草取りしたり、自然の動植物の世話をしたりして自分の体験から学ぶこと、日々苦労し失敗を重ねて小さな新しい発見をすること、あるいは自分で実際に古い文学書や歴史書などをめくって、こつこつと昔の人たちの業績に学び、自分独自の新しい発見を積み重ねること、自分の頭脳のそういう側面、すなわち自分で苦労や失敗を重ねながら見出し、独自のものを創り上げて行くという能力も、同時に共存させて磨いて行くという二つのことが、大切なのではないでしょうか。私たち人間は皆、二つの足で立って歩くよう創られています。現代文明の利器一つに頼って生活するのではなく、同時の古来の伝統文化や伝統的生き方も大切にしながら、バランスよく生活するよう心がけましょう。

   最近「誰でもいいから殺して見たかった」などと悪気もなく平気で話している犯罪者たちの言葉を聞くと、その人たちは理知的な人間理性が勝手に作り上げた半分バーチャルな情報世界の中だけで生きている、現代文明の犠牲者なのではなかろうか、などと考えさせられます。苦労して一生懸命生きている人たちの涙ぐましい心情や、愛する人たちに後事を託して死んで行く人たちの切実な心情などに直にふれて、自分が神から受けているこの貴重な人生の意味などについて考える機会が全く与えられなかったのではなかろうか、などとも考えさせれます。ネット空間に生きている現代の学生たちが、次々と簡単に卒業論文を仕上げるのを見るにつけても、この人たちの脳の働きは、インターネットを介して与えられる資料を巧みに利用するよう変革されており、昔の研究者たちのように、苦しい体験や観察の苦労から新しい真理や原理を自分で発見する喜びは知らないのではなかろうか、などと考えてしまいます。現代のそのような人たちには、数多くの古典や故人の労作などを、忍耐強くこつこつと読む意欲もないのではないでしょうか。それでは、現代文明も巨大な海流だけのような、滅び行く単なるこの世の流れと化してしまい、神目指して発展上昇しようとしないため、やがて神ご自身によって内部から崩壊させられてしまうと思います。神信仰と人間の福祉という二つの目標のどちらをもバランスよく大切にしようとせず、人間中心の便利さ・豊かさだけを一方的に追い求めるこのような偏った現代文明の陰には、密かに無数の悪霊が働いていると思います。昔には思いもしないような凶悪事件が最近多発しているのは、そのような悪霊が人の心にのり移るからだと思われますが、同時にあまりにも知識や情報に偏った現代文明によって心の教育も乱され、バランスを失って来ている証拠だと思います。この恐ろしい不足面を、心に銘記していましょう。

   主は本日の福音の中で弟子たちを宣教に派遣なさるに当たり、かなり厳しい清貧を彼らに命じておられます。アシジの聖フランシスコ程の徹底した清貧愛に生きなくても、ある程度無駄使いを賢明に避けて、清貧と節制に心掛ける時に、神の霊が私たちの内に生き生きと目覚ましく働き出し、豊かさの内に生きる現代人の心を真の真理へと目覚めさせ悔い改めさせて、救いの恵みへと導くことができるのではないでしょうか。溢れる便利さ・豊かさの中で自分の心のバランスが取れなくなり、救いの道を求めて悩んでいる多くの現代人たちのため、そのような目覚めの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。