2012年7月22日日曜日

説教集B年:2009年間第16主日(三ケ日)



朗読聖書: . エレミヤ 23: 1~6.     Ⅱ. エフェソ 2: 13~18.  
   . マルコ福音 6: 30~34.

   使徒パウロは本日の第二朗読に、「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」などと述べていますが、ここで「二つのもの」とあるのは、その直前に述べられている文脈からしますと、律法を持つ旧約の神の民イスラエルと、律法を知らない異邦人たちを指していま本日の第一朗読によりますと、天に上げられた神の人エリヤから、その預言者的権能を受け継いだ神の人エリシャも、パン20個を百人の人々に食べさせた奇跡を為しています。エリコに近いギルガルの人々が飢饉に見舞われて苦しも、信仰を失わずに敬虔に生活していたその男の人は、神の人エリシャの助けを求めて、その初物を持参したのだと思います。信仰に生きるイスラエル人たちは、神の恵みによって収穫した穀物の初物は、感謝の印に神に献げるべき最上のものと考えていましたから、それを預言者エリシャを介して神に献げようとしたのかも知れません。一人の人が袋に入れて持参した少量の供え物だったでしょうが、それを受け取った神の人はすぐに、「人々に与えて食べさせなさい」と召使たちに命じました。召使たちは驚いたと思います。「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えましたが、エリシャは再び命じて、「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる『彼らは食べきれずに残す』」と言いました。それで、召使たちがそれを配ったところ、主のお言葉通り、人々は飢えていたのに、それを全部食べきれずに残してしまいました。

    す。ところで、主が山上の説教の中で「私が律法や預言者を廃するために来た、思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである」(マタイ 5: 17) と話しておられるお言葉を考慮しますと、旧約の神の民に授けられた律法、そして今もユダヤ人たちが真面目に遵守している律法は、始めから無用の長物だったのだ、と考えてはなりません。福音の恵みを深く悟り、神の求めておられる実を豊かに結ぶためには、自分に死んで神中心に生きさせようとする、厳しい律法の世界を通る必要があったと思います。律法んでいた時、一人の男の人が、その地を訪れた神の人エリシャの許に、初物の大麦のパン20個と新しい穀物とを、袋に入れて持って来ました。為政者側の政策でバアル信仰が広まり、真の神に対する信仰が住民の間に弱められていた紀元前9世紀頃の話です。飢饉という恐ろしい自然災害に直面しての遵守は、荒地を開墾する作業のようなものだと思います。

   旧約の神の民は、幾度も神に背き預言者たちに叱責されながらも、曲がりなりにも新しい神の恵みの種が成長し実を結ぶための農耕地を準備して来ました。こうして準備されて来たユダヤの土地に、神は約束しておられた救い主を派遣なさいましたが、2千年前頃のギリシャ・ローマ文明による商工業の発達や国際的シルクロード貿易、並びに戦争のない時代が非常に長期間続き、どこに行ってもローマの法規・ローマの通貨、そしてギリシャ語が国際的に通用するようになると、ギリシャ語に翻訳されたユダヤ人の聖書も多くの国々の人たちに読まれるようになって、エルサレム神殿の祭礼にエチオピアの女王カンダケの高官まで、その聖書を読みながら参列するなど、メシアがお出でになった頃のエルサレムの町は、毎年大勢の異邦人たちの来訪で豊かになり、繁栄していました。もしも当時のユダヤ教の代表者たちが、神よりのものにあくまでも謙虚に従う預言者的精神でそのメシアを受け入れ、メシアの御声に聴き従おうとしていたなら、ユダヤ人も無数の異邦人たちも、共にメシアによる救いの恵みに生かされて神を讃える、唯一の新しいキリスト教会を構成していたことでしょう。そして善き牧者キリストが、それまで分かれ分かれになっていたユダヤ人と異邦人という、二つの大きな群れをまた全人類を、一つの群れとなして神の国へと導いて下さったことでしょう。

   事実はしかし、首都エルサレムの繁栄と豊かさと国際的誇りの内に生活していたユダヤ教の代表者たちは、東方の博士たちが星の徴に教えられて、お生まれになったメシアを拝みに来た時も、メシアがそろそろベトレヘムにお生まれになることは聖書から知っていながら、自分たちの繁栄を支えてくれていたヘロデ大王から疑いをかけられないためか、敢えてそのメシアを探して拝みに行こうとはせず、その後も民間で貧しく生活しておられるメシアに対しては、いつも冷たい否定的態度を取り続けていました。ファリサイ派の律法学者たちは聖書研究の専門家でしたが、もしナザレのイエスが神が約束なされたメシアであるなら、いつか世界の国々に勝利を収め、ユダヤ人たちを尚一層豊かに繁栄させてくれるであろう、その兆候が明確になるまでは、貧しく生活する田舎者イエスがメシアだとは思われないなどと、この世の人間的価値観を中心にして考えていたのかも知れません。彼らがこの世的繁栄と豊かさの中で、神の働きに対する信仰と愛のセンスも従順心も鈍らせ、神の御子メシアに冷たい態度をとり続けていましたら、その心に悪魔が住み着いて、彼らの考えを誤謬へと導いたのでしょうか、彼らはついにメシアを断罪し、その後は豊かに繁栄していた祖国も失って、ユダヤ人を世界中に流浪する民としてしまいました。

   現代文明による繁栄と豊かさの中で生活している私たちも、気をつけましょう。ルカ福音書12章によりますと、主はかつて弟子たちに、「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい。それは偽善である」と厳しく警告なさいました。当時のファリサイ派の人たちは、人間的には神のため、ユダヤ教のため、聖書研究やおきての順守・民衆の教育などに励んでいた宗教者たちでした。主がその人たちに警戒するよう警告なされたのは、彼らがこの世の人間理性中心の立場で全てを考え、その人間中心の立場から神のため・宗教のため・人々のために尽力するだけで、隠れた所におられて呼びかけて止まない神の御声に謙虚に従おうとする、我なしの預言者的信仰の立場で、新たに考え、新たに生きようとはしていなかったからだと思われます。このようなファリサイ派の立場で聖書を研究し、神のため・教会のため・社会のために働こうとしている人たちは、現代の教会にもたくさんいます。それではいつまで経っても、復活の主キリストの救いの力がキリスト教会の中で存分に働き、豊かな実を結ばせることができないと思います。使徒パウロは、そういうファリサイ派の生き方から主キリストに徹底的に従う生き方へと転向したお蔭で、実に豊かな実を結ぶことができました。我なし・神中心・キリスト中心のその生き方に、現代の私たちも見習いましょう。

   60年前の聖フランシスコ・ザビエル来日四百年祭をお祝いした頃の日本では、一時的に非常に多くの人が教会を訪れ、実際に多くの人が洗礼を受けました。しかし、朝鮮戦争後に日本人の生活が豊かになり始めると、教会に来なくなる人が増え、その後の日本人キリスト者数の増加は芳しくありません。昨年の統計では、プロテスタント62万、カトリック48万、ハリストス3万、合計113万人でしかなく、日本の人口の1%にも届きません。お隣の韓国では、朝鮮戦争後にも北朝鮮襲来の危機が続いたら、わずか20年間で全人口の25%、1千万人にまでキリスト者数が増えていますし、現在の中国でも昨年公開された民間の調査によると、全人口の5%、5千万人以上のキリスト者がいることが明らかになっています。わが国でキリスト者が少ないのは、繁栄と豊かさの中で強まる理知的なファリサイズムのためなのではないでしょうか。一年間「パウロ年」を祝って記念した使徒パウロの生き方に学んで、今お祝いしている「司祭年」に当たり、カトリック者たちが現代世界に生きるための神信仰の新しい道を見出し、神の働きに根ざした豊かな成果を挙げるようにと、現教皇は強く望んでおられるのではないでしょうか。わが国で働く司祭・修道者・宣教者たちの内心生活のため、本日のミサ聖祭を捧げて祈りたいと思います。...