2012年8月12日日曜日

説教集B年:2009年間第19主日(三ケ日)


朗読聖書: . 列王記上 19: 4~8.     Ⅱ. エフェソ 4: 30~ 5: 2.  
   . ヨハネ福音 6: 41~51.

   本日の第一朗読には、天使から与えられたパンと飲み物に力づけられたエリヤが、「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」と記されていますが、ここで「四十日四十夜」とあるのは文学的表現で、その言葉通り四十日四十夜も歩き続けたという意味ではないと思います。神の山ホレブ、すなわちシナイ山は、エルサレムから直線で400キロ程の所にある山ですから、荒れ野のどの位置から歩き始めたのか分かりませんが、一日に40キロずつ歩いたとしても、十日程で到着したと思います。聖書はただ、その遠い荒れ野の道を、天使から二回に分けて与えられた食べ物と飲み物から得た力で歩き通したことを、強調しているのだと思います。後述する福音の中で主は、「私の与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」と、暗に主のご聖体のことを指して話しておられますが、私たちが日々拝領するご聖体の中にも、預言者エリヤに与えられた天使のパンと飲み物に勝る、もっと遥かに大きな力が込められているのではないでしょうか。神から提供されているこのパンに込められている神秘な力に対する信仰と信頼を新たにしましょう。

   本日の第二朗読には、「あなた方は神に愛されているのですから、神に倣う者となりなさい」という勧めの言葉があります。山上の説教の中にある「天の父のように完全でありなさい」という主イエスのお言葉と共に、心に銘記していましょう。しかし、これらの勧めの中で「神に倣う者」や「完全」とある言葉を、道徳的に落ち度も欠点もない人格者というようなこの世的意味で受け止めないよう気をつけましょう。それは、私たちを神の子として下さった神の無償の愛の中で、絶えず神の視線を肌で感じながら、全く神の御旨のみを中心として生活しなさい、という意味だと思います。父なる神の愛の御旨を身をもって世の人々に啓示して下さった主イエスご自身も、神の聖霊に内面から生かされつつ、何よりも神の子としての従順を体現するよう心掛けておられたのですから。私たちもその主と一致して、「神に愛されている子供」「神に倣う者」としての生き方を、神の聖霊に生かされ導かれて為すよう日々励みましょう。

   本日の福音は一週間前の主日の福音と同様、主によるパンの奇跡を体験したユダヤ人たちに、主がその翌日に話された長い話の続きであります。本日の福音箇所には、「私はパンである」という主のお言葉が二回読まれます。最初の41節と中ほどの48節にです。そこで仮に最初から47節までを前半、それ以降を後半としますと、前半ではイエスを神から遣わされて来た方として信じ、受け入れるか否かが問題とされており、後半ではそのイエスを受け入れる人、すなわち「天から降って来たパン」を食べる人が受ける恵みについての話である、と言ってもよいと思います。
   前日湖の向こう岸で5千人もの群衆にパンを食べさせるという大きな奇跡をなされた主が、その奇跡を目撃したユダヤ人たちに前半で、「私は天から降って来たパンである」と話し、彼らから主の本質に対する信仰をお求めになると、彼らのうちの一部はナザレから来ていた人たちだったようで、すぐに「これはヨゼフの息子ではないか。我々はその父母も知っている。なぜ今『天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき始めました。この世で体験する不思議な出来事の背後に神の働きばかりでなく、神の御旨、神のお望みをも感じ取り、感謝の心で神に従おうとしていないからだと思います。神の為さった神秘な御業を、これまでの視野の狭い不完全な世間的人間の尺度で受け止めるから、そんな批判の言葉が飛び出すのだと思います。

   そこで主は、「つぶやき合うのは止めなさい」と答え、「私をお遣わしになった父が引き寄せて下さらないなら、誰も私の許へは来ることができない (が、私は私の許に来る人を) 終りの日に復活させる。云々」と、預言者の言葉も引用なさって、イエスを天から降って来たパンと信じ受け入れる人が受ける恵みについて話し続け、最期に「はっきり言って置く。信じる者は永遠の命を得ている」と言明なさいます。「はっきり言って置く」と邦訳された「アーメン私は言う」という語句は、何かの真実を宣言するような時に使う慣用句ですから、主を信じて受け入れる人が既に永遠の命を得ていることを、主は公然と宣言なさったのだと思います。私たちは、日々聖体祭儀の中でこの祭壇にパンと葡萄酒の形で現存なさる主を、この世の視野の狭い人間的な目で受け止めずに、その大きな神秘を神のなさる御業として信仰と愛の心で受け止めているでしょうか。信じる者には永遠の命が与えられるのだと、主は現代の私たちにも言明して、私たちからもその信仰を強く求めておられると思います。聖体祭儀の時には、この信仰を新たに表明するよう心がけましょう。そこに私たちの受ける恵みも永遠の命もかかっているのですから。この世の祭儀の外的習慣化に負けないよう、自分の心に呼びかけましょう。

   しかし、偉大な奇跡をなさった主のこの宣言を耳にしても、その場のユダヤ人たちはまだ何の反応も示さなかったようで、主はあらためて「私は命のパンである。云々」と、ご自身の本質についてのもっと大きな神秘を啓示なさいます。すなわち主は、先祖が荒れ野で神から受けたマンナよりももっと神秘なパンで、「このパンを食べる人は永遠に生きる」のです。しかも、そのパンとは、「世を生かすための私の肉のことである」と言われたのです。本日の福音はここで打ち切られていますが、主イエスのこの話に対してはまたもユダヤ人たちから、「この人は自分の肉をどうして私たちに食べさせることができようか」などと、この世の人間的考えを中心とする立場から批判の声が上がり、主はそれに対しても、「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物である。云々」という、長い神秘的な話をしておられます。後で聖体の秘跡が制定されてみますと、私たちはそれらの神秘なお言葉をそのまま受け入れ、信じることができますが、その場のユダヤ人の多くは、自然理性では受け入れ難い主のこれらの啓示に躓いて、主の御許から離れ去ってしまいました。ただ12使徒たちは頭では理解できないながらも、日頃から主に対する心の信仰・信頼を保持していたので、主の御許に留まり続けました。私たちの心の奥底にあるもう一つの貴重な能力、すなわち神に対する信仰や献身的愛の憧れという能力を抑圧せずに、神よりの神秘な恵みを素直に受け止めましょう。