2012年8月26日日曜日

説教集B年:2009年間第21主日(三ケ日)


朗読聖書: . ヨシュア 24: 1~2a, 15~17, 18b.    . エフェソ 5: 21~32.  
   . ヨハネ福音 6: 60~69.

   本日の第一朗読には、モーセの後を継いで神の民を約束の地に導き入れたヨシュアが、イスラエルの全部族をその約束の地の中心部にあるシケムに集めて、自分たちをエジプトから導き出して下さった神のみに、これからも徹底して仕えるという決断を、彼らから求めています。この決断は、自分の心で自由に決めたものでなければなりません。ですからヨシュアは、「もし主に仕えたくないならば」、「仕えたいと思うものを、今日自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます」と告げています。ヨシュアのこの言葉に対して民の代表者たちが、「私たちの神、主は私たちと私たちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き出し、私たちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、私たちの行く先々で、また私たちの通って来たすべての民の中で、私たちを守って下さった方です。私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です」と答えましたが、民のこの言葉は注目に値します。民はここで、何よりも自分たちがその生身の体で実際に見聞きした現実、神が自分たちのために為して下さった特別な愛の御業、神の働きによる数々の大きな奇跡をしっかりと心に刻みつつ、「主は私たちを守って下さった方です。私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です」と、感謝の心で神に忠誠を誓っているのですから。神ご自身も民のその言葉をお喜びになったと思います。

   もしその民が約束の地に定住してからも、日々その言葉を繰り返しつつ、神への感謝と愛と忠誠の心を新たにしていたなら、神の導きと働きにより、それまでのどの国、どの民族にも見られなかった程の豊かで美しい宗教文化・宗教社会を築き上げるに至ったことでしょう。しかし残念ながら、民の各家族がそれぞれ自分たちの土地財産を所有するようになると、心が自分のこの世的所有物や他の人たちとの優劣関係などに囚われるようになったようで、神への感謝も愛も二の次、三の次にされ、神を忘れてその時その時の自分の考え中心に生活することが多くなったのではないでしょうか。彼らは間もなく内部対立や他民族の襲撃などの不安に悩まされることが多くなり、長いこと苦労の絶えない生活を営むようになりました。人間の心は、弱いものです。目前の目に見えるものや自分中心の望みや自分の考えに囚われて、目に見えない神の現存や神への感謝・忠誠などはすぐ忘れてしまい勝ちです。私たちも、気をつけましょう。日々自分の心に新たに言い聞かせて、神への感謝と愛に忠実に生きるよう心がけましょう。またそのための助けと恵みを、日々謙虚に神に願い求めましょう。そうすれば、神はその願いをお喜びになり、弱い私たちを助け導いて、次々と小刻みに隠れた所からの神の不思議な導き・助けを体験させて下さいます。自分の頭の中だけの理知的信仰ではなく、神の数多くの不思議な働きに根ざして日々感謝を新たにしている、奥底の心の信仰に生きるよう努めましょう。それが、この世で本当に仕合わせに生きる道です。

   本日の第二朗読は夫婦の愛について教えていますが、同時に、キリストとその教会、すなわち救い主と新しい神の民との愛の関係についても教えています。キリストは神の民という教会共同体の頭であり、教会を愛し、教会のためにご自身の全てをお与えになったのです。それは「教会を清めて聖なるものとし」、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。「そのように、夫も妻を自分の体のように愛さなくてはなりません」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」のです。「この神秘は偉大です」というのが、夫婦というものについての聖書の教えの根幹ですが、そこには、「キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭です。教会がキリストに仕えるように、妻も全ての面で夫に仕えるべきです」という教えも記されています。

   全ての人間の平等、男女の平等という現代社会の通念で生活している人たちにとり、聖書のこのような思想は、女性に不当のしわ寄せをしていた前近代の見苦しい社会的遺物に過ぎず、速やかに排斥して平等な男女関係に改革すべきものと映ずるかも知れません。しかし私は、多くの現代人を躓かせる神よりのこの啓示の中に、夫婦を内的に深く一致させ仕合わせにする神の祝福が、そっと隠されているのではないかと考えます。人間各人の自由平等を強調する現代流行の思想を理知的に絶対化せずに、まずは己を無にして現代の人たちのそういう改革・革新的考え方から離れ、神の御子救い主キリストの愛の御精神で、天の父なる神に心の眼を向けながら、祈りの内に神の働きに縋って、夫婦や親子の心の乱れた関係を神の愛によって正常化しようと忍耐強く心がけてみますと、人間の理論ではなく神の働きに頼る、そのような仕える精神の心を通して不思議なほど神が働いて下さり、夫婦や親子の対立・葛藤の関係が解消されるように覚えるからです。私のこれまでの体験からすると、心と心とのそういう対立抗争が生じた時には、何よりも平和の源であられる神に心を向けて祈ること、自分の心や考えを無にして、全ての苦悩を神にお献げしつつ祈ること待つことのうちに、問題解決の道があるように思いますが、いかがなものでしょうか。

   私たちの生活している現代世界は、これ迄の尺度が通用しない異常な世界で、2千年前のユダヤ人社会に、ある意味ではよく似ていると思います。商工業の国際的発展の恩恵を受けて外的には富んでいるように見え、情報や物資の流通も人口移動も盛んで、各人は自由であるように見えますが、しかし内的には、各人の個人主義・自由主義のため人と人との心の繋がり、すなわち親子兄弟・夫と妻・教師と生徒等々の心の交流は至る所で劣悪になり、地域共同体や民族共同体の団結も崩れ、頭の知識は豊かであっても、心の教育や鍛錬は身に付いていない人たちが激増しています。それで、家庭内暴力や夫婦の別居・離婚などが多発する社会になっています。悪霊たちの働きも激増していると思われるこういう時代には、聖書も法規も人間理性中心に解釈し利用しようとしていた、自分中心・わが党中心の「ファリサイ派のパン種」を退けること、そして主イエスの御模範に倣い、何事にも父なる神の御旨をたずね求め、その御旨に従って生きようと努める従順の精神が大切だと思います。謙虚にひたすら神の御導きと助けを願い求めているなら、全能の神がその不思議を行って下さいます。人間理性の考えを大きく凌駕しておられる神のその神秘な働きに導かれ支えられて生きるよう、心がけましょう。

   いつでしたかここでの説教でちょっと言及したことのある、太宰治という作家の作品は、現代日本の家庭や社会の心的内情が混沌と乱れて来ている今でも、多くの人たちの注目を引き、新たに読み直されているそうです。終戦直後のアメリカ軍の占領下で、戦争に負けて崩れたこれまでの社会共同体の中に、まだ復興の兆しも見えずにいた1947年に、滅びゆく高貴なものへの挽歌とも言われる『斜陽』という小説で、多くの人たちの注目を浴びた太宰治は、その頃道を求めて新約聖書も熱心に読み漁っていたそうですが、その翌年に人間恐怖の自画像などと評される『人間失格』という小説を残して自殺してしまいました。どちらの小説も、今の社会に生き甲斐を見出せずにいる日本人の心に、新たな形で訴えて来るもの共鳴するものがあると思われますが、太宰治はなぜ聖書を熱心に研究しても、そこに救いの道を見出すことができなかったのでしょうか。私はそこに、己を無にして神のお考え、神の導きに徹底的に従おうとする精神の欠如と、聖書も神も自分の理性で理解し利用しようとする、一種のファリサイ精神が残っていたからだ、と考えています。外的自由主義・個人主義が至る所にはびこり、美しかった家庭や社会の共同体精神が滅び去って、極度の孤独に悩む現代人も、「ファリサイ人たちのパン種に警戒せよ」という主イエスの御言葉は心にしっかりと銘記し、我なしの精神、徹底的従順の精神で神による救いの道をたずね求めなければ、人間失格の絶望的道に落ち込んで行く危険性が大きいと思います。.....