2012年8月15日水曜日

説教集B年:2009年8月15日に無原罪の聖マリア会で話



紀元450年にカルケドン公会議が開かれた時、東ローマ皇帝は聖母マリアの墓に聖堂を建立することを望み、エルサレムから出席した司教に、聖母の墓がどこにあるかを尋ねると、エルサレムには聖母の墓がなく、聖母は死後三日ほどで被昇天なされた由の古い伝えを語っています。それ以来東方教会で聖母被昇天祭が祝われるようになりましたが、聖母が亡くなって被昇天の恵みを受けたのは、その伝説から察すると、エルサレムではないようです。

主が受難死を遂げて復活なされた後にも、エルサレムのユダヤ教指導者たちがいつまでも主の弟子たちに対して不穏な動きを示し続けるので、主から聖母の世話を委託された使徒ヨハネは、聖母をユダヤ教の影響から自由になっている安全な土地にお連れしたのではないか、と考えられていましたが、ヨハネが晩年ギリシャのエーゲ海に面している小アジアに滞在していることから察すると、聖母は小アジアの港町エフェソ辺りで晩年を過ごされ、そこから天に上げられたのではないかと思われます。エフェソには、キリスト教迫害が終わった直後頃の4世紀中ごろに、世界で一番古い、かなり大きな聖母聖堂が建立されており、5世紀になって「聖マリアは人間イエスの母ではあるが、神の母ではない。3世紀末頃から広まっている、神の母聖マリアの御保護により縋り奉る云々の祈りは、誤っているとネストリウス司教が主張した時、431年にエフェソのその聖母大聖堂で公会議が開催され、ネストリウス説が異端として退けられました。この歴史的事実を照合してみても、聖母は晩年をエフェソ辺りで過ごしておられたのではないかと思われます。エフェソに聖母聖堂が建立されると、ローマでも4世紀半ば過ぎのLiberius教皇の時に、真夏に雪が降ったという奇跡と夢の知らせに基づいて、「雪の聖母」小聖堂が、今のサンタ・マリア・マジョーレ聖堂の地所に建立されました。5世紀半ばの東ローマ皇帝も、自分も負けずにエルサレムで聖母聖堂を建立しようとして、それが聖母被昇天の祝日へと発展したのかも知れません。

19世紀に主の御受難・御復活や聖母の御生涯などについて、たくさんの出来事を具体的に幻示で見せてもらったドイツ人のカタリナ・エンメリッヒによると、15歳で主イエスを出産なされた聖母は、ステファノが殉教した後頃からエルサレムを離れることを望まれたようで、その2年ほど後に使徒ヨハネに伴われて、すでに支援者たちのいるエフェソに移り、ヨハネはそこで市外のエーゲ海を見下ろす小さな丘の上に聖母のため小さな石造りの家を建てています。近くには以前の頃のエフェソの町の支配者の家もあったそうです。使徒ペトロやアンドレア、その他の使徒たちもこの家を訪れていますが、聖母は港町エフェソから船で、その後もヨハネに伴われて二度エルサレムを訪問しています。

そして63歳の夏、「キリストの昇天後13年と2カ月」とありますから、恐らく8月頃と思われますが、使徒ペトロが捧げるミサにベットで腰かけたまま参加し、聖体の秘跡と病油の秘跡を受けて、金曜日午後の3時頃に静かに目を閉じ、胸の上に手を組んで亡くなられます。そこには使徒ヨハネをはじめ、数人の聖なる婦人たちと、天使によって呼び集められた使徒たちも出席しており、使徒ヨハネがあらかじめ造って置いた立派なお墓に葬られます。その二日後でしょうか、皆でお祈りをしている所に遅れてようやく到着した使徒トマが、聖母の御遺体を一目見たいというので、祈りの後に御墓を開けて見たら御遺骸はなかったので、使徒たちは皆、聖母も主イエスと同様、あの世の体に復活して天に上げられたと信じたのだそうです。それが伝えとして後世に残り、5世紀から聖母被昇天の祝日として祝われるに至ったのだと思われます。...