2016年8月14日日曜日

説教集C2013年:2013年間第20主日(三ケ日で)

第1朗読 エレミヤ書 38章4~6、8~10節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章1~4節
福音朗読 ルカによる福音書 12章49~53節


   本日の第一朗読は、紀元前6世紀初頭にエレミヤが、ユダ王国の最後の王ゼデキヤの支配下で受けた迫害について述べています。このゼデキヤ王は、その数年前にバビロニアのネブカドネザル王が二度目に首都エルサレムを攻略して、国王を始め多くの官吏や有能な技術者たちを捕囚としてバビロンに連行した時に、後に残った人々を支配するようにと、バビロン王によって任命された国王ですが、バビロンの大軍が去った後に各地に隠れていた家臣たちが首都に集まって来ると、政治はその家臣団に支配されるようになりました。新しい役人や祭司たちは、神がダビデ王に約束された言葉などに従って、エルサレムは一時的に敵に占領されることがあっても滅びることはないと信じており、強力なエジプト軍との提携を強めて、バビロンの支配から解放される道を模索し始めました。それで、神からの言葉に従って、不信な神の民を罰する「神の怒りの鞭」と立てられているバビロン王には抵抗しないように、と預言し続けているエレミヤを死刑にするため、ゼデキヤ王に圧力をかけ、エレミヤは水ための泥の中に綱でつり下ろされました。そこで苦しんで飢え死にさせるために。それを見た国王の傍に仕えるエチオピア人の宦官メレクの取り成しで、エレミヤは救い出され、誰も入ることの許されない国王の閉ざされた内庭に匿われましたが、神の言葉に従う人に、神は時としてこのような迫害や苦難をお許しになる、恐ろしい方だと思います。その苦しみはメシアの受難死と結ばれて世の罪を償い、この世の多くの人に神による救いの恵みを呼び下すパイプになるのだと思います。神は現代に生きる私たちにも、場合によりそのような苦難を捧げる使命をお与えになるかも知れません。神に対する愛と信頼の内に、恐れずに覚悟していましょう。

   第二朗読の出典であるヘブライ人への書簡は、最後の挨拶の中に使徒パウロの愛弟子テモテ釈放の知らせを伝えていることから察しますと、使徒パウロと共に異邦人伝道に活躍していた宣教師の書いたものだと思います。テモテについての言及があることから、古代末期にはこの書簡が使徒パウロの書簡と誤解されて新約聖書に入れられましたが、その文体も表現方法もパウロのものとは大きく違っていますので、パウロの書簡ではなく、恐らくは使徒たちの殉教した後に、これからの異邦人教会の進むべき道や、周辺の異教人社会からの迫害の可能性などで不安になっている信徒団を、旧約時代からの神の啓示に基づいて新たに啓発し激励するために認められた書簡であると思います。題名にある「ヘブライ人への」という言葉は、新約聖書の聖典に採用されてから書き加えられたもので、この書簡は既に国を失って流浪の民となったユダヤ人宛てに書かれたものではありません。旧約聖書の教えが頻繁に引用されていますが、使徒パウロの説教を聴いて入信した異邦人の多くは、紀元前3世紀にエジプトでギリシャ語に翻訳発行されて地中海沿岸諸国で広く読まれていた、いわゆる七十人訳の旧約聖書をよく知っていましたので、このギリシャ語の書簡はそういう異邦人キリスト者宛てのもので、ユダヤ人宛てのものではないと思います。
   この書簡の2章、3章、6章、10章、12章の諸所に読まれる言葉から察しますと、使徒ペトロとパウロが殉教した直後頃のキリスト教会には、この世での成功発展を重視するギリシャ・ローマ文化の影響や価値観のためか、まだ主キリストの受難死の神の御前での高い価値を理解できず、使徒たち没後の教会は果たしてローマ帝国内に教勢を伸ばすことができるのか、強大な異教勢力に迫害されて潰されてしまうのではないか、一時は間もなく来ると信じられていたこの世の終わりと主キリストの再臨は、まだまだ遅れて遠い将来のことになるのではないか、等々の疑問が広まって、不安になっている人たちが多かったようです。それでこの書簡の著者は、聖書に読まれるこれまでの神の啓示を総合的に手際よく解説しながら、神から召されて自分に定められている道を最後まで忍耐強く走り続け、神が主キリストを通して提供しておられる救いと栄光に到達するように、と励ましています。本日の朗読箇所でも、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」進むこと、このイエスは目前の喜びを捨てて、十字架の死を耐え忍び、栄光の神の玉座の右に上げられたこと、気力を失って疲れ果ててしまわないように、罪人たちの反抗を忍耐されたこの主イエスの模範をよく考えること、などを説いています。そして最後に、「あなた方はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と、彼らの信仰生活が、主イエスの歩まれた、罪と戦う生き方とは違っていることを指摘しています。主も本日の福音の中で、ご自身が地上に神の愛の火を投ずるために来たこと、そのためには死と苦しみの洗礼を受けなければならないこと、またこの地上には神に従う者と従わない者との対立分裂が生ずること、などを話しておられます。


   先日も申したように、この世の終末期に入って来ていると思われる現代世界には、これからますます悪霊たちの働きが盛んになって、これまでには無かった恐ろしい犯罪や災害などが多発するかも知れません。私たちもその時に気力を失って疲れ果てることのないように、主が身を持って示された模範をしっかりと心に刻みつつ、神から与えられる苦難を喜んで忍耐強く耐え忍ぶよう、今から覚悟を固めて神の助けを願い求めていましょう。苦難は、神から恵みを豊かに呼び下します。