2016年8月28日日曜日

説教集C2013年:2013年間第22主日(三ケ日で)

第1朗読 シラ書 3章17~18、20、28~29節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章18~19、22~24a
福音朗読 ルカによる福音書 14章1、7~14節

2013年間第22主日(三ケ日)
本日の第一朗読であるシラ書には、旧約のユダヤ人たちの間で愛用されていた格言や教訓が多く集められていますが、本日の朗読個所ではその内の「偉くなればなる程、自ら遜れ。そうすれば主は、喜んで受け入れて下さる」「主は、遜る人によって崇められる」などの勧めが読まれます。とかくこの世の人間関係にだけ注目し他人からよく思われようと努め勝ちな人たちは、これらの勧めを聞くと、人前での出しゃばった言行を慎み、謙虚に振る舞うようにという意味で受け止め勝ちですが、神がお求めになっておられる遜りは、そんな人前での外的遜りではなく、全てを自分中心・人間中心に考えて行動する「古いアダム」の生き方を改め、何よりも神の僕・神の婢として、ひたすら神の御旨に従って生きようとする内的精神を指していると思います。それは主イエスが御自ら実際に生きて見せた生き方ですが、神はそのような実践に励む人によって崇められ、その遜りの精神と生活を通して救いの恵みをこの世の人々に豊かにお注ぎ下さるのだと思います。

カトリックの教理では、人間は霊魂と肉体とから成る存在で、霊魂は純粋の霊である天使と同様に、霊界に所属する存在とされています。それで私は、まだ頭脳の働きが十全でない胎児であっても、その霊魂の働きで自分に対する母の愛情を感知したり、それに反応したりすることができるのではなかろうか、と考えています。産まれ出た途端に、赤ちゃんが助けを求めて大きな泣き声をあげるのは、既に霊魂の心情が目覚めている証拠だと思います。自分がまだ真にか弱く、親の世話を必要としていることを自覚している頃の赤ちゃんは、その愛情に包まれている時には、感謝の表現なのか真に清い綺麗な眼をしています。しかし、次第に頭脳も成長してこの世に生きるための知能も働き始めますと、肉体に「古いアダム」の命を受け継いでいるために自分中心に考えたり、全てを自分中心に利用したりする精神も心の中に目覚めて来ます。それは肉体の頭脳の発達を促進しますので、ある程度容認し大切にしなければなりません。しかし昔の家庭では、生後二歳から五歳前後にかけての頃、その利己的な傾向が露骨に現れた時には厳しく叱ったり体罰を体験させたりして、両親や周辺社会の愛情を感知し、それに感謝と従順と愛情をもって応えようとする霊魂本来の素直な働き、奥底の良心の働きを目覚めさせようとしていました。戦前の子供時代にそういう躾や教育を受けた私は、司祭になってからも、身内や親しい家庭の子供をそのように叱って、その母親たちに幼子に対する上手な叱り方などを教え、立派に成長したその子供たちからも、後年厚く感謝されています。

ところが、1970年代から日本経済が急速に発展して社会が豊かになり、自由を求める人々の価値観も極度に多様化し始めますと、古い価値観を堅持する親たちから独立して、都会のマンションなどに住む息子夫婦の家族が激増し、神や祖先や社会に対する感謝と奉仕を第一にする、各人の霊魂の心情や良心を根幹とする伝統的倫理や道義、親から実践的に仕込まれた自分の心の道義に背くことを恥として深く恐れ慎む精神などが、幼子たちの心に伝達されなくなってしまいました。若い親たち自身も、なお一層の外的自由と豊かさを追い求めて、祖先から受け継いで来た霊魂の伝統的道義心や価値観を時代遅れの束縛と見做すようになり、それらを忘れ去っているようになりました。その状態が数十年も続いた最近の社会を見ていますと、各人の霊魂に根を下ろしている筈のその人独自のプライドや道義心というものを完全に抑圧して、ただ人間の造った社会の法規に背かないなら何をしても善いと考え、この世の損得勘定にだけ没頭している人が多くなっているように思われます。人間社会が今日ほど多様化し国際化しますと、法の規制も監視もその変化について行けず、法の網を潜ってぼろ儲けをする詐欺や悪徳業者も横行するようになりました。これでは、神に似せて創られた人間存在としては、感謝と無料奉仕の精神に欠ける全くの出来損ないであり、遠からず大きな神罰を招きかねないと恐れます。人間の霊魂教育も鍛錬もできずにいる、そのような役立たずの家庭や社会を、神はいつ迄もそのままにはして置かれないと思われるからです。マルコ福音の10章やルカ福音の18章には、「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」という主の断言が記されていますが、私たち各人の霊魂の奥底に神から植え込まれている、神に対する幼子のように素直な感謝と奉仕の愛と自己抑制の精神に成長しなければ、その存在は神の国を乱す者として退けられ、滅びの穴に追い落とされてしまうと思います。


本日の福音は、安息日にファリサイ派のある議員から食事に招待された主 イエスが、一緒に招待された客が上席を選ぶ様子を見て話された譬え話ですが、ギリシャ語原文の「パラボレー」(譬え)という言葉は、二つの相異なる領域にあるものを比較し、よく知られたものを通して他のまだ知られていない真理を説明する時などによく使われる、広い意味の言葉であると聞きます。本日の福音で主が語られた譬え話は、正にそのような「パラボレー」でした。ですからこの譬え話の言葉をこの世の社会生活にも適用して、「昼食や夕食の会を催す時には、友人も兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」というのは、主のお考えではないと思います。主は神より遣わされた使者として、人々の救いのために奉仕する内的心構えについてだけ語っておられるのですから。相手からの報いを期待せずに、(ただ神の僕・婢として)この世では全然お返しできないような貧しい人や助けを必要としている身障者・弱小者たちに優先的に奉仕しなさい。そうすれば、正しい人たちが皆復活する時に神によって報われるから幸せです、というのが主の教えだと思います。婚宴に招待された時の席次の譬え話も、この世の社会生活のための心構えであるよりは、あの世の宴会に招かれている者としての内的心構えについての教えであると思います。この世的上下関係や損得勘定を全く度外視して、ひたすら神のお望み、神の御旨にだけ心の眼を向けつつ、神の救いの御業に奉仕する人生を営むのが救い主の生き方であり、今の世に生き甲斐を見出せずに悩む人たちの心に、神からの照らしと導きの恵みを豊かに呼び降す道でもあると思います。私たちも、小さいながらそのような生き方を実践的に身につけるよう努めましょう。