2016年8月21日日曜日

説教集C2013年:2013年間第21主日(三ケ日で)

第1朗読 イザヤ書 66章18~21節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 12章5~7、11~13節
福音朗読 ルカによる福音書 13章22~30節

   本日の第一朗読は、長いイザヤ預言書の最後の章の最後の部分から引用されています。神はここで新約時代の神の国、いや世の終わりの少し前頃の神の国について話しておられるようです。19節には「彼らの間に一つのしるしをおき」というお言葉が読まれますが、イザヤ7; 14に神がお与えになった「見よ、乙女が身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」というしるしを指していると思います。そして神は新約時代のこの福音を知らせる使者たちを、まだ神の名を聞いたこともなく、神の栄光を見たこともない遠い国々にまで派遣なさるようです。タルシシュという国は、現在のスペイン南部のジブラルタル海峡付近にあった国で、フェニキア人たちがそこの鉱山から獲れる産物を運んで大きな利益を上げていましたが、旧約時代にはその国が地の果てという印象を与えていました。神の国はそういう遠い国々、島々にまで述べ伝えられて、そこに住む人々も、イスラエルの子らと同様に神への献げ物を清い器に入れてなす。主は「彼らのうちからも祭司とレビ人を立てる」などと、神は予告しておられるのです。そして本日の朗読のすぐ後に、神は「私の創る新しい天と新しい地が、私の前に永く続くように。云々」とこの世の終わりの後の、新しい神の国についても話しておられます。いろいろと終末期の異常現象を体験しつつある現代の私たちも、神の国の栄光に満ちた明るい未来に対する希望を堅持しながら、日々忍耐強く逞しく生き続けましょう。

   第二朗読は、一週間前の主日にも話したように、使徒ペトロやパウロらが殉教した後の教会について、少し不安になり心が動揺していた信徒団に向けて書かれたと思われる『ヘブライ人への手紙』からの引用であります。「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」という、神がキリスト者を「神の子供」として受け入れ、鍛えて下さる由の言葉が読まれます。これらの言葉は、第二次世界大戦後に科学技術や商工業が急速に発展普及し、便利で豊かな生活を営むようになった私たちにとっても、新たな意味で大切なのではないでしょうか。現代においては多くの老人が、祖先から受け継いだ古い家屋に孤独に生活するか老人ホームに入居させられており、夫婦は共働き、子供は学校や塾での能力主義教育で相互に競わされています。昔の家族のように、三世代の家族が皆で共に汗水流して、苦労を分かち合うという姿が無くなっています。家族・学校・職場・地域社会などでは、どの分野でも個人主義が広まり、各人が日々互いに助け合わなければ生きて行けない、という心配はありません。現代人は社会に溢れる物資や情報を自由自在に利用しながら生きて行けるし、心を楽しませる娯楽にも溢れる程恵まれているからです。それで伝統的共同体の持つ相互扶助のつながりは、個人の自由を束縛するものとして邪魔者視されているのだと思います。

   しかし、こうして各種共同体の結束が乱され無力化しますと、助けを必要としている老人や子供たちの世話が後回しにされて、孤独に苦しむ老人や、様々の新しい心の問題を抱えている子供たちが世界的に増えて来ているように思われます。神なる主は、このような全地球的に広まりつつある伝統的共同体の崩壊という事態を憂慮なされ、せめて神から特別に愛されている私たちには、全ての苦しみを父なる神からの鍛錬として受け止め、自分中心の個人主義的な「古いアダム」の生き方を改めて、神の御旨中心の「新しいアダム」主キリストの生き方を実践的に体得し、今の世の人々に証しするよう、改めて呼びかけておられるのではないでしょうか。本日の第二朗読の言葉を、信仰に生きる私たちへの神のお言葉として受け止め、日々私たちの出遭う様々の不都合・誤解・失敗・煩わしさ等々を、神からの愛の鞭打ち・愛の鍛錬として主キリストと一致して受け止め、その苦しみややり直しなどを喜んでお捧げするよう心掛けましょう。自分の出遭う苦しみを、恐れないように心掛けましょう。そうすれば、私たちの上ばかりでなく、周辺の社会の人々の上にも、また特に今孤独や病気などに苦しんでいる人たちの上に、神の恵みの力と助けとを豊かに呼び下し、神の平和に満ちた実を数多く結ばせるに至ると思います。

   本日の福音の始めには、「イエスは、……エルサレムに向かって進んでおられた」という言葉が読まれますが、ルカは既に951節に「イエスは天に上げられる時が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書いており、それ以降19章後半のエルサレム入城までの出来事を、受難死目指して歩まれた主の最後の旅行中のこととして描いていますので、ルカ13章に読まれる本日の福音も、死を覚悟であくまでも主に従って行くか否かの緊張した雰囲気が、弟子たちの間に広がり始めていた状況での話であると思われます。ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねられた主は、そこにいた弟子たちと民衆一同に向かって、「狭い戸口から入るように努めなさい。云々」とおっしゃいました。その最後に話されたお言葉から察すると、東西南北から大勢の人が来て「神の国で宴会の席に着く」のですから、救われる人は多いと考えてよいでしょう。ただ、救い主のすぐ身近に生活し、外的には主と一緒に食べたり飲んだり、主の教えに耳を傾けたりしていても、内的にはいつまでも自分の考えや自分の望み中心に生活する心を改めようとしない人は、神の国に入ることを拒まれることになる、という警告も添えてのお答えだと思います。としますと、主が最初に話された「狭い戸口」というのは、主を処刑しようとしていたサドカイ派やファリサイ派が民衆に求めていた伝統的規則の遵守ではなく、当時荒れ野で貧しい隠遁生活を営んでいたエッセネ派が実践し、民衆の間にも広めていた神の内的呼びかけや導きに従うことを中心に生きようとする、謙虚な預言者的精神や信仰生活を指していると思います。伝統の外的規則を厳しく順守し定められた祈りを唱えているだけでは、2千年前のファリサイ派のように、この世の人たちからはその努力が高く評価されても、神からはあまり評価されないのではないでしょうか。自分中心・この世の楽しみ中心の「古いアダム」の心に死んで、神の子キリストの自己犠牲的愛に生きようとする精神を実践的に体得しない限り、神は愛する私たちを厳しく鞭打たれる恐るべき方であると思われます。


   このことは、現代の私たちにとっても大切だと思います。外的に何十年間修道生活を営み、数え切れない程たくさんの祈りを神に捧げていても、内的に自分のエゴ、「古いアダム」の精神に死んで、神の御子イエスの精神に生かされようと努めていなければ、それはこの世の多くの人が歩んでいる広い道を通って天国に入ろうとしていた、2千年前のファリサイ派の信仰生活と同様、神から拒まれるのではないでしょうか。聖書にもあるように、神が私たちから求めておられるのは、外的いけにえや祈りなどの実績ではなく、何よりも神の愛中心に生きようとする、謙虚な打ち砕かれた心、我なしの悔い改めた心なのですから。天啓の教えについては殆ど知らなくても、非常に多くの人たち、異教徒たちが、心のこの「狭い戸口」を通って天国に導き入れられるのだと思います。もはや一つの川の流れのようにではなく、全てが大洋の大きな海流のようになって来ている現代のグローバル社会に、「古いアダム」の精神や個人主義が普及しますと、これまでの伝統的宗教や各種共同体の繋がりは次々と寸断されて、人類社会には捉えようがない程の漠然とした混乱と無秩序が支配するかも知れません。そのような時にこそ、主が説かれたこの「狭い戸口」の勧めが大切だと思います。しっかりと心に銘記し、将来に備えていましょう。