2010年12月25日土曜日

説教集A年:2007年12月25日降誕祭日中のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 52章7~10節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 1章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章1~18節

① 本日の福音は、私の所属する神言修道会では最も大切にしているヨハネ福音書の序文で、創立者聖アーノルド・ヤンセンの時から神言修道会に直接関係するすべての式典の中でいつも朗読されている、ヨハネ福音書の序曲のような福音であります。ヨハネはまず、「初めに言(ことば)があった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と繰り返すようにして、神の言の神聖な起源を荘厳に強調します。それから「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と、神の言は被造物ではなく、神と同じ次元にいる創造者であることを宣言します。神言会は、この神の言を特別に崇め、そこに根ざし、そこから派遣されて働こうとしている布教修道会であります。
② ヨハネは続いて、その福音の幾つかの重要なテーマに触れながら、次のように語ります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」言によってご自身をお示しになる神は、根本的に命なのです。そして言は、その神の命を私たち人間に伝える光なのです。この根源的愛の命に参与させることが、神による創造と救済の御業の目的であると申してもよいでしょう。しかし、光は輝き照らし続けても、闇は続いています。その光を受け止めるものがない、真空のようになっているからです。宇宙船に乗ってこの地球の大気圏から飛び出し、空気も何もない真空の宇宙空間に入るなら、途端に周辺は真っ暗闇になります。太陽は遠くに照っていますが、その光を反射するものは何もないからです。ちょうどそのように、あの世の神の光は照り輝いていても、それを信仰と愛をもって受け止めるものが何もない霊的真空状態に留まっているなら、暗闇はこの世に居座り続けます。
③ 「その光は真の光で、世に来てすべての人を照らす」「言は世にあったが、世は言を認めなかった」「言はご自分の民の処に来たが、民は受け入れなかった」という悲惨な霊的状況に心を痛めながら、ヨハネはその福音を書き始めます。ここで「世」あるいは「民」と表現されている人たちは、目前の過ぎ行くこの世の事物現象を理解するための理性は持っているのですが、心の奥底に与えられている神に対する感謝・愛・信仰などの能力や感覚はまだ深く眠ったままにしているのだと思います。あの世の神の光は、この世の経験に基づいて自分中心に考える理性によって理解するものではなく、何よりも感謝と愛の心のセンスを実践的に磨くことによって心の眼に見えて来るもののようです。「暗闇は光を理解しなかった」というヨハネの言葉は、そのことを指しています。
④ ヨハネはここで、神の摂理によって派遣された洗礼者ヨハネを登場させます。「彼は光ではなく、光について証しするために来た」のです。「証しする」というのは、闇夜に輝く月や金星たちのように、信仰と愛のうちに神よりの光を受け止め、自分の身も心も生活もその光によって照らされ輝きながら、その光を反射して世の人々に伝えることを意味していると思います。洗礼者ヨハネがどれ程熱心に証ししても、光と闇との対立、神よりの光を受け入れようとしない人たちの暗躍は、根強く続くことでしょう。しかし、神の言は、ご自分を受け入れた人々、その名を信じる人々には「神の子となる資格を与え」、あの世の神の命によって生まれた新しい存在に高めて下さいます。使徒ヨハネは、こうして「神の子」とされる恵みに浴した者の体験に基づいて、その序文の後半に「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いています。
⑤ 洗礼者ヨハネの後を受け継ぎ、この使徒ヨハネのように「神の子」として戴いた恵みに感謝しつつ、自分の見聞きした体験に基づいてこの世にお出でになった神の言、メシアについて証しすることが、主が創立なされたこの世の教会、そしてその教会から派遣される宣教師たちの最も大切な務めであると思います。現代の教会も宣教師たちもこの使命にしっかりと目覚め、闇に住む無数の人たちのためよりよく働くことができるよう神の恵みと助けを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。

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