2010年12月5日日曜日

説教集A年: 2007年12月9日待降節第2主日(三ケ日)

聖書朗読:マタイ3・1-12

① 一週間前のイザヤ2章始めからの第一朗読のように、イザヤ11章始めからの本日の第一朗読も、神の霊に満たされたメシアの支配する世界における、万物平和共存の理想的状態について預言していますが、これもメシアの栄光に満ちた再臨によってすべての人が復活し、神の子らとされた人たちの生きるあの世の世界についての描写であると思います。罪の力がまだ支配している死と苦しみのこの世においては、そのような完全な平和共存は一度も実現したことがなく、使徒パウロもローマ書8章に、「被造物は神の子らの現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです。(今は)虚しさに服従させられていますが、」「やがて腐敗への隷属から解放されて、神の子らの栄光の自由にあずかれるのです」などと書いていますから。

② 神に特別に似せて創造され、神のように永遠に生きる存在とされている私たち人間はその神の国に復活したら、主キリストと一致して愛をもって万物を深く理解し支配する、神からの特別の使命を頂いていると思います。私は以前にもここで、「作品は作者を表す」という言葉を援用して、命の本源であられる神から創られた万物は、ある意味で老化も死も経験し得る生き物であると考える立場からの、ネオアニミズムについて話したことがあると思います。同じ立場でこの苦しみの世の万物を観察する時、今はまだこの世の万物は気象も大地も動植物も皆苦しんでいるように思われてなりません。神信仰のうちに毅然として立ち、愛をもって呼び掛けたり命令したりするなら、主キリストも話しておられるように、万物の霊長である神の子らの呼びかけや願いに応じてくれるような側面も感じられますが、まだまだこの罪の世の大きな不調和と相互対立関係の中で、苦しみながら生きているように思われます。

③ 私は時々私たちを苦しめる蚊や家の中に巣を作る蜘蛛を駆除したり、庭の美観を損なう雑草や桜の木々にまつわりつく癌のような生命力旺盛な蔦を駆除したりしますが、その時はいつも、「あなたのその逞しい命を私に下さい。私の中で神を称える力となって下さい」などと呼びかけています。そして私が今もこうして健康に生活しておれるのは、神の力がそれらの被造物を介して私の中で働いて下さるお陰であると感じています。このようなネオアニミズムの温かい被造物観が、現代の私たちには大切なのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読であるローマ書15章の始めに、「強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」と述べている使徒パウロは、本日の朗読箇所で、強い者と弱い者、ユダヤ人と異邦人とが互いに相手を受け入れ合うようにと勧めています。というのは、使徒がその前半に述べているように、聖書が私たちに忍耐と慰め合うことを教えており、それを実践する人は神に希望を持ち続けることができるからです。私たち相互の人間関係を能力主義や実績主義、あるいは過去から受け継いでいる法的権利などを中心にして、理知的に考えないよう気をつけましょう。私たちの相互関係の中に神の国があり、神が現存しておられて、神の愛に根ざして奉仕し合うよう強く求めておられるのですから。何よりも、その神の働きに心の眼を向けながら生きるように心がけましょう。

⑤ 主は、誰が一番偉いかを道々論じ合って来た弟子たちに対して、「第一になろうと望む者は、皆の後になり皆に仕える者とならなければならない」と話されたことがあり、ご自身についても、「仕えられるためではなく、仕えるために来た」と話しておられます。隣人に接する時、私たちは何よりも主のこれらのお言葉を念頭に置いて交際しているでしょうか。待降節にあたり、この点を一つ反省したみましょう。使徒パウロも本日の朗読箇所で、「忍耐と慰めの源である神があなた方に、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり父である方を、たたえさせて下さいますように」という祈りを添えています。単に日々声をそろえて神を讃えるだけではなく、そこに互いに忍耐し慰め合う実践を添え、内的にも心を合わせて神を讃えるように心がけましょう。それが、使徒の願いであると思います。

⑥ 毎年待降節第二と第三の日曜日の福音には洗礼者ヨハネが登場しますが、本日の福音に登場している洗礼者ヨハネは、ユダヤの荒れ野で「天の国は近づいた」と叫びながら、非常に厳しい調子で人々に悔い改めを呼びかけています。ラクダの毛衣をまとい、腰に皮帯をしめて貧しい生活を営む、預言者エリヤを思わせるようなその姿を見聞きして、大勢の人がヨハネの下に来て罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けました。そのことを伝え聞いたのでしょうか、ファリサイ派とサドカイ派の人たちも洗礼を受けに来ました。しかし、ヨハネはこの人たちに対しては、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れることを誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。云々」「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる。云々」などと、恐ろしい程の脅しの言葉を連ねて、悔い改めを迫っています。この時のヨハネは「神の国」という言葉で、メシアによる終末の審判を考えていたのではないか、などと解釈する人もいますが、これから始まるメシアによる救いの時を歓迎するヨハネの他の言葉などを考え合わせると、察するに、まだ世の終わりの審判の時が迫っているのだとは考えずに、ただ心の目覚めの鈍過ぎるファリサイ派とサドカイ派の心に衝撃を与えて、少しでも深くしっかりと目覚めさせるために、厳しい言葉を発したのだと思われます。

⑦ しかし、メシアがこの世にお生まれになったことは、内的には既に世の終わりの審判の始まりでもあると思います。そのこと自体は神からの大きな救いの恵みなのですが、それを受け止める各人の内的態度は、恵みに接する度ごとに、目には見えなくても既に裁かれており、世の終わりにはそれら無数の個々の裁きが劇的に露わになって、赦されるか断罪されるかの決定的裁きが下されるのだと思います。私たちも気をつけましょう。隣人に対する言行、あるいは祈りの時の心の持ち方などは、皆小刻みに終末の時の審判につながって行くのですから。待降節にはよく、「牧場におりる露のように、地を潤す雨のように王は来る」という、詩篇72の言葉が唱えられますが、「地を潤す雨」という表現は、「降るとも見えず」と言われる春の真に細い柔らかな雨を連想させます。牧場に降りる露も、いつおりたのか分からないような存在であります。待降節にあたって私たちの心がけるべきことは、そういう真に秘めやかな主キリストの来臨と現存に対する奥底の心のセンス、心の信仰感覚を磨くことだと思います。隣人と交わる時、あるいはミサ聖祭や祈りの時、そのことに心がけて、しっかりと深く目覚める恵みを願いましょう。洗礼者ヨハネの説いた「悔い改め」は、自分中心に考えたり話したりし勝ちな私たちの心を、これからは神の方に向けながら為すというだけの、根の浅い回心ではなく、神の現存と働きに対するそのような奥底の心の目覚めと、それによる生き方の根本的刷新とを意味しています。その恵みを神に願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。