2014年3月9日日曜日

説教集A2011年:2011年四旬節第1主日(三ケ日で)



第1朗読 創世記 2章7~9節、3章1~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章12~19節
福音朗読 マタイによる福音書 4章1~11節

   四旬節の日曜日の第一朗読は、いつも旧約時代の罪と救いの話から引用されていますが、本日の第一朗読はその一番最初の、創世記2章と3章に読まれる人祖の創造と罪の話から引用されています。まず「主なる神は、土の塵で人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と述べられています。これは、私たちの心にある宗教的真理を教えるために神から啓示された夢幻のような神話ですから、実際の現実世界に最初の人間が出現した時の状況ではありません。しかし、神はこの神話によって私たち人間に、忘れてならない大切な真理を教えておられるのではないでしょうか。まず、人間は多種多様の生物たちが次々と活発に進化の躍動を続けている過程で、一番賢く進化していた動物の体から、遺伝子の突然変異によって偶然に産まれ出た生き物ではなく、神がこの物質世界の万物を支配させるために直接に創造なされた存在であり、大きな愛をもってその鼻に神の命の息を吹き入れることにより、愛に生きる者になさったということです。
   聖書はその人間を創る素材を「土の塵」と表現していますが、それは今の私たちが目にする畑の土や粘土のことではなく、一番賢く進化していた動物、あるいは原人すなわち原始的な人間と考えてよいかも知れません。しかし、神が創造の初めから意図しておられたのは、もう一種類の最高度に進化した動物を存在させることではなく、物質界のこれら無数の被造物の仕組みをよく理解し巧みに利用して、神のなされた創造の業の素晴らしさや美しさを発見して感動し、神に感謝と讃美をささげ、神の愛の内に神と共に永遠に生きる霊を備えた新しい存在を創ることだったのではないでしょうか。それが、今私たちの生きているホモサピエンスと言われる人間だと思います。このホモサピエンスが出現する以前の動物は皆、食物採集や獲物狩猟の技術しか持っていませんでした。彼らは生きるため、子孫を残すためにいろいろと巧みに工夫し、場合によっては道具や火までも利用して獲物を獲得したり、親しくしていた同僚が死んだ時には哀悼の心を表明したり、助けを求めている生き物を救うために献身的に奉仕したりする心は神から与えられていましたが、その生活は狩猟・採集の段階に留まっていました。今から数万年前まで地球上の一部で生息していたネアンデルタールと言われる原始的な人間にまで進化しても、狩猟・採集という段階に留まっていました。
   しかし、その後に出現したホモサピエンスは狩猟・採集は続けながらも、その上に積極的に牧畜・農耕の生き方も導入し、それらを大規模に発展させて豊かになり、各地に国家や文明を産みだしたり、神を崇め神に感謝する宗教行事を営んだりするようになりました。近年は強大な原子力を利用したり、宇宙飛行を実現したり、ヒトゲノムを解明したりする程にまで、その知恵と技能を発達させています。それは、神がこのホモサピエンスを宇宙万物の霊長として創造し、全ての被造物を支配しながら、神に感謝と讃美を捧げ、永遠に神と共に生きるようお創りになったからだと思われます。ところが、そのホモサピエンスの代表と立てられた人祖が、蛇の形で現れて語りかけた悪霊の言葉に騙されて、神の掟に背く自己中心の罪を犯して神からの超自然の愛の賜物を失ったため、ホモサピエンスは、この極度に発達した文明世界の中に生活していても、心の奥底に遺伝的に宿る自己中心主義の「古いアダム」の罪とその罰に悩まされながら生きる、内的には真に複雑な自己矛盾に苦しむ存在、自分が神の愛をもって支配すべきであった周辺の被造物からも屡々反抗され苦しめられて、やがては死によって漸く自己中心の罪の絆から解放されるという、内的に矛盾を抱えた存在として生活しています。
   本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだのです。全ての人が罪を犯したからです」と書いているのは、このことを指していると思います。何でも規則中心に考える人は、自分はどの規則にも背いておらず意図的罪は犯していないのにと思うかも知れませんが、神の御旨、神中心という一番大切な掟を無視しているその人間中心・自分中心の心の中に神を蔑ろにしている最大の罪があり、それがこの世に無数の災いや不幸を齎していることに、眼をつむっているのではないでしょうか。しかし、使徒パウロが述べているように、全人類の罪を背負ってご自身を十字架上のいけにえとして神にお献げになった主イエスの「従順」の御功徳、その御恵みは、人祖が神に対して犯した罪よりも遥かに大きなものであり、アダムの罪の穢れが全ての被造物に及び、死が全ての人を支配するようになったのなら、主イエスの功徳による罪の赦しや新しい命の恵みも、その罪の支配を打ち砕いて、全ての人の上に豊かに与えられると思います。これから主イエスの復活祭までの四旬節の間、この大きな明るい希望の内に全ての苦しみを快く受け止め、御父にお献げになっておられた主の従順心と御忍耐とに見習って、私たちも日々自分に与えられる全ての苦しみ、失敗、煩わしさなどを快く受け止め、主の御苦しみに合わせて忍耐強く従順に神にお献げ致しましょう。
   本日の福音の始めには、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」という言葉が読まれます。毎年四旬節の第一主日に読まれるこの「四十日間」が、教会が古来「主の復活祭」前に伝統的に順守している四旬節の原型であります。四旬節は単に断食する、あるいは節食する、あるいは貧しい人たちに応分の寄付をするという、教会側から年毎に推奨される外的実践に努めるだけの期間ではなく、何よりも主イエスと一致して、私たちの心の中にも働く悪魔の誘いに対して戦う心を、実践的に鍛錬する期間なのではないでしょうか。節制によって自分の心を統御するのも、その手段の一つだと思います。教会から勧められている小斉や大斉を守り行うのも、その手段の一つです。しかし外的な実行にだけ注目して、日々主キリストと一致して生きる、戦う、捧げるという、四旬節の内的目的を見失わないよう気をつけましょう。