2014年3月16日日曜日

説教集A2011年:2011年四旬節第2主日(三ケ日)



第1朗読 創世記 12章1~4a節
第2朗読 テモテへの手紙2 1章8b~10節
福音朗読 マタイによる福音書 17章1~9節

   本日の第一朗読は、後にアブラハムと改名したアブハムの召し出しの話と称してもよいと思います。数年前に南山教会のあるグループでアブラハムの話をしましたら、後で「アブラハムはその声を天から聞いたのでしょうか」、という思わぬ質問を受けたことがありました。実は皆様も私の著書『一杯の水』からご存知のように、私も昭和22年の夏に受洗して、翌年3月始めの早朝、暗い橋の上で見送る母と別れて多治見修道院へと行く時、はっきりと同じような神よりの声を聞いたことがあります。その声は自分の外からではなく、自分の胸、あるいは腹の方から聞こえました。今は故人となりましたが、私と同じような体験をしたという信者に後で尋ねて見ましたら、その人も自分の胸か腹の方からその声を聞いたと話していました。それで私の推察ですが、アブハムも、恐らく自分の胸か腹の方から神の声をはっきりと聞いたのではないでしょうか。それは、近くに誰一人いない時の体験だったでしょうから、アブラムはそれを神の声として受け止め、その言葉に従って旅立ったのではないでしょうか。アブラムはその後も度々神の声を聞いていますが、一度印象深く聴いて、忘れ難いその声をしっかりと覚えた後のアブラムは、後ではもうその声が天から聞こえても、あるいは他のどこから聞こえても、すぐそれを神の声と識別するようになったのではないでしょうか。主イエスのヨルダン川でのご受洗やご変容の時のように、神の声は屡々天から、あるいは外から聞こえることもあると思います。
   私たち人間の心、ホモサピエンスの心は、真に神がお創りになった素晴らしい傑作で、半分霊界に足を踏み入れているような、永遠に生きる霊的存在でもあると思います。そこには、悪魔も巧みに囁きかけることがあるかも知れません。それで、悪霊からの呼びかけには毅然として拒否の態度を堅持しつつ、神からの呼びかけを正しく識別し、アブラハムのようにその御声に聴き従うよう心がけましょう。それが、私たちの接する多くの人々の上に、神の祝福を呼び下す道でもあると信じます。本日の朗読の中で、神はアブラムに「地上の全ての民族はあなたによって祝福を受ける」と約束しておられます。ご聖体の秘跡を身に受ける私たちも、主キリストと一致して祈りと愛の奉仕に励むなら、その行いによってこの世の多くの人の上に神の祝福を呼び下すのではないでしょうか。
   本日の第二朗読には、使徒パウロが愛弟子テモテに、「神の力に支えられて、福音のため私と共に苦しみを忍んで下さい」と願っています。これは、自分が苦しみを献げれば、それによって主キリストの救いの恵みが、他の人たちの所で豊かな実りを齎すことになるという、それまでの度重なる体験に基づく言葉であると思います。主イエスの受難死の功徳による救いの恵みは、主と一致して苦しみを献げる宣教師や信仰者の実践を介して、多くの人の心に実りをもたらすのではないでしょうか。朗読の最後に読まれる「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現して下さいました」という使徒の言葉も、自分の苦しみや死を、今病気や死に直面して苦しんでいる人々の救いのため、喜んで献げようとする心で受け止めるように致しましょう。
   本日の福音によりますと、高い山の上での主イエスの光輝くご変容に見とれていた三人の弟子たちを、突然光輝く雲が覆い、その雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という、恐らくは威厳に満ちた声が聞こえたので、弟子たちはひれ伏し、非常に恐れたとあります。神が使徒たちから、また私たちから求めておられることは、この世に貧しい人間の姿で、あるいは御聖体のパンの姿で出現なされた主イエスを、神の御独り子として堅く信じることと、ひたすらそのお言葉に聞き従うことなのではないでしょうか。大勢いるキリスト者の中には、聖書の言葉に従って教会を改革しようとしている人たちや、主の福音を多くの人に伝えるために、自分の全てを捧げて献身的に働こうとしている人たちも少なくないと思いますが、自分で真剣に考え、全力を尽くして神のために何かをしようとしている、その善意には敬服します。しかし、それが果たして神の望んでおられることなのかとなりますと、少し首をかしげたくなります。神が望んでおられるのは、何よりもアブラハムのように、神の声、神のご計画に実践的に聞き従う信仰の人であることなのではないでしょうか。主の御変容を目撃した使徒たちも、主のご復活の後はそれまでの自分中心の夢や考えに死んで、ひたすら神のお考え中心・神の働き中心に生きようと努めていたように思われます。四旬節にあたり、とかく何事も自分中心に、あるいは規則中心に考え勝ちな私たちも、その時その時の神の御旨、いろいろとその場の状況に応じて変化する神のお導き中心に生きる生き方、我無しの神の僕・神の婢としての徹底的従順の生き方を新たに見出すことができますように、神の照らしと助けの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。
   小さな弱い私たちですが、私たちがそのように心掛ける時、神は無力な私たちをご自身の器・道具としてお使い下さり、私たちの生活や祈りを通して、この世の人々に多くの恵みを注いで下さると信じます。私たち自身はその成果をこの世で見ず、知らなくてもよいのです。先ほどの使徒パウロの言葉にありますように、「神の力に支えられて、福音のため」喜んで日々の苦しみと、祈りと奉仕をお献げしましょう。「神が私たちを救い、聖なる召命によって呼び出して下さったのは、私たちの行いによってではなく、神御自身のご計画と恵みによって」多くの人に主キリストによる救いの恵みを分け与えるためなのですから。この世では何も見なくとも、その神を愛し、大きな希望の内にひたすら神に従順に生き続けましょう。それが、神ご自身のご計画と恵みにより、神の力によって豊かな実を結ぶ道であると信じます。