2014年3月2日日曜日

説教集A2011年:2011年間第9主日(三ケ日で)



2011年間第9主日(三ケ日で)
  本日の第一朗読の出典である『申命記』は、「律法」と言われていたモーセ五書の第五のもので、その最後の章34章には、モアブのネボ山でのモーセの死について述べられています。この書が「申命記」と言われたのは、モーセが民に語った言葉や命令を後で書き記したからのようで、申命記17:18には、祭司の許にあるその伝えを書き記すように命じている言葉も読まれますから、これはモーセの時代に現在の聖書の形に書き記されたのではなく、モーセが民に語った言葉を後の時代になって、かなりの程度補足したり説明したりしながら収録された聖書であると思われます。申命記の前半11章の終りまでは、モーセが約束の地カナアンを目前にするまでの間に、荒れ野で民に与えた命令や警告とその背景の具体的状況、並びに神から与えられた十戒とその解説、神からの約束などで、それらの結びである11章に記されているモーセの言葉が、本日の第一朗読となっています。そしてそれに続く12章以降には、約束の地に入ってから守るべき様々の具体的掟や法規についての話が詳述されています。しかし、この12章以降の後半部分には、後世の祭司たちがモーセの権威を借りて書き加えた法規が多いのではないかと推察されています。
  本日の第一朗読に戻りますと、モーセの言葉の引用は途中で二度も略されて飛んでいますが、モーセは「あなたたちはこれらの私の言葉を心に留め、魂に刻み、これを印として手に結び、覚えとして額に付けなさい」などと、神の御業と祝福について語った自分の勧めや命令を決して忘れずに、それに従って生き抜くよう強調しています。そして更に「私は今日あなたたちの前に祝福と呪いを置く。云々」と、神の戒めに聞き従って受ける祝福と聞き従わずに受ける呪いとを並べて、神の民にあらためて選択させ、「今日私が授ける全ての掟と法規を忠実に守る」ことを要求しています。ご存じのように、モーセはイスラエルの民のエジプト脱出を始め、神が神に従う民になさった驚くべき大業の数々と、同じその民に属していても神のお言葉に忠実に従わなかった者たちの受けた厳しい天罰の数々とを、最も生き生きと体験し目撃して来た預言者であります。40年にも及んだ荒れ野での生活の最後に、それらの全てを改めて思い起こしながら、これから約束の地に入る神の民に語ったこの遺言の言葉には、特別の力と願いがこもっていたのではないでしょうか。
  現代の私たちも、そのモーセの背後におられた神の、現代の私たちに対するお言葉、強い願いと力に漲っているお言葉に心の耳を傾けるよう努めましょう。豊かさ・便利さを追い求め、それらに弄ばれて神を忘れ、神から離れようとしている多くの現代人が、どれ程危険で哀れな運命への道をたどりつつあるかを一番良く見通しておられ、心にかけておられる神は、その神への忠実に生きようとしている私たちに何を呼びかけておられるのでしょうか。3千数百年前のモーセはここにおられませんが、それより遥かに偉大な神の御子キリストは、あの世の命に復活なされたお姿で、目には見えないながらも今この御ミサの内に現存しておられます。主の現存に対する信仰を新たにしながら、現代の私たちに対する主の呼びかけに心の耳を傾けましょう。……
  本日の第二朗読には、「今や律法とは関係なく」「神の義が示されました」「イエス・キリストを信じることにより、信じる者全てに与えられる神の義です」「人は皆罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」というローマ書3章からの言葉が朗読されました。モーセの時代とは違って、今私たちの生きている新約時代には、律法の様々な掟や法規を学んでそれらを遵守しようと努めなくても、信仰によって主キリストの御命に結ばれるなら、神の恵みにより無償で義とされるのです。メシアが幼児の姿でこの世にお生まれになった時、天使からそのことを知らされて真っ先に主を拝みに来たのは、貧しいベトレヘムの羊飼いたちでしたが、彼らは子供の時から父母を助けて羊の世話をしていたので、ユダヤ教の会堂での礼拝に参加することも神の教えを学ぶこともできずにいました。それで律法や聖書の教えについては殆ど何も知らず、ファリサイ派の教師たちからは神から退けられている罪人として軽蔑され、社会的にも差別扱いを受けていました。しかし、それだけにひたすら神の憐れみを願い求めつつ、単純な神信仰一つに生きていたと思います。この生き方が神によって義とされ、他のユダヤ人たちよりも早く、この世にお生まれになったメシアの恵みに浴することができたのだと思います。
  使徒パウロは、ローマ書1章にハバクク預言者の言葉を引用して、「義人は信仰によって生きる」と述べていますが、神の御子がこの世にお生まれになり、受難死の後も死ぬことのないあの世の命に復活して、世の終わりまでこの世の人々と共に現存しておられる新約時代には、神の掟や教えのことは何も知らない異教徒であっても、ベトレヘムの羊飼いたちのように、全ての命の源であられる神を拝み、神の愛と恵みに依り頼んで生活しているなら、主キリストの御功徳により皆神の恵みを受けて義とされ、救われるのではないでしょうか。メシアの来臨によって私たちは皆、そのように変革された新約時代に生きているのだと思います。
  昭和初期の日本社会に生まれ育った私は、子供の頃はいつも親や周辺の人々に目を向けて、その人たちに褒められ良く思われようとして生きていました。そして戦争が激しくなると、祖国のために命を捧げて生きようと努めていました。当時はそのように教育されていたからです。しかし、その日本が負けてアメリカ軍の支配下に置かれると、暫くはどこにも自分の人生の生き甲斐が見出せなくて、深刻な虚脱状態を体験しましたが、それが一つの契機となってカトリック信仰の恵みに浴しますと、今度は神に心の眼を向け、神の内に自分の人生の生き甲斐を見出すに至りました。戦後は共産主義にかぶれた日本人や、偏った自由主義教育を受けてわがままになっている日本人が激増して、日本社会も雑然と多様化して来ましたので、同じ修道会に所属していても私とは価値観の違う人たちが少なくありませんでしたが、それでも私は、自分の心を理解してくれる人たちからは良く思われようと努めていました。これが、現代の極度に個人主義化した日本人の価値観とは違う、昔の日本人の伝統的価値観なのかも知れません。修道会でも大学でも、私はこのようにして一部の親しい人たちに支えられながら大過なく仕合わせな人生を営んで来ました。しかし、70歳になった頃からは次第に神お独りに眼を向けて生きようとする方に、心が変化して来つつあるように覚えています。長年親しくして来た人たちとも次第に会わなくなり、その人たちが次々とあの世に召されて行くような年齢になったのですから、これからは日々もっと神お独りに心を向けながら生きよう、そして聖書の教えている真理「信仰によって生きる」を、平凡な日常茶飯事を介して体得しようと思っています。
  本日の福音には、「私の父の御旨を行う者だけが天の国に入る」という主のお言葉が読まれます。このお言葉も、極度の多様化で世の中の全てが統制を失いつつある現代のグローバル世界に生活している私たちにとっては、忘れてならないと思います。各人が夫々自分個人の携帯電話やパソコンに夢中になっていて、親子や家族同士であっても殆ど話し合わない無縁社会が、全国的に広まりつつあるからです。神を自分の心の岩として、神お独りに心の根を深く下ろして、黙々といつも神と共に生きるよう心掛けましょう。そうすれば、この世にどんなに恐ろしい嵐が発生しても、移り行く現代世界の砂の上に建てられた家々が次々と倒れるのを目の当たりにしても、恐れることはありません。そのような事態に直面した時には、神と共に一人でも多くの人を救おう、助けようと働くこともできるでしょう。弱い小さな私たちですが、近い将来に訪れるかも知れないそのような非常時に備えて、密かに神と深く結ばれて生きる生き方を身につけていましょう。

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