2014年3月2日日曜日

説教集A2011年:2011年間第8主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 49章14~15節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 4章1~5節
福音朗読 マタイによる福音書 6章24~34節

    本日の第一朗読の出典である第二イザヤ書は、紀元前6世紀のバビロン捕囚の終わり頃に神から与えられた預言ですが、その前半40章から48章は、バビロンからの神の民の解放を告げる預言であります。42章には第二イザヤ書に四つある「主の僕の歌」の最初の一番短い歌が登場し、主の僕の召命について歌っていますが、44章には神の民をバビロンから解放するペルシャ王キュロスの名も登場していますので、第二イザヤ書の前半はバビロンからの解放を予告する預言であると思われます。しかし、その後半49章から54章には「主の僕の歌」が三つあって、主の僕の使命や忍耐、苦難や死について歌っており、これらは後世のメシアが受ける使命や受難死を預言した歌であると思われます。従って第二イザヤ書の後半は、バビロンからの解放を遡って実現させた、後世の神の僕メシアの功徳、贖いの御業についての預言と受け止めても良いかと思います。本日の第一朗読は、第二の「主の僕の歌」の後に述べられている神のお言葉で、シオン、すなわちエルサレムの町は、「主は私を見捨てられた」「私を忘れられた」と言うが、神は「たとえ女たちが(自分の産んだ子を)忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない」と断言しておられます。
    神はこのお言葉を、同じメシアによる贖いの恵みに浴している現代の私たちに対しても、宣言しておられるのではないでしょうか。ご存じのようにわが国では、もう13年も続いて毎年3万人を超える自死者が出ていますし、誰にも看取られずに孤独死する人も増えています。それに児童や高齢者への虐待という痛ましい出来事も、日常化しつつあります。結婚生活を束縛と感ずるのか、若い人たちの未婚率も増加して来て少子高齢化が急速に進み、各人の価値観も多様化して来ているため地縁・血縁の絆(きずな)も弱くなり、「無縁社会」「孤族」などという新しい表現を身にしみて実感している人たちも少なくないと思われます。同じ家族の中ですら互いに言葉を交わさなくなり、孤立している例が増えつつあるようですから。前の外務事務次官薮中三十二(みとじ)氏によると、外国の有識者たちが日本について一番心配していることの一つは急速な「少子高齢化」の現象だそうですが、これに対する日本人の危機感の無さが理解できない、などと話しているそうです。一億二千万という西欧のどの国よりも大きな人口を持つ国で、世界のどの国よりも早く「少子高齢化」という一種の新しい国難に直面し、日本がその難局をどのように切り抜けようとしているかに世界が注目しているのに、当の日本人がその問題をあまり自覚しないでいることに、その人たちは驚いているようです。私たち日本人は今の自分の生活だけに目を向けて、全てが目まぐるしく発展や変転を続けている現状では、子孫や国の将来について考えても分らない、と諦めているのかも知れませんが、日本による問題解決の方策に注目しようとしていた一部の外国人たちは、私たちのこのような姿勢に驚いているのかも知れません。
    眼を転じて海外の動きを眺めますと、最近はアフリカや中東のアラブ諸国で、これまでの国家体制をその地盤である民衆の力で崩壊させる動きが広まりつつあるようですが、私はこれらの不穏な動きの背後には、これまでの伝統的社会体制を内側から瓦解させて、個々の国家ではなく、民衆が人類共同のグロバール社会のため積極的に尽力するような状態に、変革しようとしておられる神の力が働いているのではなかろうか、などと考えています。もしそうだとしますと、これからの人類社会がどのように成るかは、恐らくまだ誰にも予測できないでしょう。神はそれ程大きな変革を、現代の人類世界に導入しようとしておられるかも知れないのです。何時どこで発生するか人間の予めの予測を許さない地震のような、神による変革の働きに対してはくよくよ心配せずに、良寛和尚のように「壊れる時は壊れるのが良いのです。死ぬ時は死ぬのが良いのです」と言って、神から与えられるその苦難を素直に受け入れて耐え忍び、その苦しみや死を神にお献げするのが、一番賢明な生き方なのではないでしょうか。小羊のように従順な精神で神の働きに心の眼を向けているなら、神はそれらの苦難に耐える力も、場合によってはそこから抜け出る道も、私たちに与えて下さると信じます。わが子を愛する世の母親たちよりも深く、私たちを愛しておられる神なのですから。
    本日の第二朗読には、「私を裁くのは主なのです」という使徒パウロの言葉が読まれますが、私たちの神なる主は、私たち人間のように何かの理知的な考えや原則を最高のものとして働かれる方ではなく、ご自身の愛のままに全く自由に働かれる方であると思います。その神が今の人の世を支配している人間主導の思想や伝統的社会体制をその根底から揺り動かして崩壊させ、全く新しい世に変革させようとなさるのなら、たとえその変動がこれ迄の人類主導の罪に対するどれ程厳しい裁きのように見えようとも、神のその働き、その御旨に服して全てを耐え忍び、神の僕・神の婢として神の新しい働きに従い協力するのが、神に身を捧げた私たち修道者の生き方だと思います。私たち人類が迎えようとしているこれからの時代は、もう私たちがこれまで味わって来たような豊かさと便利さに溢れた楽しみいっぱいの世ではなく、大自然とのバランスを無視した人間の欲求の営みや、富の追及一辺倒の営みに対する、自然界からの各種の反動に苦しめられる世になるかも知れません。未曾有の気象の変動や大地震だけではなく、水不足や食糧不足に苦しめられるような社会になるかも知れません。そのような情報を耳にする度毎にいつも神に心の眼を向け、これまでの人類の罪をお詫びし償う精神で、神に祈りを献げましょう。そうすれば神はそれらの災害に苦しむ人たちにも、必要な導きや助けをお与え下さると信じます。
    本日の福音の中で主は、「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」と明言しておられます。これまでの近代人の多くは、長年にわたって神を無視し、神がお創りになった地球の生態系を乱したり環境を大規模に汚染したりして、自分たちの生活の豊かさを追い求めて来ましたが、ここに至って神は、その積もり積もった人類の罪を厳しくお裁きになり、その罪を償わせようとしておられるのかも知れません。第二朗読の中で使徒パウロは、「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかになさいます」と述べていますが、主が今の世に明らかになさる「隠されている秘密」や「人の心の企て」は、神の御旨に背いた汚らわしいものばかりではなく、神の御旨に従って人知れずこつこつと実践して来た数多くの愛の実践をも指していると思います。これから話すことは私の勝手な想像ですが、人類の諸国・諸民族が継承して来た大小無数の伝統的文化・宗教・国家・社会の川のような流れが、皆一つの海流になって渦巻くこれからのグローバル世界の中で、神はこれまで人間社会の内に深く隠れていた善悪様々な心の流れを次々と表に出して、そのそれぞれにお報いになるおつもりなのかも知れません。これから人類が迎えるグローバル世界では全てが流動的で、各人は大災害後の難民たちのように蓄えの殆どない貧しい生活を余儀なくされるかも知れませんが、しかし、神を信じて生きる人たち、何よりもまず神の国と神の御前での義を求めている人たちは、明日は「何を食べ、何を飲もうか」などと思い悩む必要はないと信じます。神ご自身が働いて不思議な出会いや不思議な発見をさせて下さり、当面必要なものは次々と与えて下さると信じます。ただいつも神に心の眼を向け、神に従って生きるように努めましょう。 これが、本日の福音を読んでいて、ふと私の心に浮かんだ夢でございます。