2014年3月23日日曜日

説教集A2011年:2011年四旬節第3主日(三ケ日)



第1朗読 出エジプト記 17章3~7節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 5章1~2、5~8節
福音朗読 ヨハネによる福音書 4章5~42節

  本日のミサ聖祭には、集会祈願にも拝領祈願にも、また第一朗読にも福音にも、「渇く」という動詞が登場しています。第一朗読によりますと、エジプト脱出に成功したイスラエルの民は、水の少ないシナイ半島を通る時に喉の渇きに苦しみ、モーセに不平を並べ立てたようです。「なぜ我々をエジプトから導き出したのか。私も子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」などと。ここで「家畜も」という言葉があることから察しますと、遊牧民の子孫であるイスラエルの民は、エジプトでも居住地に少しの家畜を飼育していたようで、エジプト脱出の時にはそれらの家畜も連れてシナイ半島まで来たようです。羊などは旅の途中に生えている草を、場合によっては草の根までも食べながら飼い主に付いて来ますから。としますと、神の民の一日の行程はそれ程大きくはなく、せいぜい20キロ前後であったと思われます。数々の天罰を受けて、モーセに民を連れてシナイ半島に行くことを許したファラオが数日後に思い直し、馬を駆使して進む当時の戦車部隊を連れて、まだエジプトの国境にまで達せずにいた彼らの所に来ることができたのもよく判ります。イスラエルの民はシナイ半島では初めの内、それらの家畜の肉を食べながら進み、その肉が無くなった時に神から渡り鳥うづらの肉を貰うようになったのかも知れません。
  水も草も殆どないシナイ半島の荒れ野を旅して渇きに苦しむ彼らの不平を聞いたモーセが神に、「彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています」と叫んでいることから察しますと、水不足に悩む民の苦しみは耐えがたい程のものであったと思われます。神はモーセに、神がある岩の上にお立ちになるから、以前にモーセが神から戴いた奇跡の杖でその岩を打つようお命じなり、モーセがイスラエルの長老たちの目の前でその通りにすると、その岩から大量の水が流れ出て、民はその奇跡の水によって喝を癒すことができました。聖書には「ホレブの岩」とありますが、ホレブを神がモーセに十戒をお授けになったシナイ山としますと、この地点からはまだまだ遠く離れた所に聳えている山です。しかし神は、その遠く離れている一つの山だけを指して話されたのではなく、このシナイ半島の西側に連なっている大小のシナイ連峰全体の岩を指して、「ホレブの岩」と表現なされたのではないでしょうか。というのは、この地方の山々は大昔に海だった所から隆起したのか、炭酸カルシウムを主成分とする白系の石灰岩が多くて、この石灰岩は空気に接触している外側の部分は堅い岩ですが、その岩肌の内側は少し柔らかになっていて、そこに水を蓄えていることも多いようなのです。
  第一次世界大戦によりドイツ帝国と同盟していたオスマントルコ帝国が滅びると、その領地であったエジプトもシナイ半島も、国連から委任された英国の領地となりましたが、1925年に英国の弁務官ジャーヴィス少佐が駱駝隊を連れてこの地方を視察し途中で休憩したら、この地方出身の隊員たちが水を求めてある岩の傍をシャベルで掘り始めたそうです。そしてそこが濡れているのを発見すると、皆でその変色している岩の肌を、猛烈な勢いで打ち砕いたそうです。するとその砕け落ちた岩肌の内がわにある大きな岩の無数の穴から、たくさんの水がシューと噴き出し、人々はその水を器に入れて飲むことができたそうです。それで大佐は、モーセの話を思い出したそうです。察するに神はモーセの祈りに応えて、シナイ連山の石灰岩に蓄積されていた大量の水を、この時神の民の前に流れ出させる奇跡を行われたのではないでしょうか。なお、ついでながらモーセに与えられた十戒も、掘り出されたばかりのまだ柔らかい石灰岩に刻まれて与えられ、それが空気に触れて堅くなったのではないかと思われます。
  ところで、神はいったいなぜ、大勢のイスラエル民族を水の少ないシナイ半島を通らせて、死ぬかと思われる程の苦しみをお与えになったのでしょうか。自分の欲望や自分の考え中心の古い生き方に死んで、もっと神のお望みや神の御旨中心の新しい生き方へと、移行させるためであったと思われます。神からの幻示に基づいて記されたと思われる創造神話によりますと、人祖は神のご命令に背いて「善悪を知る木」の実を取って食べ、神のようになろう、自分が主導権を取って生きようとしたために、神の恩寵を失ってこの世に罪と死の苦しみを招き入れてしまいました。それで、神の導きに従って神の恩寵の内に生きるようになるためには、自分の望みや考え中心のこれまでの生き方に死ぬことと、死の苦しみを耐え忍ぶこととが、神から求められるのではないでしょうか。イスラエルの民だけではなく、全ての民に神の国に入る救いの恵みを提供するために、天の御父からこの罪の世に派遣されて人類の一員になられた主イエスも、死の苦しみを経て神の永遠の命に復活するという新しい生き方の模範を、身をもってお示しになりました。フィリピ2章には、「自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者」になつたとあります。その主が私たちに神の恩寵を与えるためにお定めになった洗礼の秘跡も、自分に死んで神の御旨中心に生きるという、いわば「死」と「生」という二つの側面を持つ秘跡であります。四旬節に当たり、私たちもこれまでの自分の考え中心になり勝ちであった生き方に死んで、神の御旨中心の生き方に改心するよう心掛けましょう。
  本日の福音によりますと、旅に疲れて井戸のそばに座っておられた主イエスは、水を汲みに来たサマリアの女に、「水を飲ませて下さい」と願っておられます。女が「あなたは水を汲むものをお持ちでない」と話していることから察しますと、当時の旅行者が普通に持参していた革製の水汲み容器を、主の弟子たちは持参したまま食べ物を買うために町に行ったようです。しかし、「水を飲ませて下さい」という主の願いはその女の心への呼びかけでもあって、主はこの後、礼拝すべき場所はこの山かエルサレムかという、この女の宗教的質問に答えて、新しい真理を啓示なさいます。「真の礼拝者たちが、霊と真理の内に(神なる)父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるから。云々」というお言葉です。宇宙万物をお創りになった同じ唯一神を信奉していても、どこでどのようにしてその神を拝むのかという問題については、現代でも人類社会に根を下ろしている各種宗教組織の間で大きく異なっています。ある地方では宗教間のその相違や対立が、平和を乱す深刻な問題にもなっています。主イエスは、サマリアの女に話されたそのお言葉で、現代の宗教対立を解消するための道も示唆しておられるのではないでしょうか。主にとっては、全人類に一つの宗教しか存在していないと思います。外的人間的な宗教組織や宗教形態というものに囚われずに、神中心にもっと内的にまた柔軟に神に仕える道を模索するのが、神から私たち現代人に与えられている一つの課題だと思います。
  今はまだ溢れる豊かさの中で生活している私たち現代人が、遠からず恐ろしい飢えと渇きに苦しめられる時代が到来するかも知れません。水の惑星と言われる地球の水の約97%は海水で、残り3%の淡水のうち70%は北極や南極などでの氷ですから、私たちの利用できる水資源は、雲・川・湖・地下水などに限られていますが、過去百年の間に世界のその水の使用量は9倍に増加し、安全な飲み水に不足している人たちは、人類65億人の中10億人に達しています。それで少し古い話になりますが、10年程前の紀元2000年に開催された世界水会議は、2025年には世界の人口の40%が、深刻な水不足に直面すると警告しています。世界各地の水不足が深刻になれば、食料の多くを輸入に頼っている日本も、大きな影響を受けると思います。高度に発達した文明の恩恵に浴している現代の若者たちの将来には、数々の思わぬ貧困が待ち受けているかも知れません。一人でも多くの人の心が、私たちの置かれているこの事態に早く目覚め、モーセよりも遥かに大きな奇跡的助けを神から呼び下すことのおできになる主キリストにしっかりと結ばれて、その苦難を乗り越えることができますように、神の憐れみと導きを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。