2015年3月29日日曜日

説教集B2012年:2012年受難の主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 50章4~7節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙 2章6~11節
福音朗読 マルコによる福音書 14章1~15章47節

   ヘロデ大王が紀元前20年に始めたエルサレム神殿の大改築が殆ど完成していたキリスト時代には、天才的なギリシャ人建築師の活躍で美しくなったエルサレム神殿を見ようと、祭りの日にはユダヤ人ばかりでなく異邦人も大勢、国外からエルサレムに参集して全員がエルサレムの市内に宿泊できず、周辺の村々に宿泊したり、ゲッセマネなどの畑地に野宿したりする人たちも少なくなかったようですが、主が受難死を遂げる直前の頃、エルサレムには、主を死刑にしようと決めていたユダヤ教指導者たちの声に反対できず、それに従っていた人たちが大勢いました。しかし他方、過越祭を祝うため各地から参集したユダヤ人たちの中には、主をメシアとして信じている人たちも大勢いたようです。主のエルサレム入城の時には、この第二のグループの人たちが主の入城行進に参加する使徒たちやベタニア方面からの弟子たちの讃歌を耳にして、非常に大勢「黄金の門」と言われていた神殿の真東にある城門から出て来て、メシアを讃美し歓迎するその行列に参加したようです。ヨハネ福音書によりますと、それを見たファリサイ派の人々は互いに、「もう何もかも駄目だ。見ろ、世はこぞってあの人についてしまった」と言ったようです。

   本日のミサの開祭の前に、そのエルサレム入城を記念した儀式の中で朗読されたマタイ福音書の最後には、「前を行く者も後に従う者も『ホサンナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサンナ』と叫んだ」とありますが、この讃美の言葉は、その時メシア歓迎の行列に自由に参加した群衆が新たに作り出して讃美ではなく、彼らが毎年秋の仮庵祭の行列の時に枝を携えて歌え慣れていた詩篇118番からの言葉だと思います。私たちがこの聖堂で、日曜日毎に唱和する詩篇118番の25, 26節は、日本語で「神よ、救いを私たちに。神よ、幸せを私たちに。神の名によって集まる人たちに神の祝福。祝福は神の家からあなた方の上に」と翻訳されていますが、ユダヤ人たちの唱えていたヘブライ語の原文では少し違っていて、「救いを私たちに」の言葉はホサンナとなっており、ホサンナという叫びは、「救ってください」という意味も持つそうです。そして「神の名によって集まる人たちに神の祝福」とある詩編の言葉は、主のエルサレム入城を報じている四福音書に共通して、「主の名によって来られる方に祝福」という風に言い換えられています。これはメシアを目前にしての歓迎の喜びで感激していた人たちが敢えて言い換え、主メシアを讃美・祝福する言葉にしたのだと思われます。

   本日の福音の場面は、メシア歓迎のその場面とは正反対で、主を死刑にしてもらおうとしていた祭司長たちや、長老・律法学者たちが主導権を取って、ユダヤ人群衆を扇動したり、ローマ総督ピラトの心を動かそうとしています。その人たちの話や罪状書きに、「ユダヤ人の王」という言葉が5回も登場していますが、その称号自体は正しいとしても、ピラトとローマ兵たちは政治的観点から、ユダヤ人たちは宗教的観点から、囚人の姿にされている主を王ではない、メシアではないと考えており、主のその称号を、皮肉を込めた軽蔑的意味で使っていたと思われます。そこには、数日前に主をメシアとして歓迎し讃美した敬虔な人たちの一部も、事の成り行きを見るため心配しながら出席していたと思われますが、折角捕縛することのできた主イエスを、是が非でも死刑にしてしまいたいと意気込んでいるユダヤ教代表者たちの険悪な雰囲気に圧倒されて、黙しているだけであったことでしょう。

   神の子メシアの福音に謙虚に耳を傾けようとしない、そんな人々が大勢群がりいきり立っている前に、囚人のようにして連れ出された主が、裁判席に着いた総督ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問されても、相手は主の返答を正しく受け止める宗教心を持たず、また持とうともしていないのですから、主はあいまいな返事をし、それ以上には何もお答えになりませんでした。「それは、あなたが言っていることです」という言い方は、「その通りです」という肯定的意味の返事であることも、逆に否定的意味の返事である場合もあったようです。主は、わざとこのあいまいな言い方を利用なされたのだと思います。メシアは確かにユダヤ人の王ですが、ビラトがその言葉で考えるようなこの世の王ではなく、もっと遥かに偉大で超越しておられる神のようなあの世の王なのですから。主を処刑させようとして騒ぐその場のユダヤ人たちから何と言われても、それらの言葉を毅然として受け止め、少しもたじろがすに沈黙しておられる主の威厳に満ちたお姿も、主が偉大な王であられることを示していたと思われます。総督ピラトも少しはそのことを感じていたでしょうが、しかし、ローマ法によって厳しく処罰されることになる暴動を阻止するために、目前に騒ぎ立てているユダヤ教指導者たちや群衆の心をなだめることを優先し、結局彼らの要求通りに、主に十字架刑を言い渡してしまいました。

   可哀そうな総督ピラトのために一言弁明するなら、経済的に発展していた当時のローマ帝国は、法の順守と平和や秩序の維持を強調し、何かの非合理的情念にかられて社会秩序を乱す者に対しては驚く程厳しく弾圧していましたから、ユダヤ教代表者たちがこぞって、ローマ法に基づいて話し合うことのできない、そのような非合理的宗教的な情念に駆られて、大勢の群衆と共に主イエスの死刑を要求する姿に呆れるとともに、もしここで彼らの要求を退けるなら、国を挙げての大暴動も起こりかねないと思ったのかも知れません。その場合、宗教心と結ばれたその暴動の鎮圧には、非常に多くの犠牲が伴うばかりでなく、ローマ皇帝から自分の対応が悪かったとされて、厳しく責任を問われることになるであろう。そんな事態を避けるには、彼らの要求通りに今囚人として連れて来られたこの一人の男に死んでもらうのが得策と考えたかも知れません。そこに、ピラトの大きな罪があると思います。もし落ち着いていたなら、彼には逃げ道がなかったわけではありません。ローマ法で裁くことのできないこういう裁判は、自分で裁こうとせずに、その男イエスを留置してローマ皇帝に送り、ローマで裁判してもらえば良かったと思います。しかし、神の御摂理は、イスカリオテのユダにも総督ピラトにも罪を犯させることによって、人類救済の業をこの時エルサレムで達成させてくださったのだと思います。
   主が十字架上で死ぬ少し前に大声で叫ばれた、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」というお言葉は、絶望の叫びではありません。父なる神に希望をかけて、ひたすらに助けと救いを求める祈りの叫びだと思います。主が全人類の罪を背負って絶望的孤独に耐えておられたこと、そして絶望の淵に立たされている罪人たちの救いのためにも祈っておられたことを示す叫びでもあると思います。この言葉自体は詩篇22番の最初の言葉であり、この詩の後半には、私たちが度々『教会の祈り』の中で唱えているように、「神よ、私から遠く離れず、力強く急いで助けに来て下さい」、「神は弱り果てた人々を思いやり、顔をそむけることなく、その願いを聞き入れられた」、「遠く地の果てまで、すべての者が神に立ち帰り、諸国の民は神の前にひざをかがめる」などの言葉が多く続いていて、神の救いに対する希望と感謝と讃美に溢れています。主は、無数の罪人たちに対する神の救いの業を強く促し、神の助けを早めるために、大声でこのように叫び、息を引き取られたのではないでしょうか。

   するとその時、エルサレム神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと、共観福音書は三つとも一致して伝えています。これはそれまでの古い神殿礼拝の時代が終わり、主がかつてサマリアの女に話された「霊と真理のうちに」捧げる新しい普遍的礼拝の時代が始まったことを示しているのだと思います。主の受難死の一部始終を間近で目撃していたローマ軍の百人隊長は、主のご死去直後に、「まことに、この人は神の子であった」と、おそらく深い感動の心で話したようですが、この時から世界各国の異教徒も続々と主イエスを神の子として信奉し、至る所で神を礼拝する新しい時代が始まった、と言うことができます。人類救済のためになされた主の祈りと受難死に感謝しながら、本日の集会祈願にもありますように、私たちも主と共に苦しみに耐えることによって、復活の喜びを共にすることができるよう、神の導きと恵みを願い求めましょう。


   ご存じのように、本日「枝の主日」は教皇ヨハネ・パウロ2世により、1988年からカトリック教会において「世界青年の日」(ワールド・ユース・デー)とされています。いろいろと数多くの問題を抱えている現代社会の重荷を背負い、それらの問題の解消に取り組んでくれるのは、若者たちの純真な神信仰と果敢な挑戦意欲だと思います。本日のミサ聖祭の中で、現代世界の若者たちが神の導きと助けを受けて、人類社会の内的向上のため実り豊かな生き方をすることができるよう、全世界の教会と心を合わせて、かれら若者たちの上に神の祝福を願い求めたいと思います。どうぞ、ご一緒にお祈り下さい。

2015年3月22日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第5主日(三ケ日)

第1朗読 エレミア書 31章31~34節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 5章7~9節
福音朗読 ヨハネによる福音書 12章20~33節

   本日の第二朗読には、「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方 (すなわち天におられる父なる神) に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」という言葉が読まれます。全能の神の御子であられる主は、この世にお生まれになった時、実際にそこまでこの苦しみの世に生きる私たち人間の肉の弱さを背負い、苦しみながら泣きながら弱い人、苦しむ人に伴って生活し、父なる神に助けを願い求めつつ生きておられたのだと思います。全能の神の御子は、罪と闇に苦しむこの世の貧しい人たち、苦悩する人たちの間に生活し、その苦しみを分かち合うことによって、この現し世の苦しみを聖化し、神の超自然的恵みの器・手段に高めて下さったのではないでしょうか。「傷める貝にのみ真珠は宿る」と申しますが、体内に入った異物に苦しめば苦しむ程、アコヤ貝はそれを核にして大きな美しい真珠・光輝く真珠を生み出し、育て上げるのだと思います。ある聖人は、主キリストと一致して耐え忍ぶ苦しみが多くの恵みをもたらすことに感嘆し、苦しみを「第八の秘跡」と呼んだそうです。私たちの生活しているこの現し世には、病気・災難・誤解・不安・詐欺・失敗などから齎される試練や苦しみが数限りなく存在し、時々私たちの心を襲って苦しめ悩ましますが、その時この世に受肉し、私たちの人間性をしっかりと受け止めて聖化なされた救い主が、私たちの魂の中に深く隠れてその苦しみを一緒に耐え忍び、私たちの内に人間救済の超自然の恵み、超自然の真珠を産み出しておられることに心を向けましょう。

   本日の第二朗読には、主イエスは神の御独り子であっても、また激しい叫び声をあげ、どれほど涙を流して祈っても、人間としてのその願いはそれだけでは天の御父に聞きいれられず、神を畏れ敬い、神の御旨中心に生きる僕の心を、「日ごろの態度」にもはっきりと表明し体現しておられたので、その実践的態度の中に主の従順心を御覧になっておられた神によって、その願いが聞きいれられたかのように述べられています。ヨハネ5章の中ほどに、主はユダヤ人たちに、「私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御旨を行おうとしているからである」と話しておられますが、何が正しいかという正義や権利の問題になると、私たち人間はとかく何かの法や何かの理論に基づいて権利や義務などについて考え勝ちです。しかしそれは、この世の人間社会には通用しても神には通用しません。神の上に法や理論を置くことになるからです。私たちの信仰生活においては、神の御旨だけが正義の基準であり、それを実践的に畏れ尊ぶ従順の生き方だけが、神の御前に義とされ、神に願いが聞き届けられる道であると信じます。主は、その模範を身を持って示しておられたのではないでしょうか。

   第二朗読から学びたいもう一つのことは、「多くの苦しみによって従順を学ばれ、完全な者となられたので」全ての人の「永遠の救いの源となった」という理由付けであります。神の子という肩書きや、修道者・司祭というような肩書きが幾つあっても、それだけではたとえどれ程多くの祈りを神に捧げても、人々の上に救いの恵みを豊かに呼び降すことはできないと思います。私たちの心の奥底には、人祖から受け継いだ自分中心の罪の根、不従順の罪の力がまだ根強く残っていて、神の働きを妨げて止まないでしょうから。その隠れている罪の力を、多くの苦しみに耐えることによって根絶し、神への徹底的従順を体得し体現して神の愛の恵みが心の底にまで行き届く人間になってこそ、神の御独り子と内的に深く結ばれた神の子・修道者・司祭となり、全ての人に救いの恵みを伝える神の器に高められて行くのではないでしょうか。人となられた神の子イエスを、人間としても初めから全てを知っておられて、何も学ぶ必要のなかった方と考えないように気をつけましょう。主は人間としては多くの苦しみによって神への従順を学び、最後まで内的に成長し続けられた方であったと思います。神は私たちも同じ様に従順によって内的に成長し続け、人類救済の業に参与するよう望んでおられるのではないでしょうか。主において私たちにも与えられているこの使命を、私たちもできるだけ忠実に果たすことができるよう、主の実践に学びましょう。

   主のご受難が間近に迫って来た頃の話である本日の福音には、まずユダヤ人の過越祭の時に礼拝するため、エルサレムに上って来た数人のギリシャ人たちが、ギリシャ系の名前を持つフィリッポとアンドレアスを介して、主に御目にかかりたいと願い出たことが語られています。彼らからの願い出を聞くとすぐに、主は、ギリシャ語原文によると「時が来た。人の子が栄光を受ける時が」と話し始められたのです。そのお言葉には、一種の感動のようなものが感じられます。主は以前に「善い牧者」について語られた時、「私にはこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらをも導かなければならない。…. こうして一つの群れ、一人の牧者となる。…. 私は命を捨てることができ、また再びそれを得ることができる。私は、この命令を父から受けた」などと話されましたが、異邦人の到来は、何かこの話と関係しているのではないでしょうか。主はギリシャ人たちの来訪の中に、何か御父からの徴を御覧になり、この時にあらためて全人類の罪を背負われたのではないでしょうか。とにかく主は、ギリシャ人たちの来訪を知らされると、突然ご自身の死について語られ、「私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名に栄光を現して下さい」などと祈りましたが、その時天から「私は既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が響き渡ったようです。側にいた群衆はそれを、雷が鳴っただの、天使が語ったなどと思ったようですが、その声が、雷鳴のような威厳に満ちていたからであったと思われます。

   ところで、主が「栄光を受ける時」あるいは「御名に栄光を現す時」と表現しておられるその「時」は、主がその御命を捨てる受難死の時を指しています。主はその時について、「一粒の麦が地に落ちて、…. 死ねば多くの実を結ぶ」と説明し、更に弟子たちのためにも、「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所にいることになり、…. 父はその人を大切にして下さる」などと教えておられます。私たちも主と一致して神に敵対する人類の罪までも背負い、その罪に汚れた自分の命をいけにえとなして神に捧げるなら、そして地に葬られてその殻が破られるなら、その時、私たちのこの世の命の殻の中に孕まれていた神の子の永遠の命も輝き出て、多くの人を救いに導き、豊かな実を結ぶに至るのではないでしょうか。「私に従え」という主の御言葉は、そのことを指していると思います。私たち各人がそのようにしてそれぞれの死を神に捧げる時、本日の福音にあるように、神の栄光が私たち各人の上にも現れて、この世の支配者、悪霊たちを追放して下さるのではないでしょうか。それは、生身の弱さを背負う人間となられた主ご自身も、「私の魂は騒いでいる。何と言おうか。父よ、私をこの時から救って下さい」と御父に祈られた程、恐ろしい苦しみの「時」でしょうが、しかし、その魂がこの世の殻を破って輝かしい栄光の命に生まれ出る時でもあります。ちょうど昆虫が羽化して成虫になり、古い殻を捨て去る飛躍の時のように。


   主の受難死と復活を記念する聖週間の典礼を間近にして、本日の福音にある主のお言葉を心に銘記しながら、私たちも主と共に全てを全能の神に委ねつつ、大きな信頼のうちに自分の死を先取りし、内的に主の死を追体験するよう心がけましょう。主は「私に仕えようとする者は私に従え。そうすれば、私のいる所に私に仕える者もいることになる」「父はその人を大切にして下さる」と語っておられるのですから。恐れずに、主と共に勇気をもって、苦しみと死に向かって進んで行きましょう。多くの人の救いのため、自分の命を主のいけにえに合わせて天の御父にお献げするために。

2015年3月8日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第3主日(三ケ日)

第1朗読 出エジプト記 20章1~17節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 1章22~25節
福音朗読 ヨハネによる福音書 2章13~25節

   本日の第一朗読は、モーセを通して与えられたいわゆる「十戒」でありますが、ここでは先週と同様、第二朗読と福音についてだけ、ご一緒に考えて見たいと思います。第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、信仰と従順の闇の中で神への奉仕愛に生きようとしていないからではないでしょうか。また自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人々に神による救いの恵みをもたらすため、十字架の死を甘受なされたキリストの献身的愛の生き方を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの「現し世」の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。

   使徒パウロがユダヤ人やギリシャ人について書いているこれらの言葉は、2千年前のユダヤ人・ギリシャ人にだけ該当する指摘ではなく、自分中心・この世の生活中心に生きている全ての人に、時代や場所の違いを超えて通用する指摘であると思います。極度の豊かさと便利さの中に生れ育ち、民主主義・自由主義の時代思想を自分中心の立場で都合よく理解しながら生活している、現代の多くの人たちにもそのまま該当すると思います。現代には若者や中年の大人たちの間で、家族や人間社会に対しても、自分の人生についても心に一種の根深い不信感ないし絶望感を抱いている人が増えて来ているように思われます。わが国で14年前から毎年3万人以上の人が自殺しているのも、各人の自我が自分で作った内的殻の中に自分の心を閉じ込め、大きく開いた明るい奉仕的精神で、家族や社会と共に生きる若さを持てずにいる証拠だと思います。夏目漱石は、各人に大きな自由と夢を与える近代文明・現代文明の背後には、個人主義の反乱が齎すそのような恐ろしいマイナス面が隠れていることを予見していたようで、『草枕』の中に、「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする」などと書いています。私たちの生活を支えておられる神の存在を知らず認めずに、ただ人間の力だけに頼って生きることしか知らないなら、次々と際限なく様々の格差や相互対立を産み出して止まない現代の歪んだグローバル社会に、不安と絶望を痛感するのは当然だと思います。神に対する信仰・信頼・委ねの心という、人生にとって大切な霊的土台が欠如しているからです。

   将来に明るい希望を持てずにいる、そういう人たちが増えつつあることを思うと、神信仰に生きる恵みに浴している私たちには、神の愛・聖霊の神殿としての生き方を実践的に深めることにより、神の恵みと憐れみを世の人々の心に呼び下す使命を、神から与えられ期待されていると思います。神は一人でも多くの人を救おうと、真剣になっておられる親心の持ち主ですから。神は私たちの奥底の心を目覚めさせるため、時として思わぬ失敗・病苦・災害などの試練をお遣わしになりますが、その時はすぐに神に心の眼を向け、神の僕・婢としてそれらの苦しみを甘受し、今神よりの照らし・助けの恵みを必要としている人たちのため、喜んで神にお献げ致しましょう。そしていつも神中心に神のため、無料奉仕の精神で生きるよう努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと目覚めて立ち上がり、私たちの自我がいつの間にか無意識のうちに築いていた、心の殻や壁を内側から打ち壊して、新たな奉仕の意欲で自由にのびのびと生き始めるようになります。心の中に神の霊の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づいて、本日の聖書の中で神の力、神の知恵を私たちに説いているのではないでしょうか。

   本日の福音に読まれる、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」という主のお言葉は、主が常日頃ご自身の体を神の神殿、神の霊の生きている神殿と考えておられたことを示していると思います。使徒パウロもコリント前書3章や6章に、洗礼の秘跡を受けた私たちの体が、聖霊の宿って下さる神殿になっていることを説いています。主イエスの御模範に倣って、私たちもこの信仰を大切に致しましょう。私たちの体は自分個人のものではなく、洗礼の秘跡によって聖化され、神に献げられた神殿になっているのです。私たちは修道誓願によっても、この献げを更に堅めています。四旬節に当たってこの初心を新たにし、日々主イエスと深く一致しながら、聖霊の生きる神殿として生活するよう心がけましょう。そうすれば私たちのごく平凡な言行も、ちょうどあどけない幼子の言行が母親の愛を促すように、父なる神の愛と憐れみを促して、この世の人々の上に神による照らしと助けの恵みを豊かに呼び下すと信じます。


   神殿は、神と人間社会とを結ぶ祈りの場であり、神が恵みを施すパイプのような器であると思います。神殿はまた、太祖ヤコブが夢に見た天と地を結ぶ梯子のようなもの、あるいはモーセたちが荒れ野を旅した時に神臨在の幕屋の上に留まっていた雲の柱のようなものでもあると思います。私たち各人の体と天の神とを結ぶ、目に見えないそのような霊的梯子や雲の柱の存在を信じ、自分の体を物質的動物的にだけ見ないよう心がけましょう。神殿は、神と人々への献身的奉仕にその存在価値を持つものであることも、忘れてはなりません。主イエスは「私は仕えられるためではなく、仕えるために来た」とおっしゃいましたが、私たちも同じ精神で日々神と人とに仕えるよう心がけましょう。

2015年3月1日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第2主日(泰阜カルメル会で)

第1朗読 創世記 22章1~2, 9a, 10~13, 15~18節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章31b~34節
福音朗読 マルコによる福音書 9章2~10節

  本日の第一朗読はアブラハムが捧げた「イサクのいけにえ」についての話ですが、ここでは本日の第二朗読と福音について考えてみたいと思います。第二朗読はローマ書第8章からの引用で、「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」という言葉に始まる、神に対する大胆な信頼と、どんな敵をも恐れない豪胆な意志表示だけの短い引用文であります。この意志表示に込められている使徒パウロの心を味わい知るには、使徒がその前後に述べているローマ書第8章の話全体を、一緒に考え合わせる必要があります。使徒はこの8章を「キリスト・イエスに結ばれている者には、もはや死の宣告はありません」「聖霊が罪と死の原理から解放してくれたからです」という言葉で書き始め、まずその御独り子を罪深い「肉」の姿でこの世にお遣わしになった神が、その御子を罪を償ういけにえと為して律法の要求する所を成就し、その御子に結ばれ、御子の「霊」に従って生きている私たちを、罪と死の支配から解放して下さったことを説いています。

  したがって、死者の中から復活なされた主イエスの霊を心に宿し、その霊に従って生きる私たちは死んでも皆、主イエスのように生きるようになるのです。「肉」に従って生きるなら死にますが、聖霊によって悪い行いを絶つなら生きるのです。聖霊に導かれる人は、神の子とする霊を受けたのですから皆神の子なのです。私たちはこの霊によって、神を「アバ、父よ」と呼んで祈ることができ、また主キリストと共同で神の国の相続人とされています。キリストと共に苦しむなら、キリストと共に栄光を受けるのです。使徒パウロはこう述べた後に、「現在の苦しみは、私たちに現わされる筈の栄光に比べると、取るに足りないと思います。云々」と書き、虚しさに服従させられている被造物たちが、神の子らの現れるのを切なる思いで待ち焦がれていることや、私たちの将来に輝かしい希望があることなどを述べています。そして「聖霊も私たちの弱さを助けて下さいます。私たちはどのように祈るべきか知りませんが、聖霊ご自身が言葉に表せない呻きを通して私たちのために執り成して下さるのです」と私たち各人の中での聖霊の祈りや働きについて述べており、それは、神が私たち召された者たちを「御子の生き写しになるようにと予めお定めになったからである」ことや、こうして「御子が大勢の兄弟たちの中で長子となるため」であること、また召された者たちを正しい者として、栄光をお与えになることなどについて述べています。

  神による新しい救いの御業についてのこれらの言葉に続いて、使徒パウロの書いているのが本日の第二朗読の言葉です。そこには「私たち全てのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜わらない筈がありましょうか。云々」と、神の絶大な愛に対する信頼が表明されています。この引用文のすぐ後にも、「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができましょう。災いか、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」などと大胆な信頼の言葉が続いています。そして第8章の終末には、「死も、生命も、天使も、支配者も、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高い所にいるものも、深い所にいるものも、他のどんな被造物も、我らの主キリスト・イエスにおいて現れた神の愛から私たちを引き離すことはできないのです」と書いています。四旬節に当たり、神の愛故に被造物界のどんな存在や現象をも恐れない使徒パウロのこの模範に倣い、私たちも小さい者ながら、神のその大きな愛に対する理解と信頼を一層深めるように努めましょう。

  唯今ここで朗読された本日の福音の始めは鍵括弧で [その時] となっていますが、マルコ福音書には「六日の後」となっており、その前の個所を読んでみますと、そこにはガリラヤ湖の北東ヘルモン連山の麓にある、フィリポ・カイザリアの町とその周辺の村々をめぐっておられた主が、弟子たちに最初の受難予告をなさったことと、その後でペトロが主を諌めようとしたら、「サタン、退け。あなたの思いは神のものではなく、人間のものである」と厳しくお叱りになったことなどが述べられています。使徒として召された12人全員が集まっていた所で、「サタン」と呼ばれて厳しく叱責されたペトロのショックは大きかったと思います。そこで主は、移りゆくこの世の体験に基づく人間の思いとは天地の差である、神秘なあの世の栄光に包まれておられる神の思いとはどのようなものかを垣間見せるために、使徒たちの中からペトロとヤコブとヨハネの三人だけを連れて、高い山にお登りになったのだと思います。

  中世の十字軍遠征時代からでしょうか、ガリラヤ中心部のイズレイル平原の北東端にある、海抜588mのお饅頭のような形のタボル山が、その時の主の御変容の山だという伝えが広められ、今日ではそこに建てられた聖堂に、聖地の巡礼団が多く連れて行かれるようですが、聖書をよく読むと、それは話が違うと思います。ルカ福音書によると、一行は山で一夜を過ごして翌日下山したのですから、タボル山よりももっと高い山であったと思われます。フィリポ・カイザリアの近くにある2千メートル級のヘルモン連山の一つに、登ったのではないでしょうか。ルカ福音書には、「ペトロと他の二人の弟子たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目を覚ますと、イエスの栄光と、云々」とありますから、光輝く主の御変容は、夕刻か夜の出来事であったかも知れません。

  聖書によると、主の一行はこの出来事の後でガリラヤに入り、そこで主が第二の受難予告がなされたようですから、御変容はガリラヤ中央部のタボル山での出来事ではないと思います。タボル山にはキリスト時代に、ガリラヤ地方での謀反を抑止するためのローマ軍の砦も置かれていましたから。また主の御受難が間近に迫って来た冬の出来事でもなく、もっと前の夏の出来事であったと思われます。冬には2千メートル級のヘルモン連山には雪が積もって一夜を過ごすことはできませんが、夏ならそこは快い所だと思います。「私たちがここにいるのは、素晴らしいことです。云々」というペトロの言葉もうなづけます。それに、5百メートル級の山では雲はそんなに速く動きませんが、2千メートル級の山では、雲はしばしば突然に現れて全員を覆い隠し、また急に去って行くという現象も珍しくありません。私は神学生時代の夏休みに、同僚たちと一緒に海抜2,542mの浅間山に二度登りましたが、二度目の時に山頂の大きな噴火口を一周した時には、一瞬のうちに全員が真っ白い雲に覆われ、足元とすぐ隣の人が薄っすらと見えるだけという体験もしました。その雲の中をしばらく歩いていましたら、突然雲が消えて、すぐ眼の前に高さ3mほどの大岩が立っていたので、驚いたことがありました。2千メートル級の山の上では、このようなことは珍しくありません。私たちの教会暦では、毎年86日が主の御変容の祝日とされていますが、これは古代教会からの古い伝統に基づいている記念日だと思います。


  この出来事は、やはりヘルモン山でのことだと思います。雲の中から聞こえた「これは私の愛する子」という威厳に満ちた神の御声は、ヨルダン川での主の御受洗の時にも天から聞こえましたが、この山の上では「これに聞け」というお声も続いています。人間の思いのままに主イエスのため神のために何かを為そう、手柄を立てようとするのではなく、何よりも主イエスの御後に従って、神から与えられる苦しみも死も甘受し、復活の栄光に到達するようにというのが、使徒たちだけではなく、私たち各人に対する神の強いお望みでもあると思います。四旬節に当たり、神のその厳しい御望みに従う覚悟も新たに堅めましょう。

2015年2月22日日曜日

説教集B2012年:2012年四旬節第1主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 9章8~15節
第2朗読 ペトロの手紙一 3章18~22節
福音朗読 マルコによる福音書 1章12~15節


   本日の第一朗読は、大洪水が終わった後に神がノアとその息子たちに語られたお言葉ですが、「ノアの洪水」と言われている大洪水は、実際に数千年前のメソポタミア平野にあったようです。20世紀前半になされた探検隊の発掘で、途方もないほど広範囲にわたる大規模な洪水の痕跡が明らかにされています。しかし、その洪水の前に全人類はその地方に住んでいて、救われたのはノアとその家族だけであった、などと思わないように気をつけましょう。また救われたのは箱舟の中に導き入れられた動物たちだけで、その他の動物は全て絶滅したなどとも考えないようにしましょう。大洪水に襲われたのはメソポタミア地方だけで、その他のもっと遥かに多くの地方に住んでいた人類や動物たちは皆、無事だったのですから。しかし、神によって滅ぼされたり救われたりしたこの出来事は、全能の神と人類との主従関係を明示して、神が全ての人に向けて警告した大事件でもあったので、全人類向けに一部表現を誇張して語り伝えられた話になったのだと思われます。

   洪水の後に神は、焼き尽くすいけにえを捧げて神を礼拝したノアとその息子たちを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。云々」とかなり長い祝福の言葉を話されました。そして本日の第一朗読にあるように、私は「箱船から出た全てのもののみならず、地の全ての獣とも契約を立てる」とおっしゃって、二度と洪水によって肉なるものをことごとく滅ぼすことも、地を滅ぼすことも決してない、と保証なさいました。実際数千年前のノアの時代に起きた程の大洪水、大雨が40日間も降り続いて、人の住んでいた住宅地の上に洪水のもたらした川砂が3mも堆積した程の大洪水は、その後は世界のどこにも発生していないようです。しかし、人口密度の高くなっている現代では、数日間の大雨でも土砂崩れで道路が寸断されて孤立したり、死亡したりする人が多く、殊に地震と大津波の発生で命を奪われる人が多くなっています。自然界を人間中心にいじくり回して、危ない所にも居住したり道路を造ったりしているのですから、現代人の生活自体が自然災害に対して弱くなっているのだと思います。もっと謙虚になって、絶えず用心し警戒していましょう。

   ところで、今私たちがこの目で見ているこの物質的宇宙世界は、世の終わりの時に崩壊して無に帰してしまうのではなく、その崩壊という一種の死を介して、もはや死ぬことのない全く新しい輝く宇宙世界に生まれ変わり、そこにこの地上で生を享け、主キリストの命に参与して永遠に死ぬことのない体に復活する全ての人間が、神の子らとして永遠に仕合わせに生活し、活躍するのではないでしょうか。神がこノアとその息子たちに、神からの一方的約束である契約の話をなさった時、神はこの罪の世、儚く過ぎ行く仮の世が終わった後のその新しい本来の世界を、念頭に置いておられたのではないでしょうか。マタイ19章では主キリストも弟子たちに、「新しい世界が生まれ人の子が栄光の座に就く時、私に付いて来たあなたたちも12の座に就き、云々」と話しておられます。神からのこの契約、この約束の徴である、天と地を結ぶ虹を仰ぎ見る時、私たちも主の再臨によって復活する世界に対する、信仰と希望を新たに致しましょう。神がアブラハムとその子孫に対して結ばれた契約、すなわち特定の民族に対して結ばれた契約の徴は割礼でしたが、神はここでは「私とあなたたち、並びに全ての生き物との間に立てた契約」の徴として「雲の中に私の虹を置く」、「雲の中に虹が現れると、私はその契約を心に留める」と話しておられるのです。私たちも虹を見る時、神のこのお言葉を思い出し、大きな明るい希望を新たにして、神に感謝をささげましょう。

   本日の第二朗読では使徒ペトロが、受難死を遂げ霊において生きる者とされた主キリストが、ノアの時の大洪水によって滅ぼされ、死後囚われの身とされている霊魂たちの所に行って宣教なさった、と述べています。私たちが日曜・祝日毎に唱えている使徒信条にも、受難死を遂げられたキリストについて、「陰府に降り」という言葉があります。使徒たちは主が陰府にお降りになった目的を、宣教のためと考えていたのかも知れません。としますと、ノアとその家族の8人だけは水の中を通って救われましたが、この水で前もって表されている「水の洗礼」をこの世で受けなかった非常に多くの霊魂たちも、一切の時間的制約を超えて霊的にキリストの宣教と功徳の恵みに浴して救われるのだ、と使徒たちは考えていたのかも知れません。主もルカ13章に、非常に多くの「人々が東から西から、北から南から来て、神の国で宴会につくであろう」と話しておられます。私たちも水の洗礼という外的形に囚われずに、主キリストご自身による霊的な宣教と霊的な洗礼というものもあることを信じつつ、大きく開いた心で、全ての異教徒や全ての人たちの救いのため、希望をもってミサ聖祭や祈りを捧げるよう心がけましょう。「洗礼は、神に正しい良心を願い求めることです」という、本日の使徒ペトロの言葉も、注目に値します。ペトロはこの言葉を書いた時、霊的な洗礼を受ける人たちのことも考えていたと思われます。

   本日の短い福音の前半には、主が40日間荒れ野に留まり、「サタンから誘惑を受けられた」と述べられています。しかし同時に、「その間野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていた」とも述べられています。いずれ神の国で仲良く幸せに暮らすことになる野獣たちを恐れず敵視せずに、明るく開いた心で天使たちの働きに支えられ助けられて生きるのが、この世で受ける試練に耐え抜く道なのではないでしょうか。自分の力だけで悪霊の攻撃に抵抗するのではなく、大きく開いた心であの世の天使たちの援助を呼び込みつつ、内的に全被造物と共に生きるよう努めましょう。


   福音の後半には、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の御言葉が読まれます。主の宣教の根本を端的に言い表している御言葉だと思います。神の国の命と力、救いと喜びは、主と共に既に人々の目前に来ているのです。ここで言われている「悔い改め」は、自分の考えや力で自分の生き方を変えること、改革することではありません。もっと深い、もっと根本的な心の変革を意味しています。すなわち理知的な自分の考えや自分の聖書解釈によってではなく、霊的な神の導き、神の働きに心を開き、神の御旨中心に神の力に頼って生きようとすること、これまでの人間中心・自分中心の生き方に死んで、神中心の神の子としての生き方を始めることを意味しています。その御模範を、神の御子キリストは実際に生きて見せておられるのです。主はご自身の人間的意志で荒れ野に行かれたのではありません。神の霊によって荒れ野へと追い出されたのです。日本語で「送り出した」と訳されている原文の「エクバロー」という動詞は、マルコ福音に16回も登場していますが、悪霊を追い出したり、商人を神殿から追い出したりした時に使われています。従って主も、神の霊によって半ば強制的に荒れ野へ追いやられたのだと思います。四旬節にあたり、神は私たちからも日頃の生き方の悔い改め、神の働きへの徹底的従順の生き方への転向を強く求めておられると思います。荒野で多くの人の罪を償っておられた主のお姿を偲びつつ、私たちも何かの決心を神にお献げ致しましょう。

2015年2月15日日曜日

説教集B2012年:2012年間第7主日(三ケ日)

マルコ2章1-12節

   本日の第一朗読には、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思い出すな。見よ、新しいことを私は行う」という、神の御言葉が読まれます。私たち人間の理性は自分の経験に基づいて合理的に考えるよう造られており、その理性にだけ頼って自分の損得や人間関係などを考える生活を続けていますと、いつの間にかその理性が作り上げた固定化した原則や基準だけを中心にして何事も判断するようになり、物事の外的現象や様相だけを見て楽観したり悲観したり、喜んだり落胆したりし勝ちになります。それらは皆ごく自然な人間的反応ですから、そのこと自体は悪くないのですが、しかし、第二イザヤたちが体験していたバビロン捕囚という、現代の難民のような生活状態を余儀なくされたり、今日の世界的不況のしわ寄せを受けて失業したりしますと、人間理性中心のそんな生き方だけに留まっていては、ストレスが蓄積して健康を害する人が続出すると思います。私たちの生きている今の世界は経済的に大きく発展していた少し前の世界と違って、至る所にこれまでの人々の想定し得なかった不調を産み出し、大きな善意をもって問題解決に努める為政者たちを悩まし続けているようです。前述した神の御言葉は、何よりもそういう不安な状況で生活して人たちへの、神からの呼びかけであると思います。経済不況を抱えて悩む現代人にとっても、古い昔の話として軽視できない全能の神からのお言葉なのではないでしょうか。
   前述した神の御言葉は私たちに、これまでの自分中心・この世の生活中心の心の受け止め方や生き方を変えて、神の御旨中心の受け止め方や生き方へと転換するよう、呼びかけている御言葉と考えることもできます。神はその少し後で、「私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない。しかしヤコブよ、あなたは私を呼び求めず」「あなたの罪のために私を苦しめ、あなたの悪のために私に重荷を負わせた」などと話しておられるからです。神は最後に、「あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」と、民との和解を提起しておられるのですから、そのお言葉に信頼して自分の希望や計画などは捨て、ひたすら神の御旨、神の御言葉に従って生きようと努めてみましょう。その時、「見よ、私は新しいことを行う」という神の御言葉が、私たちの内に現実になることでしょう。ここで「新しいこと」とあるのは、この第一朗読のすぐ前に、「海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方、主は言われる」とありますから、エジプト脱出の時の神のお働きに匹敵するような、神による全く新しい救いの御業を意味している、と受け止めてもよいと思います。神は様々の不安や危険に悩まされている現代の私たちの所でも、イスラエル人のエジプト脱出の時に行われたような大きな奇跡的救いの御業を行おうとしておられるのではないでしょうか。神からの呼びかけに徹底的に聴き従う決意を新たにし、それを実践的に表明するよう努めましょう。その時、神による救いが実際に私たちの間でも働き出し、実現して行くのを体験することでしょう。
   本日の短い第二朗読の中で使徒パウロは、「然り」という言葉を4回も書いています。そこに1回だけ述べられている「アーメン」という言葉は、「確かに」「本当に」「そうあって欲しい」などという同意を表すヘブライ語ですが、ここでは「然り」と同じ意味で使われていると思います。神の御子キリストは、父なる神よりのお言葉にはいつも「然り」「然り」と答えて、そのお言葉に積極的に従おうとしておられたので、神の約束はことごとく主キリストにおいて実現し、私たちも主を通してもたらされた救いの恵みに浴しているのではないでしょうか。私たちも神の御言葉に従って生きる決意を新たにし、感謝の心で主キリストの「然り」一辺倒の精神で生きるならば、使徒パウロのように絶えざる困難危険の中に置かれても、日々神による導きと救いを生き生きと体験し、心の奥にストレスを溜めることなく、逞しく生活することができるでしょう。察するに、使徒パウロも主イエスも、自分の身に到来する幸運や不運その背後にいつも天の御父の愛の御摂理を仰ぎ見て、その喜びや苦しみを喜んで神にお献げしておられたのではないでしょうか。私は、このような生き方が神に対する「然り」の生き方だと思い、その御模範に見習うよう心掛けています。それが、心に隠れたストレスを蓄積することのない、霊的貧者の健康な生き方だと思います。使徒パウロは、不慮の苦しみによって自分がさいなまれ悩めば悩む程、神の福音は諸地方でますます広まり、多くの人に恵みをもたらすことを体験していたようですが、聖ヨハネ・ボスコも、何かの新しい企画や運動が外部からの大きな反対によって妨げられたり、手痛い失策などを経験したりすると、その妨げや失敗を神の御業に反対する悪魔よりのものと見なし、その企画を達成し実現するのが神の御旨である徴しと考えることが多かったようです。私たちも、神の御旨と思って始めた何かの善業が一部の人たちに誤解されて厳しく批判されたような時、心配せずに神に心を向けましょう。2千年前のキリスト時代と同様、これからの終末的に時代には悪霊たちが頻繁に働くと思います。その働きを見て、神の御旨を尋ね求めることにも努めましょう。
   本日の福音には、四人の男が主イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、中風の人の床をつり下ろした出来事が語られています。邦訳では「中風の人」となっていますが、原文のギリシャ語では「不随の人」という幅広い意味の言葉だそうですので、中風とは違う別の病気で歩けなくなっている身障者かも知れません。しかし、他人の家の屋根をはがして穴を開けてまで、その病人を強引に家の中で話をしておられた主の御前につり下ろすのは、人間社会の倫理上では、言語道断の無礼な行為だと思います。しかし、この世の人間社会の合理的倫理よりも、各人の心の神信仰を重視しておられた主は、その人たちの一途な信仰を喜ばれたようで、その病人に「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃって、その場にいた数人の律法学者たちを混迷させました。しかし、主は「なぜそんな考えを抱くのか。云々」と彼らを批判した後に、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃって、その人を癒されました。いつも人間理性を中心にして考え行動することを退け、万事を神からの呼びかけとして受け止めておられた主の御言葉でもあると思います。私たちも、私たちの平凡な日常茶飯事にいつも伴っておられ、時として思わぬ行為をお求めになる神のお導きに直ちに従うよう、常日頃心がけていましょう。今週から始まる四旬節には、何事にもまず、神からの呼びかけに心の眼を向ける生き方を身につけるよう心がけましょう。

説教集B2012年:2012年間第6主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 3章16~19節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 10章31~11章1節
福音朗読 マルコによる福音書 1章40~45節

   創世記からの引用である本日の第一朗読は、全被造物を代表して神への従順に背く行為を為した、人祖に言い渡された神からの宣告であります。創世記に描かれている人間の創造も楽園も人祖の罪も、神と私たち人間との内的関係を啓示した一種の神話ですから、実際の歴史的現実界でどのような出来事があったのか、私たちは全く知りません。しかし、聖書に従うと、神は宇宙万物を創造なさる最終段階で「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。云々」と仰せになって、私たち人間をご自身にかたどって男と女に創造し、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上の生き物を全て支配せよ」と仰せになったとあります。私は神のこれらの言葉から、人間は本来いずれは神に最もよく似た存在に成り、神のように時間空間を超越して至る所に遍在し、被造世界の万物と全ての出来事とを確実に知り、全ての被造物を支配するために創造された存在である、と考えています。このことは全て、受難死を遂げてあの世の命に復活なされた主キリストにおいて実現していますが、今は制約の多いこの罪の世に苦しみつつ生活している私たちも、神への愛と従順により、将来は主キリストと同じ神のような存在に成るよう召されているのではないでしょうか。

   いずれは神のように万物を愛の内に支配するようにと創造された人間が、歴史のどの段階でどのようにして神に背いたのか、その罪を犯した人祖は人類史のどこにいたのか、などのことは全く不明ですが、全被造物を代表して創造神に背いたその罪は、神が時間空間を超越しておられる存在であるため、時間空間を超えて全ての被造物を穢し、この世を宇宙創造の始めから「苦しみの世」にしているのだと思います。事によると、20万年前に始まったと考えられている人類史のずーっと後の段階で、例えば人間の理性が発達した1万年前頃の人間が、神を無視して人間中心主義の生き方を始めたことが、時間空間を超えたあの世におられる神に対する、この世の全被造物を代表しての反逆行為として神に受け止められ、時間空間を超えてこの世の始めからの全ての被造物を穢し、この世を始めから苦しみの世にしているのかも知れません。創世記に描かれている人祖の罪は、その悲惨な現実を古代人に判り易く説明するために作られた神話なのではないでしょうか。

   本日の第一朗読は、その苦しみの一部を象徴的に述べているだけで、この世の万物は宇宙創造の始めから苦しんでおり、使徒パウロはローマ書8章に、全ての被造物は「神の子らの現れを切に待ち望んでいる。被造物は虚無に服しているが、」「希望をもっている」「いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子らの栄光に輝く自由に与れるからである。被造物が全て今日まで共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っている。云々」と述べています。万物の創造主であられる神への感謝と愛よりも、私たち人間の欲と楽しみを先にする人間中心の罪な生き方が、私たち自身だけではなく宇宙の万物にまで各種の歪みや苦しみを齎しているのではないでしょうか。大きな明るい夢と期待の内に宇宙万物をお創りになった神の御望みに謙虚に聞き従う心を新たにしながら、神への感謝に生きようとしない無数の現代人の罪を、主と聖母と一致して償うことに心がけましょう。その償いの業の度合いに応じて、私たちは、神が初めに意図しておられた人間存在へと、高められて行くと信じます。

   もしも人間が神に背く罪を犯さず、楽園での苦しみのない生活がいつまでも終わりなく続いていたとしたら、人類は慈しみ深い神の愛に感謝し、神と語り合いながら、また全ての被造物を大切にしながら平和に仲良く生活していたでしょうが、しかし、苦しみや困難の全くない人生を続けているだけで、神の自己犠牲的な無報酬の奥深い愛については、深く理解できずにいたと思います。それを理解するには、数多くの恐ろしい苦難によって奥底の心が揺り動かされ、目覚めて一心に神の助けを願い求めて救われるような、恐ろしい苦難とそこからの救済という「奥底の心の目覚め体験」が必要なのではないでしょうか。青年期壮年期に長年深刻に悩んだことのある聖アウグスティヌスは、洗礼を受けて神の光の中に生活し始めた後に、人祖の犯した罪について「ああ、幸いな罪よ」と讃美しています。その罪によって、もっと大きな深い神の愛の恵みを人類の上に呼び下したからだと思います。死も苦難も、私たちの奥底の心を強く揺り動かして目覚めさせ、もっと大きな恵みを与えるための、神からの恵みなのではないでしょうか。私たちの本当の人生は永遠に死ぬことのないあの世にあり、そこで一層深く神と一致し、一層幸せに生きるためには、この世の苦しみは貴重なお恵みであり、主キリストもそのことを身をもって示しておられると思います。神から与えられる苦しみを恐れないようにしましょう。

   昨年3月の東日本大震災の後に、ジャーナリストの森健氏は、子供たちの眼を通してこの未曾有の大震災を記録することを思い立ち、宮城県と岩手県の避難所を巡回して、子供たちに震災当日の体験とその後の日々のことを作文に書いてもらいました。「えー、作文は無理」と言って子供たちや、「まだ震災から日も浅いので」と固辞する保護者たちもいたそうですが、一部の子供たちは、避難所の床に寝そべりながら、あるいは段ボールを机にしながら、自分の体験を書いてくれたそうです。森氏はその一部を昨年六月号の『文芸春秋』に「被災地で子供たちが書いた作文20」と題して紹介しましたが、間もなく保育園児から高校生までの子供80名の作文を『つなみ、被災地のこども80人の作文集』と題した本にまとめて刊行しています。そして八月号の『文芸春秋』に「親子で読み続けたい、被災地の子供たちの作文」と題して、数名の子供たちの作文から引用したり、それについての保護者や医師たちの評価を載せたりしています。それらを読んで、子供たちの心が大人たちよりも早く震災のショックから立ち直って、前向きにボランティアたちの奉仕活動に感謝したり、死去した親たちがあの世から見守っていた下さるという信頼と新しい意欲とを表明したりしており、それが心の傷に苦しむ親たちのケアにもなっていることに、頼もしさを覚えました。大震災によって奥底の心が目覚め、逞しく生き始めている子供たちは沢山いるのかも知れません。

   本日の第二朗読で使徒パウロは、「何をするにしても、全て神の栄光を現すためにしなさい」と勧めています。余りにも豊かで便利な現代文明の流れの中で生活している私たちにとり、自分中心・人間中心の精神を矯め直すためにも、この勧めは大切だと思います。パウロはこの言葉の少し前に、「全てのことが許されているが、全てのことが益になるわけではない」とも言っています。日常茶飯事の中で出遭う無数の小さな出来事の中で、絶えず神の御旨を尋ね求めながら小さな愛の奉仕に心掛けていますと、不思議に神の小さな助けや巡り合わせ、導きなどを体験します。目前の外的な苦楽や損得などは問題にせず、ひたすら神に眼を向けて、神のお与え下さる苦しみや失敗などを喜んで受け止め、雄々しく生きましょう。


   本日の福音に登場するハンセン病者は、大胆に行動しています。当時ハンセン病で社会から放逐された人は、その病を人に移さないため、死ぬまで人に近づいたり人里に入ったりしてはならない、という規則になっていましたが、主がカファルナウムで多くの病人を奇跡的に癒されたのを密かに耳にしたのでしょうか。この病者は早速社会の規則に公然と背いて、その主の足元にひれ伏し、「お望みならば、私を清くすることがお出来になります」と申し上げました。その大胆さを御覧になって、主も公然と社会の規則に背いて、その病者に手を差し伸べて触れ、「私は望む。清く成れ」とおっしゃり、その病者を癒されました。病者は望むと清くするという二つの動詞を使って簡潔にお願いしましたが、主もその二つの動詞だけを使って癒して下さったのです。人を救うためには、苦しむ人を束縛している社会の規則は無視するという、新約時代の新しい精神もここでははっきりと示されています。私たちも人間社会の規則中心主義ではなく、何よりも愛の神の導きに心を向けながら、大胆に生きるよう心がけましょう。