2015年7月26日日曜日

説教集B2012年:2012年間第17主日(三ケ日)

第1朗読 列王記下 4章42~44節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章1~15節

   本日の福音に記されている、主イエスがガリラヤの湖東の岸辺で、大麦のパン五つと魚二匹を増やし、5千人の男たちに食べさせた奇跡は、四福音書全てに述べられている、かつて無かった程の大きな奇跡であったと思います。四福音書全部に共通して述べられている出来事は、このパンの奇跡の他には、ご受難直前の主のエルサレム入城と、主の最後の晩餐・ご受難・ご死去・ご復活など、主が最後の段階でなされた最も重要な救いの御業だけですので、福音記者たちは主が公生活の途中で為されたこのパンの奇跡を、それらの御業と並べて特別に重視していた、と申してもよいと思います。ところでマタイとマルコ福音書によりますと、主はこのパンの奇跡の後にも、もう一度七つのパンと少しの小魚を増やして、四千人の男たちに食べさせるという奇跡を為しておられます。どちらの福音書でも、主は後で、「私が五つのパンを五千人に与えた時、残りを幾つの籠に集めたか。また七つのパンを四千人に与えた時、残りを幾つの籠に集めたか」と弟子たちに問い、それぞれ「十二籠です」、「七籠です」の返事を聞いて、「それでも、まだ悟らないのか」と、彼らの信仰の弱さを咎めておられますから、主は彼らの信仰を少しでも固めるため、パンの奇跡を二回もなさったのだと思います。

   本日の第一朗読によりますと、天に上げられた神の人エリヤから、その預言者的権能を受け継いだ神の人エリシャも、パン20個を百人の人々に食べさせた奇跡を為しています。エリコに近いギルガルの人々が飢饉に見舞われて苦しんでいた時、一人の男の人が、その地を訪れた神の人エリシャの許に、初物の大麦のパン20個と新しい穀物とを、袋に入れて持って来ました。為政者側の政策でバアル信仰が広まり、真の神に対する信仰が住民の間に弱められていた紀元前9世紀頃の話です。飢饉という恐ろしい自然災害に直面しても、信仰を失わずに敬虔に生活していたその男の人は、神の人エリシャの助けを求めて、その初物を持参したのだと思います。信仰に生きるイスラエル人たちは、神の恵みによって収穫した穀物の初物は、感謝の印に神に献げるべき最上のものと考えていましたから、それを預言者エリシャを介して神に献げようとしたのかも知れません。一人の人が袋に入れて持参したパン20個は少量ではあっても、飢饉時代には特別に心の籠った貴重な供え物であったと思われます。それを受け取った神の人エリシャはすぐに、「人々に与えて食べさせなさい」と召使たちに命じました。召使たちは驚いたと思います。「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えましたが、エリシャは再び命じて、「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる『彼らは食べきれずに残す』」と言いました。それで、召使たちがそれを配ったところ、主のお言葉通り、人々は飢えていたのに、それを全部食べきれずに残してしまいました。

   いったいそのパンは、いつどこで増えたのでしょうか。聖書をよく読んでみますと、預言者エリシャは召使たちに「人々に与えて食べさせなさい」と命じただけですから、パンは預言者の手元で増えたのではないようです。パンは、それを配る召使たちの手元で増えたのではないでしょうか。本日の福音にも、主イエスは過越祭が近づいていた冬から春にかけての頃、すなわち農閑期で多くの農民が主の御許に参集し易い時期に、人里から遠く離れた土地で、五つのパンと二匹の魚を増やして5千人もの人々に食べさせ、残ったパンの屑で12の籠がいっぱいになるほど満腹させています。マタイやルカの福音書によりますと、それは日が傾いてからの夕刻の出来事でありますから、暗くなるまでの限られたわずかな時間内に、パンが大量に配布され群衆を満腹にさせたことを思いますと、パンは主の手元でだけ増やされ、弟子たちがそのパンを、5千人もの人々が分散して腰を下ろしている所に運んだのではなく、預言者エリシャの時と同様に、パンを分け与える弟子たちの手元でも、次々と増え続けたのではないでしょうか。それは、その奇跡を間近に目撃した群集一人一人の心を驚かし、感動させた出来事であったと思われます。全能の主の御力が弟子たち各人の中に現存して、この奇跡を為したのだと思います。その主は今も、ミサ聖祭の時に同様に現存してお働きになります。この「信仰の神秘」を堅く信じつつ、ミサ聖祭に出席していましょう。公会議後に刷新された典礼では、ミサ聖祭の聖変化の直後に司祭が「信仰の神秘」と宣言し、参列者がそれに続く短い祈りを捧げていますが、これは東方教会が古代から続けている典礼から学んで導入したものです。東方教会では古来この祈りを唱える時に、復活の主キリストの現存に対する信仰を新たにしていると聞いています。私たちもこの伝統を心を込めて順守しましょう。

   本日の第二朗読は、神からの招きにふさわしく歩むこと、そして柔和で寛容な心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、神の霊による一致を保つように努めることを強調しています。しかし、それらの勧めを自分の人間的な自然の力に頼って実践しようとしても、次々と弱さや不備が露出して来て、なかなか思うようには行きません。人間関係となると、私たち生身の人間の心には、無意識の内に、各人のこれまでの体験に基づいて築き上げて来た外的自然的価値観に頼って隣人を評価してしまう動きが強く働くようです。そのため、お互いに善意はあっても、心と心とはそう簡単には一致できません。そこで使徒パウロは、各人のその価値観をもっと大きく広げさせるために、「すべてのものの父である神」に心の眼を向けさせ、「神から招かれているのですから、その招きにふさわしく」神の愛の霊によって生かされるよう勧めているのだと思います。「神から招かれている」というこの言葉を、心にしっかりと銘記していましょう。私たち人間相互の本当の一致も、人類社会の本当の平和も、各人が神からの招きに応えよう、何よりも神の御旨に従おうと努めることによって実現するように、神がこの世の全てをお創りになったのだと思います。


   話は違いますが、私は年齢が進んで80歳代になりましたら、気をつけていても物をどこかに置き忘れたり持参しなかったりすることが多くなりました。そこで私は数年前から、全く日常的な小さな仕事や外出を為す時にも、自分の力だけに頼らずに、神の導きや守りを願い求めたり、自分の守護の天使や保護の聖人たちに助けを願ったり感謝したりしています。すると神は実際に私たちの小さな日常茶飯事まで関心をもって眺めておられ、幼子のように素直な心で助けを願い求める者を助けて下さるということを、日々数多く体験するようになりました。神信仰は頭の中だけ、聖堂で祈る時だけのものにして置いてはなりません。こういう小さな日常体験に根ざしたものにする時に、私たちの頂戴している神信仰は、大きく強く成長し始める生き物のようです。ある聖人は、「私はもう神を信じているのではなく、神の働きを見ているのです」と言ったそうですが、この頃の私も、時々同様に感じています。....

2015年7月12日日曜日

説教集B2012年:2012年間第15主日(三ケ日)

第1朗読 アモス書 7章12~15節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~14節
福音朗読 マルコによる福音書 6章7~13節

   キリストという言葉を幾度も登場させている本日の第二朗読、すなわちエフェソ書の第1章は、キリストにおいて豊かに与えられた恵み故に父なる神を讃える、初代教会の荘厳な讃歌であったと思います。古来多くの聖人賢者たちも、深い感激のうちにこの讃歌を愛唱して来ましたが、私たちもそれに倣って、この素晴らしい信仰の遺産を大切にし、私たちの心が日々その深遠な神信仰と感謝の思想に満たされ養われるように心がけましょう。私たちの神は、毎日そのようにして神とその創造の御業、救いの御業を讃えつつ、大きな喜びの内に感謝と信頼の心で生きる人には、特別に恵み深いように思われます。私はこれまで数十年間の修道生活・司祭生活において、自分が見聞きした数多くの出来事を回顧しつつ、今はそのように確信しています。しかし残念ながら、第二バチカン公会議の頃から急速に発展した現代文明の、黒潮のように巨大なグロバール化、全地球化の流れに巻き込まれ押し流されて、信仰あるカトリック者であっても、日々心の底から喜んで神に感謝の讃歌を捧げている単純素朴な人たちは、非常に少なくなっているようです。主キリスト以来の聖人たちが実践していた、明るい希望と喜びと若さに輝く信仰生活の伝統も、現代のキリスト者たちの中では老化し形骸化して、ふ抜けたものになっているように見えます。残念でなりません。

   そこで本日は、現代の多くの人の心を弱くしていると思われるマイナス面について、ご一緒に少し考えてみたいと思います。私は自分で持たず使っていないのでよく判りませんが、日々頻繁にインターネットや携帯電話を利用している現代人の中には、心がある意味でそれらの文明の機器を通して流入する無数の呼びかけや情報の、言葉は悪いですが、奴隷のようになっている人が少なくないのではないでしょうか。私がまだ南山大学で教えていた十数年前頃に、一部の学生たちの間では、「携帯依存症」や「ネット依存症」という言葉が囁かれていたのを耳にしたことがあります。教室での講義が終わって屋外に出た途端に、いつも携帯電話を取り出し、誰かと話し合うのが習慣的になっているような学生たちも、多く見かけました。
   最近の研究によりますと、そのように頻繁に携帯やインターネットを利用し、依存症のようになっていると、頭の脳の働き方が違って来ることが明らかにされています。私の体験から申しますと、私は子供の頃はソロバンが得意で、大きくなっても足し算・引き算の暗算は比較的速く正しく為していました。ところが、簡便な計算機が普及してそれを利用するようになりましたら、たちまち暗算能力が衰え、働かなくなってしまいました。暗算しようとしても、頭が働いてくれないのです。また長年ワープロで手紙や論文を書いていましたら、昔はよく知っていた漢字も思い出せなくなり、手書きできないことが多くなってしまいました。昔覚えた漢字は皆頭脳の奥に記憶されており、難しい漢字でも読むことはできるのですが、いざそれを書くとなると、頭のシステムが働いてくれず、その漢字を呼び出せないのです。同様のことが、現代文明の利器を日々頻繁に利用している人たちの中でも起こっているのではないでしょうか。

   インターネットは、情報収集や検索などには非常に便利で、現代では必需品だと思います。しかし、人間が造ったその便利さ一辺倒の生活をするのではなく、同時に汗水流して草取りしたり、自然の動植物の世話をしたりして自分の体験から学ぶこと、日々苦労し失敗を重ねて小さな新しい発見をすること、あるいは自分で実際に古い文学書や歴史書などをめくって、こつこつと昔の人たちの業績に苦労しながら学び、自分独自の新しい発見を積み重ねること、自分の頭脳のそういう側面、すなわち自分で苦労や失敗を重ねながら見出し、独自のものを創り上げて行くという能力も、同時に共存させて磨いて行くという二つのことが、大切なのではないでしょうか。私たち人間は皆、二つの足で立って歩くよう創られています。現代文明の利器一つに頼って生活するのではなく、同時の古来の伝統文化や伝統的生き方も大切にしながら、バランスよく生活するよう心がけましょう。

   私たちが日々その恩恵に浴している極度に発達した現代文明も、人間中心の便利さ・豊かさだけを一方的に追い求める偏った傾向が強く、この文明が特に20世紀以来急速に発展して、巨大な海流のようになって世界中に普及しましたら、各種の産業廃棄物や生活廃棄物によって自然環境の汚染が進み、オゾン層の破壊や地球全体の温暖化現象を招いてしまいました。最近では地球環境の秩序や調和を破壊し続けているため、ハリケーンや台風などの規模を大きくしたり、津波・豪雨・竜巻・土砂崩れなどによる自然災害を数多くしつつあるように見えます。神目指して発展上昇しようとしていた古来の精神文化と内的に深く結ばれて、神への従順・人への奉仕愛・事物尊重の清貧愛などに実践的に努め、神と人とのバランス進行に真剣に心掛けないと、全ては人間中心主義に穢れた単なるこの世的流れと化してしまい、やがては神ご自身によって徹底的に崩壊させられてしまうと思います。神信仰と人間の福祉という二つの目標のどちらをもバランスよく大切にしようとしない、このような偏った現代文明の陰には、密かに無数の悪霊が働いているのではないでしょうか。昔には思いもしない凶悪事件が最近多発しているのは、一つにはそのような悪霊が人の心にのり移ったり働きかけたりしているからだと思いますが、同時にあまりにも外的知識や技術に偏った現代文明によって、人の心の教育も心のバランスも等閑にされ、乱れて来ているからだと思います。現代に増えているこの恐ろしいマイナス面を、心に銘記していましょう。


   主は本日の福音の中で弟子たちを宣教に派遣なさるに当たり、かなり厳しい清貧を彼らに命じておられます。アシジの聖フランシスコ程の徹底した清貧愛に生きなくても、一切の無駄使いを賢明に避けて清貧と節制に心掛ける時に、神の霊が私たちの内に生き生きと目覚ましく働き出し、豊かさの内に生きる現代人の心を真の真理へと目覚めさせ悔い改めさせて、神による救いの恵みへと導くことができるのではないでしょうか。溢れる便利さ・豊かさの中で自分の心のバランスが取れなくなり、救いの道を求めて悩んでいる多くの現代人たちのため、またそのような人たちへの宣教使命を担っている宣教者たちのためにも、聖霊による目覚めの恵みと立ち上がりの力とを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年7月5日日曜日

説教集B2012年:2012年間第14主日(三ケ日)

第1朗読 エゼキエル書 2章2~5節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 12章7b~10節
福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節

   本日の第二朗読には、「私は弱い時にこそ強い」という言葉が読まれますが、これは使徒パウロの数多くの体験に基づく確信であったと思われます。現代の私たちの教会も、全てが比較的落ち着いていた昔の時代の教会に比べますと、全地球化時代を迎えて日々激動する世界からの無数の情報が、各人の心を動かし支配しているため、一般社会に流通している多様化・流動化の流れにもまれて、恐ろしいほど一致団結の力を弱めていると思います。しかし、神信仰なしに人間の自力に頼ってもがいている一般社会の考え方や流れに雄々しく抵抗して、神の働きに対する私たち神の僕・婢としての信仰と信頼を若返らせ、揺るがないものとするならば、小さい者ながら私たちも使徒パウロのように、自分の弱さを厭わず、復活の主キリストの来世的命の力に支えられて、強く逞しく生きるように為れるのではないでしょうか。

   恐れてはなりません。全能の神の力は、私たちが数々の弱さの中で、神への信仰と信頼にしっかりと立って希望と勇気に輝いているなら、十分に発揮されるのですから。使徒パウロに倣って、私たちも自分の弱さと行き詰まり状態を「むしろ大いに喜んで」その弱さを誇りとし、ひたすら神に眼を向け、信仰と信頼に励んでいましょう。「キリストの力が」一層豊かに私たちの内に宿り、私たちを助け導いて下さるように。年齢が進んで体力・注意力・記憶力が弱って来ますと、事物をどこかに置き忘れたり、必要な時に名前や番号などを思い出せなかったりすることが多くなりますが、日々幾度も体験するそれらの弱さ・煩わしさも、厭わずに喜んで神から受け取り、主キリストのお苦しみに合わせてお献げ致しましょう。隠れた所から人目に隠れていることを全て御覧になっておられる神は、私たちが信仰の心を込めて為すそのような小さな小さな献げを、喜んでお受け取り下さいます。そして日常茶飯事を幼い子供のような信仰心で捧げる人を、不思議な程助け導いて下さいます。これは、私の長年にわたる体験からの確信であります。

   意図的に少し時代遅れのような生き方をしている私の考えは、現代人にはあまり理解されないかも知れませんが、しかし、時代遅れのこういう特殊な観点に立って私の見聞きしている体験から、現代の若い人たちを陰ながらそっと観察していますと、日々頻繁に携帯やネットを利用している人たちは、ある意味でそれらの機器を通して流入する呼びかけや情報の奴隷のようにされているようだ、と思うことが少なくありません。それらの機器の背後にある目に見えない相手が皆良い人とは限りませんので、文明の利器が犯罪に利用されるケースも多いようです。恐らく一人前の司祭や修道者がそういう犯罪などに巻き込まれることはまずないでしょうが、しかし、外界からの頻繁な呼びかけや問い合わせなどに時間を奪われ、悩まされている司祭・修道者も少しはいるのではないでしょうか。その点、そういう文明の利器を持たない私は、昔の修道者たちのように、自分に与えられている時間を、束縛されずに自由に神と人とに使うことができ、仕合わせであると感じています。

   さらにもう一つ思うことは、日々ネットや携帯に半分束縛されて生活している現代人の中には、それだけ、自然界の動植物にじかに接触して感動したり、苦労して学んだりすることも少ないので、人間理性が勝手に作り上げた半分バーチャルな世界に生きている人が多いのではなかろうか、という不安であります。「誰でもいいから殺して見たかった」などと、大した悪気もなく軽く話す、最近の遊び半分の心で生きているような犯罪者たちの言葉を聞くと、その人たちは、人間を半分バーチャルな世界に生活させる現代文明の利器の犠牲者なのではないのか、と考えさせられます。現実に立脚し苦労して生きている人たちの涙ぐましい心情や、愛する人たちに後事を託して死んで行く人たちの心情などに直に触れて、自分が神から受けているこの貴重な人生の意味などについて考える機会が全く与えられなかったのではないか、と考えさせられます。ネット空間に生きている現代の学生たちが、次々と簡単に卒業論文を仕上げるのを見る時も、この人たちの脳の働きは、インターネットに順応して与えられた資料を巧みに利用することしかできなくなっており、昔の研究者たちのように実際の現実に即して苦しい失敗や観察の苦労を重ねつつ、新しい真理や原理を自分の心で発見する喜びや感激は知らないのではなかろうか、などと考えさせられます。数多くの古典や故人の著作を、何時間もかけてこつこつ読み解く苦労もしていないのではないでしょうか。それでは、現代の文明もやがて巨大な海流だけのような、実際の現実から離れた単なる人工的流れと化してしまい、神を目指した発見も進歩も発展もない無意味なものと化して、遠からず神により内側から崩壊させられてしまうかも知れません。
   本日の福音に述べられている、故郷ナザレの人々から受け入れられなかった主イエスも、察するに同じようなご心配と悲しみを味わっておられたのではないでしょうか。カファルナウムのような外来の商人たちも多く行き来していた国境の町とは違い、当時の先端を行く商工業の営みからは遠く離れた、動きの少ない保守的な田舎町ナザレで神の御子は育ちましたが、神は当時の社会の下積みのような田舎町に、その御独り子が一人前の大人になるまで貧乏暮らしをしながら育ち、ユダヤの一般社会から注目を浴びないようにお計らいになったのだと思います。私の推察ですが、田舎町ナザレでは、聖家族がヘロデ大王の没後にエジプトからお戻りになった頃から、幼児イエスを私生児(テテ無し子)として軽視する風潮があったのではないでしょうか。母のマリアが一人旅をして三カ月程ナザレを留守にして戻って来たら、間もなく妊娠していたことが明らかになって、噂話が囁かれていたと思われる小さな田舎町では、聖家族がエジプトから戻って来てから初めて見たその子の顔が、マリアには似ていてもヨゼフにも似ていないことも、噂の種にされていたと思われます。それで非常に保守的で、外来者の社会的地位が低かったと思われるナザレの町では、聖家族は貧しいよそ者として見降ろされていたのではないでしょうか。

   ところが渡り者の大工ヨゼフの手伝いをしながら、貧しい下層社会で成長したそのイエスが、30歳代になってガリラヤの他の町々では歓迎され、安息日に会堂で説教したり多くの病人を癒す奇跡をなしているという噂が広まったので、そのイエスが弟子たちを連れて安息日に故郷ナザレに来ると、早速会堂で説教してもらいました。会堂に集まっていた町の顔役たちは、自分たちがかつて見下していた学歴のないあの大工が、どんな話をするものか見てみたいという、好奇心と批判の心でその話を聞き始めたことでしょう。しかし、聖書を解説するその知恵とその態度に驚き、いったい彼はどこからその知恵と奇跡を行う力を授かったのか、と騒ぎ始め、「彼は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。その姉妹たちはここで我々と一緒に住んでいるではないか」などと叫びました。ここで「大工」というのは、当時は現代の大工とは違って、頭を下げて仕事をもらい歩く渡り者で、左官屋のような仕事をする社会の下層民の職業でした。また当時は「ヨナの子シモン」などと父親の名をつけて呼ぶのが普通で、「マリアの子」などと母親の名をつけて呼ぶのは、父親不明の私生児を呼ぶ時の軽蔑語とされていました。主イエスはナザレでは子供の時から、そのように軽蔑語で呼ばれていたのだと思います。主に対してそのような軽蔑語が公言されたことを気遣ったのでしょうか、マタイはナザレの人々のその軽蔑語を和らげ、「その母はマリアで」と言い換えています。また「兄弟」「姉妹」とあるのは、当時のユダヤでは広く従兄弟・従姉妹たちをも指していましたので、ここではベトレヘムから移住して来たヨゼフの一族を指していると思います。彼らも皆よそ者でしたから、ナザレでは社会的地位が低かったと思います。それでここでは、主の出身を軽蔑する心でこの言葉が言われたと思います。町で顔を利かしている人たちからこのように公言されたら、もうこの町では誰一人それに反対できないでしょう。


   本日の福音には「人々はイエスに躓いた」とありますが、フランシスコ会訳では、「人々はイエスを理解しようとしなかった」と訳し替えています。これでも良いと思います。社会的上下関係が厳しかった当時のナザレの町は、そのような雰囲気に包まれていたと思われます。そのような所では、何よりも神に従おうとする預言者は何もできません。それで主は、恐らく最下層の貧乏な病人たち数人に手を置いて癒されただけで、他には何も奇跡を為すことがお出来にならなかったのだと思います。神中心に生きようとする信仰心や従順心が、全く見られなかったのですから。今の私たちの社会が、そのような不信仰の社会にならないよう、神の憐れみと恵みを祈り求めましょう。

2015年6月28日日曜日

説教集B2012年:2012年間第13主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 1章13~15、2章23~24節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 8章7、9、13~15節
福音朗読 マルコによる福音書 5章21~43節

   本日の第一朗読には、神は「生かすためにこそ万物をお創りになった」のであって、「命あるものの滅びは」喜ばれません。「滅びをもたらす毒はその中にはなく、」「悪魔のねたみによってこの世に」入って来たのです。ですから、神が「ご自身の本性の似姿として」「不滅な存在として」創造して下さった人間は、その悪魔に抵抗し続けるなら、神と共に永遠に幸せに生きることができますが、悪魔の仲間に属する者になるなら、死を味わうに至るのです、というような旧約時代のユダヤ人たちの人間観が述べられています。その悪魔は極度に多様化し流動化しつつある現代の文明社会の中でも活躍し、多くの人の心を滅びへと導いていると思われます。使徒ヨハネの第一書簡の2章には、主キリストが来臨なさってからの末の世には、反キリストが大勢現れるように述べられているからです。最近の世界情勢は、既にその末の世に入っていることを私たちに示しているのではないでしょうか。私たち被造物に対する神の愛を信じつつ、神に堅く結ばれて生き抜くよう心がけましょう。

   かつての私たちは、数十年間も消費主義的な生活の快適さを享受し、人間が自然を際限なく自由に利用できるかのように思い込んでいました。しかし、地球温暖化による地球規模の気候変動が拡大して来たからなのでしょうか、最近では世界各地で人間の力を遥かに凌ぐ大地震・津波・豪雨・洪水・竜巻などの自然災害が多発するようになり、2004年に大津波が東南アジアを襲撃した頃からは、米国を襲うハリケーンも巨大化して来ているようです。それで、人類総人口の増加や水資源の限界、並びに大森林の激減と砂漠化なども考慮し、将来の人類社会に対する絶望的観測が広まって来ているようです。例えば20093月にオーストラリア南東部で発生した大規模の森林火災は、これまでの自然界では考えられなかった程の異常災害だったようです。火災発生の3週間前には州都メルボルンで気温が46.6度を記録したそうですが、熱せられた強風が夜に風向きを変えると、メルボルン北東の林にある町々で大規模の火災が発生して、200人以上の人が逃げ遅れて命を落とし、数万ヘクタールもの森林が焼失して、無数の家畜や野生動物が焼け死んだそうです。私たちの生活を見守り支えてくれていた大自然界の変動が進むと、想定外のこういう災害は今後も次々と発生するかも知れません。それで一部の人たちは、万物を創造し歴史を導いておられると言われる愛の神はどこにおられるのか、罪のない無数の人々が死ぬのを黙認しておられるのかなどと、恨みの声を挙げているようですが、本日はこの事について少し考えてみましょう。

   私は時間空間の制約の下に置かれているこの世は、言わば過ぎ去る「試しの世」であって、私たちが神の愛に抱かれて永遠に幸せに生きるのは、あの世に行ってからと考えています。使徒パウロも、コリント前書15章に「自然の命の体として蒔かれ、霊的な体に復活する」などと書いていますから。この世の宇宙万物をお創りになった神は、ご自身に似せてお創りになった人間にだけではなく、その他の万物にもそれぞれ自分に与えられた能力に従って生きる大きな自律性を与えておられ、神の特別な愛の発動や神の御計画実現に必要でない限り、通常はなるべく干渉を控えておられるのではないでしょうか。神は被造物を愛して、創造の御業によって各被造物にお与えになった自律性と自由を尊重しておられるからだと思います。人祖の罪によってこの世の被造物界が神に背を向ける苦しみの世に成ってしまっても、神はすぐにその罪の穢れを取り除き、この世を相互愛と調和の世に造り変えようとはなさいません。各被造物が夫々の苦しみから何を学び、どのように苦闘しながら、神がお定めになった終局のあの世的幸せを目指して進むか否かを、じーっと黙して観察しておられるように見えます。神は創造の御業によって、各被造物に夫々その終局目的へと進む、自律的能力をお与えになったのですから。

   時満ちて、神は罪の穢れと不調和に悩むこの苦しみの世に、御独り子を人間として派遣なさいました。「見えない神の姿」(コロサイ1: 15)であられるこの主キリストが、人祖の罪を償い清めて被造物を贖い、終局のあの世的幸せへと救い上げるために。しかし、主の受難死によって人祖の罪は償われても、すぐにはこの世の苦しみや不調和が無くなりませんでした。神は私たち各人がその主キリストがこの世でお示しになった生き方に見習って、自分に与えられる状況や苦しみを受け止め、主と共に神の僕・婢として人祖の罪を償い、神の愛(聖霊)に導かれ生かされて、あの世の幸せへと自由に進むことをお望みのようです。私たちにはそのために必要な力も、神の愛の計らいも十分に与えられています。主は最後の晩餐の席でご自身の肉と血を食べ物・飲み物となして人類にお与えになり、ご自身を記念してこの真に神秘な秘跡を続けることを弟子たちとその後継者たちにお命じになりました。ということは、この秘跡が続けられる限り、あの世の命に復活なされた神の御子は、全く新たな霊的形でこの苦しみの世に受肉し、全ての被造物に呼びかけ、必要な導きと力を世の終りまで提供し続けておられると思われます。その主は、終末的様相が強まって悪霊たちの働きが激しくなると思われるこれからの時代には、これまで以上に私たちの近くに現存して、信仰をもって主に近づき主に助けを祈り求める私たちの歩みを、護り導いて下さると信じます。……


   本日の第二朗読には、「あなた方の現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなた方の欠乏を補うことになるのです」という言葉が読まれます。これは、使徒パウロの数々の体験から滲み出た確信であると思います。パウロはコリント後書4章に、「私たちは生きている間、イエスのために絶えず死に曝されています。死ぬ筈のこの身にイエスの命が現れるために。こうして私たちの内には死が働きますが、あなた方の内には命が働きます」などと書いています。パウロは、洗礼によって霊的に主キリストの体に組み入れられ、その一つ体の一部分・一肢体として戴いている私たちキリスト者は、この世の命に生きながら、内的には既に永遠に死ぬことのないあの世の主キリストの大きな命に包まれて、いわば主キリストを着物のように纏いながら生活しているのであり、その限りでは死に伴われて苦しむことの多い私たちのこの世の苦しみは、主キリストの受難死に参与して人類の他の部分で主のあの世の命を広めるのに大いに役立っている、と信じていたのではないでしょうか。新約の神の民の復活の主キリストの中での、このような内的生命的な連帯性は、現代に生きる私たちも大切にしたいと思います。

2015年6月24日水曜日

説教集B2012年:2012年洗礼者聖ヨハネの誕生(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 49章1~6節
第2朗読 使徒言行録 13章22~26節
福音朗読 ルカによる福音書 1章57~66、80節

   本日の第一朗読は、第二イザヤ書に読まれる四つの「主の僕の歌」の第二の歌ですが、特に第三・第四の歌を読みますと、この僕は将来お出でになるメシアご自身を指していると思います。神の御子は、「母の胎内にあった」時から神の「僕として形づくられた」と、既に旧約の預言者時代に、イザヤ495節で歌われたのではないでしょうか。典礼はこの言葉を、メシアの先駆者ヨハネにも当て嵌めて、そのヨハネの誕生を記念しお祝いしているようです。第二朗読は、使徒パウロがアンティオキアのユダヤ教の会堂で語った説教からの引用ですが、その中でパウロは、洗礼者ヨハネもナザレのイエスを神から派遣されたメシアであると認め、「その方は私の後から来られるが、私はその足の履物をお脱がせする値打ちもない」と話していたと告げています。多くのユダヤ人から神の預言者として尊敬されていた洗礼者ヨハネは、メシアの先駆者であったのです。

   しかし、洗礼者ヨハネの誕生を祝う本日の祭日には、これらの朗読聖書から離れて、ルカ福音書に基づいてそのヨハネの父母とヨハネの誕生の出来事について、ご一緒に考えてみたいと思います。私は個人的に、ヨハネの父母ザカリアとエリザベトを、新約時代の初めを飾る優れた聖人として厚く尊敬しています。ルカは、「二人とも主の全ての掟と定めとを落ち度なく踏み行い、神の御前に正しい人であった」と書いていますが、真にその通りであったと思います。しかし、エリザベトにはどれ程祈っても子供が生まれませんでした。旧約時代のユダヤ社会では、それは子孫が栄光のメシア時代にまで生き残れないようにする神からの罰であるとされていたので、二人には何か隠れた罪があるのではないかなどと、社会からは見なされていました。長年人々からこのように見下される恥を抱えていたのですから、二人は人の何倍も厳しく自分を律し、全ての掟と規則を心を込めて順守していたのだと思います。しかし、どれ程厳しく律法を順守し、祈りを重ねても子供は生まれず、遂に二人は子供を産めない程の年寄りになってしまいました。

   その上に、祭司のザカリアにはもう一つの苦しい社会的恥もありました。当時24組に分かれていたレビ族の祭司たちは、毎年2回一週間ずつエルサレム神殿に奉仕することになっていましたが、その奉仕の期間中は籤で選ばれた一人の祭司が、大祭司が大きな祝日の時に入って神に祈る神殿の至聖所に入り、香をたく務めを果たすことになっていました。各組の祭司の数は十分にありましたので、一度この務めを果たした祭司は、その籤を引かないことになっていました。各組には毎年14回その務めが割り当てられていたのですから、殆どの祭司は20歳代30歳代で一生一度のその光栄ある務めを果たしていましたが、アビアの組のザカリアだけは、年老いても一度もその籤に当たらず、神殿奉仕の期間中は毎日自分よりも一世代も若い祭司たちと一緒に籤を引いていました。子供が生まれないことと共に、これは耐えがたい程の社会的恥であったと思われます。皆は籤引きの度毎に、ザカリアには何か大きな隠れた罪があるのだ、と思ったことでしょうから。

   ところが、籤引きの当選はもう諦めていたと思われる年老いた祭司ザカリアに、ある日その籤が当たりました。ザカリアも皆も驚いたことでしょう。慣例に従って会衆が皆外で神に祈っている時に、祭服で着飾った老齢のザカリアは、香炉を手にして緊張しながら主の聖所に入って行ったと思います。そして香をたいていたら、天使が香壇の右手に現れ、ザカリアは胸騒ぎがして恐怖に襲われました。すると天使は、「恐れるな、ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と言って、妻エリザベトが男の子を産むから、その子にヨハネという名をつけること、その子は主の御前で偉大なものとなること、母の胎内にいる時から聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らを神の下に立ち返らせることなどの、命令や予告を告げました。しかしザカリアが、「何によって、それを知ることができるのでしょうか。私は老人で、妻も年老いています」とお答えすると、天使は「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたにこの良い知らせを伝えるために派遣されたのです。あなたは、この事が起こる日まで話すことができなくなるでしょう。時が来れば実現する私の言葉を信じなかったから」と言い渡しました。

   神殿の内庭で祈っていた民は、ザカリアが聖所内に留まったまま、なかなか出て来ないのを不思議に思っていました。やがて出て来ましたが、手振り身振りで人々に聖所内で幻を見たことを知らせるだけで、口は利けなくなっていました。それで皆は、やはりザカリアには隠れた大きな罪があったのだ、罪ある祭司が聖所に入ったために、天罰が下ったのだと思ったことでしょう。おしで弁明できないザカリアは、その社会的恥をも耐え忍びながら、務めの期間が終わると、黙って自分の家に帰りました。しかし、その心の中には大きな喜びと希望を宿していたと思います。妻との間に偉大な男の子が生まれる、と神から告げられたのですから。そして家に帰るとすぐ、筆談でそのことを全て妻に知らせたと思います。

   ところで、大天使ガブリエルは「私の言葉を信じなかったから」と言ったのですが、いったいザカリアのどこが悪かったのでしょうか。祭司として、神の存在も全能も堅く信じ、長年旧約時代の全ての掟を心を込めて順守して来たのですから、その点では全く落ち度がなかったと思います。ただしかし、全てを自分の人間理性で考え、自力で神信仰に生きていましたので、どんなに努力しても人間的弱さに起因する不完全さは免れることができなかったと思われます。大天使が咎めたのは、ザカリアのその神信仰や信仰生活のことではありません。彼が自分に対する神のパーソナルな特別の愛を、すぐに信じることができずに躊躇した事だと思います。長年「隠れた罪を持つ人」として社会的に見下されていたのですから、突然天使から偉大な男の子が生まれると告げられても、すぐには自分に対する神のその愛を信じることができず、神の御旨に神の僕として従うことができなかったのだと思います。口が利けなくなったザカリアは、この後の数ヶ月間この事についてゆっくりと反省し、人間理性中心にではなく、神の愛を堅く信じ、神の御旨中心に神の僕として生きよう、と決意を新たにしていたことでしょう。ザカリアの心の中では既に旧約時代が終り、新約時代が始まったのだと思います。そのザカリアの心が、旧約時代の神の憐れみや約束を回顧し、新しく生れる幼児ヨハネを夢見つつ産み出したのが、私たちが日々唱えている「ザカリアの讃歌」であります。ヨハネの誕生を親戚や近所の人々に知らせて、その割礼式を準備したと思われるマリアは、その讃歌を書き留めてルカに伝えたのだと思います。

   ザカリアがお告げを受けた半年後、ナザレトでマリアも、同じ大天使から神の御子を宿すというお告げを受けました。マリアは「私は神の婢です」と答えて、すぐ神の御旨に従う信仰心を表明しましたが、しかし、ルカが「その日々に」と書いている言葉から察しますと、お告げの後の数日間、マリアは苦しんだようです。マリアは洗礼者ヨハネと同様老夫婦の子供だったのか、伝えによると子供の時に神殿に献げられ、神殿所属のレビ族の女子育児院で養育されたようです。としますと、結婚適齢期が近づくと社会に出て働くことになりますが、親譲りの資産のない貧しい少女だったのではないかと思われます。女性に厳しかった当時のユダヤ社会では、婚約者ヨゼフの助けなしには子供を育てることができません。しかし、ヨゼフの承諾を得るために、神による神の御子の懐妊という未曾有の大きな神秘をどう説明したら良いのか判らず、マリアは悩んだのだと思います。

   その時大天使が最後に話した、老いた石女エリザベトが男の子を懐妊して六カ月になっているという知らせを思い出し、まずその奇跡を自分の目で確かめよう、そうすればヨゼフを説得する道も開かれようと考えたのではないでしょうか。しかし、当時は危険の多い若い女の一人旅は厳禁されていました。マリアはその事でも苦しんだ後に、事情あって三カ月程ザカリアの家に滞在する由の書置きを、知人に託してヨゼフに渡してもらい、朝早く誰も見ていない暗い内にナザレトを出発し、一人旅を敢行したのだと思います。神の御子を孕んでいるのならと神に信頼し、神の護りをひたすら祈り求めながら。規則中心主義でない新約時代の生き方が、ここでも始まっています。道々全ての危険を賢明に避けながら、三、四日後に無事ザカリアの家に辿りついたマリアは、大きな感謝と感激の声で「シャローム」の挨拶をしたことでしょう。その声を聞いたエリザベトは、胎内の子が聖霊に満たされて躍るのを覚え、女預言者のように声高らかに叫びながら奥から出て来ました。エリザベトがその時マリアに話した言葉は、皆様ご存じの通りですが、それに続いて述べられている讃歌は、プロテスタントの優れた古代教会史学者Adolf von Harnack(1851~1930)19世紀の末に発見したルカ福音書の非常に古い写本によると、マリアではなくエリザベトが唱えた讃歌とされています。

   ご存じのように、現存する新約聖書は全て原文ではなく後の時代の写本であります。手書きのその写本相互に多少の小さな違いが見られるのは、古代には写本作成の段階で時としてごく小さな書き直しがあったことを示していると思います。このことは19世紀のプロテスタント聖書学者たちによって次第に明らかにされましたが、19世紀末頃の教皇庁の役職者たちは、プロテスタントのそのような聖書研究に極度に反発し、教会が伝統的に伝えている聖書の一字一句には全て神の力が籠っているから、それをそのまま大切に信仰し、人間理性による批判的研究の対象にしないようにと、全てのカトリック者に命じていました。それでカトリックの聖書研究は、その保守的役職者たちが死に絶えるまで抑えられて、非常に遅れてしまいました。そのため、上述したHarnackの発見のことも取り上げられず、今では全ての聖書学者たちからも忘れられて、カトリック教会では相変わらず「マリアの賛歌」と思われています。しかし私は歴史家として、ヨーロッパでドイツ語のカトリック月刊誌を読んでこの事を知った時から、あの讃歌は、エリザベトが作って唱えたものを、マリアが書き残して日々唱え、それをルカに伝えたのではないか、と考えています。と言うのは、まだ十歳代半ばの外的人間的には平凡であった小娘マリアは、一人旅をしていた時は、旅中の全ての危険を回避する恵みと、婚約者ヨゼフの理解と協力を得るための祈りで心がいっぱいで、あのような讃歌を作詞する心境ではなかったと思われるからです。それに比べると、教養ある祭司の妻として懐妊の恵みに浴したエリザベトは、夫と共に旧約時代の神の愛の導きと働き、並びに自分たち夫婦の一生などをゆっくりと回顧しながら、あの讃歌を作詩したと考えられます。社会的に弱い者、抑圧されている者たちへの神の憐れみを讃えているこの讃歌を、聖母マリアもこの後一生かけて毎日のように愛唱していたと考えます。それで、この意味ではこれは「マリアの讃歌」と言われるに相応しいと思います。

   本日の福音は、洗礼者ヨハネの割礼の日の出来事について述べていますが、出産したエリザベトが高齢であったことを思いますと、ヨハネの誕生を手伝い、その事実を近所の人々や親族に知らせて、割礼式に皆を呼び集めたのは、マリアであったと思われます。高齢のザカリア夫婦にとってマリアの三カ月滞在は、神からの真に貴重な恵みであったと思います。そしてマリアも、神が為して下さった数々の不思議な出来事を見聞きして、神は自分の祈りに応えてヨゼフのためにも何かを為して下さると確信しながら、明るい希望を抱いてザカリアの家を離れたと思います。私たちも、その神が今の私たちにも大きな憐れみの眼差しを注いでおられると信じ、感謝しながら洗礼者ヨハネの誕生を記念し祝いましょう。


2015年6月14日日曜日

説教集B2012年:2012年間第11主日(三ケ日)

第1朗読 エゼキエル書 17章22~24節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章6~10節
福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節

   本日の第一朗読の著者エゼキエルは、バビロン捕囚の前頃にエルサレムにあって活躍した預言者エレミヤと同じ頃の人で、エレミヤと同様祭司の子であります。エレミヤはユダ王国の国王・祭司・預言者たちに向けて、度々神からの厳しい警告、恐ろしい予告を告げなければならなくて、王国の支配層から迫害され、投獄されたりもしましたが、それよりも少し若かったと思われるエゼキエルは、バビロン捕囚の時に一緒にバビロニアに連行され、バビロンの南東を流れる運河の一つと考えられるケバル川の畔りで、捕囚の人々と一緒にいた時に、神から最初の幻示を与えられ、それ以来数々の不思議な幻を見せられて、捕囚の民を励まし力づけた預言者であります。名前のエゼキエルも、「神強くする」という意味だそうです。

   本日の朗読個所であるエゼキエル書の17章には、まず二羽の大鷲と葡萄の木の譬えが語られています。最初に登場している大鷲はバビロンの王を指しているようです。この王はレバノンに飛来し、レバノン杉の梢の若い枝を折って、それを商業地に運び、豊かな水のほとりに柳のように植えたら、それは育って低く生い茂る葡萄の木となった。そしてその根を鷲のいる所の下に張り巡らせた。ところでもう一羽の大鷲もいて、この大鷲はエジプトのファラオを指しているようです。レバノン杉の若枝から成長した葡萄の木は、若枝を広げ蔓を伸ばし始めると、その根をこの第二の鷲の方へ伸ばし始めました。この時、主なる神はエゼキエルに、「語れ。この葡萄の木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ、実はもぎ取られないだろうか。云々」と、最初の大鷲から第二の大鷲の方へ根を伸ばそうとする葡萄の木の将来について、否定的な疑問の投げかけます。これは、バビロン王の最初の襲撃に負けて当時の支配階級の多くがバビロンに連行されて捕囚の身となっていた頃、バビロンの属国とされてバビロン王によって新しくユダ国王にされたゼデキヤ王の時に、宮廷でエジプト王の援助を受けようとする動きが強まったことを指していると思います。それを知ったバビロン王は、数年後にもう一度エルサレムを攻略し、都は徹底的廃虚となってしまいましたが、17章の話は、その第二の襲撃の前に受けた幻示であると思います。

   この話の最後に神が語られた言葉が、本日の第一朗読であります。ここでは、高さ30mにもなるレバノン杉の生命力の逞しさが述べられています。神の民も目前の政治的駆け引きや経済的損得に囚われることなく、真の預言者エレミヤを介した語られた神の声に対する従順に徹して生きるなら、神の恵みと働きにより、やがてはレバノン杉のように逞しく生き始めることを示しているお言葉だと思います。しかし、当時のゼデキヤ王を囲む支配者たちは、預言者を通して語られた神の声に従わなかったために、エルサレムはへ滅ぼされ、廃虚と化してしまてました。現代のような大きな過渡期、終末の様相が濃くなる時代にも、主である神は高い木を低くし、低い木を高くする働き、また生き生きとした木を枯らしたり、枯れた木を茂らせたりする不思議をなさいます。最近のニュースを聞いていますと、目前の政治的駆け引きなどの話の多いのにうんざりしますが、人々の意見の多様化が進んで時代の趨勢が纏まり難い様相を呈する時にこそ、私たちが真剣に神に祈り、黙しておられる神の導きや働きに心の耳を傾け、それに信仰をもって従うことを、神は強く求めておられるのではないでしょうか。神は大きな沈黙の内にも、私たちの心に強く訴え、また求めておられるのだと信じます。2千数百年前の旧約の預言者時代の時のように。

   第二朗読の中で使徒パウロは、私たちは「体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と書いていますが、この世で肉の体の内に生きている限り、私たちはいつまでも主を直接に見ることができず、主から離れていることを知っています。しかし、主が近くに現存し私たちを見ておられることを信じつつ、その信仰の内に希望と喜びをもって歩むことはできます。使徒パウロは、この心強い信仰の内に日々を生きておられ、私たちもそのようにして、ひたすら主に喜ばれるように生きるよう、勧めているのではないでしょうか。私たちは皆間もなくこの世を去り、キリストの裁きの座の前に立って、この世で信仰を持って生きた度合いに応じて報いを受けることになっているからです。


   本日の福音では主が、私たちがこの世で蒔く種の成長と、芥子種の力強い生命力について教えておられます。土に種を蒔くのは人間ですが、その種に芽を出させ、生長させて実を結ばせるのは、人間ではなく神がなさるのです。その神の不思議な大きな愛の働きに信頼し協力するのが、私たち人間の為すべきことなのではないでしょうか。人間側の働きよりも神の働きに心の眼を向けながら、日々の働きを捧げるように心掛けましょう。本日のこの「聖書と典礼」には、芥子だねについて、「種は1~2ミリ程度だが」とありますが、芥子だねを実際に見たことのない人の言葉だと思います子。私が1970年代にイスラエルのカイザリア港町の廃虚に生えていた芥子の木の小さな実一つから集めた何百という芥子種は、いずれも0.3ミリくらいの大きさで、1ミリ大なら小さなピンセットで掴むことができるのですが、全然掴むことができませんでした。しかし、紙の上に取りわけて蒔いてみますと、芽を出して育ち始め、それをいろいろの希望者に与えて育ててもらいましたら、1m以上に育って黄色い花も咲かせましたが、日本の冬の寒さのため残念ながら皆枯れてしまいました。私はその花の写真も持っています。こんなに小さな種に込められている生命力の大きさに驚きました。私たちが神から頂戴している平凡に見える秘跡にも、驚くほど大きな力が込められているのではないでしょうか。大きな信仰と信頼の内に生活するよう心がけましょう。

2015年6月7日日曜日

説教集B2012年:2012年キリストの聖体

第1朗読 出エジプト記 24章3~8節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 9章11~15節
福音朗読 マルコによる福音書 14章12~16、22~26節


   本日の第一朗読は、約束の地カナアンを目前にしてモーセが神の民に語った遺言のような話からの引用ですが、その中でモーセは「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまでたずねてみるがよい。これ程大いなることがかつて起こったことがあろうか。云々」と、天地万物と人間をお創りになった神の御業の偉大さに、まず民の心を向けさせています。そしてその神が、他の多くの国民の中からイスラエルを特別に選び出し、神による数多くの徴しや奇跡を体験させながら、これから入る約束の地まで民をお導き下さったことを語り、天においても地においてもこの神が唯一の主であり、他に神のいないことを弁えて、神から与えられた掟と戒めを守り行うよう命じています。そうすれば民もその子孫も、主がお与えになるこの約束の地で、長く幸せに生きることができるのだ、と明言しています。

   モーセがその民に語ったこれらの言葉は、現代世界に生きる私たちにとっても大切だと思います。私たちは神が創造なされたこの巨大な天地万物の恵みや、その中で神から特別に選ばれ愛されている人間という存在の素晴らしい恵み、並びにその使命などについて、日々心にしっかりと刻み込み、神に感謝を捧げているでしょうか。20世紀の中頃から人間の科学が大規模に発達して来てみますと、神がお創りになった宇宙の絶大な大きさや、その細かい所まで行き届いている組織体制の神秘には、全く圧倒される程の感動を覚えます。神は本当に大きな愛と配慮を込めてこの宇宙を、また人間をお創りになり、今も絶えず細かい所まで行き届くその御力と温かいお心で、万物を支え導いておられるように思います。

   筑波大学の名誉教授で遺伝子研究の世界的権威者の一人である村上和雄氏は、大人の人間の体に60兆もあると言われている、小さな小さな細胞1個の中に、「宇宙(全体)に匹敵する程の神秘が隠されている」と述べています。村上氏によると、ヒトの遺伝子暗号は約30億の科学的文字(塩基)から成っていますが、この30億の文字を人間が読めるような普通の文字に拡大しますと、1ページ1千字で、千ページもの分厚い本が3千冊になるそうです。それだけの詳しい情報が、私たちが胎児の時から受け継いでいる体の各細胞に書き込まれているのだそうですから、これは「神の驚くべき御業」と言わざるを得ません。村上氏は「20世紀に発見された最大の奇跡」と称しています。しかも、その遺伝子情報は、両親の遺伝子や兄弟姉妹の遺伝子とも幾分異なっている、全く各人独自の情報だそうで、こう考えますと、一人一人の人間は、すでに胎児の時から「神からの特別の贈り物、貴重な宝物」と言わざるを得ません。神からのその貴重な贈り物を、人間中心の浅墓なこの世的考えで、無駄にして仕舞わないよう心がけましょう。

   自然界の動植物の遺伝子より遥かに多い、その30億にも及ぶヒトゲノムの配列は、21世紀に入るとすぐ全部解読されましたが、以前にもここで申しましたように、そのうちonの状態(目覚めている状態)になっているのは7パーセント程で、残りの93パーセントはoffの状態になっており、どういう機能を持つ遺伝子であるかは分かっていないと聞きます。その話を聞いた時私はすぐ、それらのまだ眠っている遺伝子の多くは、世の終わりに主イエスの復活体と同じ姿に復活した時に働き出すのではないかと考えました。天文学者たちによると、この巨大な宇宙は今も尚、光の速度で無限に膨張し続けているのだそうです。私たちの住んでいるこの太陽系の星たちが所属する「天の川銀河系」と同じような巨大な星たちの集まりである銀河系は、一番近いアンドロメーダ銀河系をはじめ、他にもまだ無数に散在しているそうですから、私たち人間は、この世の時間空間の束縛から解放されたあの世の体に復活した後には、それらの銀河系の星たちの間を神出鬼没に自由に駆け巡りつつ、神がお創りになった無数の神秘を次々と発見し、大きな感動の内に三位一体の神を讃え、神に感謝し続けるのではないでしょうか。神に特別に似せ、万物の霊長として創られた私たち人間の未来には、想像を絶する程の明るい大きな永遠の喜びと、神の無数の被造物を益々深く理解し世話する使命が、神ご自身によって備えられているように思います。創世記1章にあるように、神は人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」「生き物を全て支配せよ」と、お命じになったのですから。

   本日の福音には、あの世の命に復活なされた主がガリラヤで弟子たちに、「全ての民を私の弟子にしなさい」と命じられたお言葉が読まれます。「教えなさい」と命じられたのではありません。無学なガリラヤの漁夫たちは、いくら聖霊の賜物によって心が満たされ強められたとしも、言葉の違う世界にまで出かけて行って、教養の高い文化人たちにまで教えるなどということは、できなかったと思います。しかし、自分たちの見聞きした体験から目撃証人として語り、その証言を聴いた世界各地の文化人が、それぞれ自分たちなりに提供された神の救いに心を開き、主キリストの弟子となって生き始めることは可能だったと思います。主のお言葉は、このことを指しているのだと思います。神による救いに心を開く人たちには、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、弟子たちに命じて置いたことを全て守るように教えなさい、というのが主のご命令だと思います。これなら、無学な漁夫達にも実践可能だったでしょう。このようにして神の子の命に参与する人々と共に、主は世の終りまでいつも共にいるというのが、主のお約束だと思われます。

   私が公教要理を学んだ終戦直後の頃、西洋では「三位一体の教義が一番理解し難い教理だ」と言われていたようです。しかし、当時のあるドイツ人宣教師は「日本人には、三位一体の教義はほとんど抵抗なくそのまま受け入れられるようだ」と話していました。私も当時を振り返ると、その教義にはそれ程抵抗を感ぜずに、神は孤独な唯一神ではなく、三方の愛の共同体なのだ、と素直に信じることができていました。公教要理を教えるドイツ人宣教師の話の中に、「作品は作者を表わす」という諺のように、神のお創りになった被造物の中には、例えば火のように、燃やす力と照らす光と温める熱とが一つになっているものが多く、太陽の引力も光線も熱線も一つになっている、というような説明がありましたから。


   人間理性は無意識のうちに何か不動の原則や尺度を作り上げていて、「唯一のものは、三つにはなり得ない」などと、人間理性がこの世の日常体験から作り上げたその尺度を、あの世の霊的真理についての神の啓示にまで適用しようとし勝ちです。それではあの世の神の御教え、神の真理の中に生きることができません。理性は自分で自分を欺き易い能力なのです。人間理性のその弱さを逆に利用して楽しませてくれているのが、今の世にも流行っているマジックなのです。「主は幼児のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)と教えておられます。人間理性がこの世の経験から作り上げている原則や価値観などから離れて、まずは親から愛され親に聴き従っている幼児のように素直な心で、神の声に心を傾け、神の導きに聴き従いましょう。日々その生き方を続けていますと、神の働きと思われる不思議な護りや導きを小刻みにたくさん体験するようになります。そして目に見えない神の現存や働きに対する心の信仰が、無数の体験に根差した揺るがない確信になって行きます。…….