2008年5月18日日曜日
説教集A年: 2005年5月22日:2005年三位一体の主日(三ケ日)
① 本日の第二朗読の終わりにある「主イエス・キリストの恵み、神の 愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」という祈りの言葉は、ミサの始めの司祭の挨拶にも採用されていますが、新約の神の民が神の愛、聖霊の働きによって主キリストを頭とする一つ共同体を構成しており、一つ共同体として生きる使命を神から戴いていることを、私たちの心に想い起こさせます。私たちの信奉している神も、唯一神ではあっても決して孤独な神ではなく、三位一体という共同体的神なのです。おひとりだけの孤立した神でしたら、「愛の神」とは言えないと思います。他者には閉ざされた、おふたかただけの愛の神でもありません。お三方が互いにご自身を限りなく与え合っている愛の神なのです。その神の愛に参与し生かされて、一つ共同体となって神のため、全ての人のため、全世界のために生きるというのが、私たち神の民の使命ではないでしょうか。
② 「作品は作者を表す」と申しますが、三位一体の神の被造物の中には、よく注意して観察してみますと、三つが全く一つになっているものが少なくありません。例えば「火」には、物を燃やす強力な力と、闇を明るく照らす光と、寒さを排除して温める熱とが同時に存在し、全く一つになっています。同様に「太陽」にも、私たちの地球やその他の惑星を安定した位置に保持し支えてくれている強大な万有引力と、絶えず周辺を明るく照らして闇を駆逐し、地球上の無数の植物に光合成によって酸素を産み出させてくれている光線と、物資や生物を温め育んでくれている熱線とが一つになっています。もし仮に太陽がその力と光と熱の放射を止めたとしたら、私たちの存在も地球全体も、忽ち恐ろしい死の闇とマイナス 270度以上という極度の寒冷空間を当て所もなく彷徨うことになります。それらのことをいろいろと考え合わせますと、私たちの生活は、三位一体の共同体的愛の神に何らかの意味で似せて創られている、無数の相利共存的存在(すなわち相互に利益を与え合って共存する存在)に支えられており、私たち自身も同様に、三位一体の神の愛に生かされ支えられつつ、大自然界のその相利共存的秩序や生態系を大切にし、感謝のうちに神と全ての被造物に仕えるよう召されているように思います。いかがなものでしょうか。
③ ところで、三位一体の神を特別に崇め尊ぶために中世初期から一部の地方で祝われ、14世紀前半からは一般的に聖霊降臨後の日曜日に祝われることになったこの大祝日に当たり、主イエスが「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさい」とおっしゃった、この父と子と聖霊というのは、神の唯一の全く単純な神性とどう関連しているのであろうかなどと、私たちの分析的な人間理性で考えると、三位一体の神はこの世の知性では理解できない非常に大きな神秘だと思われます。古代教会には、この三位一体の奥義について人間理性に解り易く説明しようと試みた異端説が次々と現れたので、その度毎に公会議が開催され、信仰の統一と明確化が図られましたが、その結果、公会議教父たちによってこの奥義を説明するために「ペルソナ」という全く新しい用語が創られ導入されました。「ペルソナ」という用語は、元々ギリシャ悲劇などで役者が被る面のことを指しており、面を被った役者は、室町時代に日本で創作された能面を被った役者のように、素顔で登場するこの世の人ではなく、あの世に移った人の霊を示しており、面はその霊の役割や働きなどのシンボルだったようです。古代の公会議教父たちはこの「ペルソナ」という用語で、人間理性では理解し難い三位一体の神の内部における、父・子・聖霊の働きの相互関係を象徴的に示そうとしたのだと思われます。
④ しかし、ここで気をつけなければならないことは、後の時代になって「ペルソナ」という言葉は人間にも類比的に使われるようになり、英語ではperson と言いますが、例えば哲学者たちが「理性的本性の個別的実体」などという意味で使う人間のペルソナと、神のペルソナとは本性的に違っていることであります。人間のペルソナには自存する個別的実体という側面も伴いますが、三位一体の奥義を説明するために導入された本来の「ペルソナ」という概念には、そういう個別的実体という側面は全くなく、ただペルソナとペルソナとの愛の実存関係、協力関係だけしか内包していません。従って、私たち人間の知性にとっては理解し難い大きな神秘なのですが、同じ全く単一の神性の内部に三つのペルソナが相互に愛し協力し合って、存在し活動していることも可能なのです。
⑤ 主はその三つのペルソナを「父と子と聖霊」と表現なさいましたが、私たち人間には、父と子のイメージは何とか心に思い浮かべることができても、聖霊のペルソナとしてのイメージを思い浮かべるのは難しいです。そこでヘリベルト・ミューレンというドイツ人の神学者は、聖霊のペルソナを「我々」と表現して、近年多くの神学者たちの注目を引いています。父と子の相互関係から発出された愛の霊は、言わば「我々」というペルソナとなって、父と子を一つに結ぶ愛の命、愛の火に燃えていますが、神が創造なされた全ての被造物の中でも「我々」として内在し、内面から生かし支え導いて、神に所属する共同体にしているという神学思想です。聖霊は無数の人間のペルソナとは全く違う超越的神の次元にあるペルソナで、その次元から全ての事象や人々の背後にあって、「我々」として独自の全く自由な働きを展開し、神の下に統括しておられるペルソナなのではないでしょうか。
⑥ 私は数年前にこの考えを知り、深い感動を覚えました。聖霊のこのような内在は、ここでは詳述しませんが、聖書の多くの言葉にもよく適合していると思うからです。例えばルカ12章には、権力者たちの前に連れて行かれても、「どのように弁明しようか、何を言おうかと心配することはない。言うべきことは、聖霊がその時教えて下さるから」という主のお言葉がありますし、同じ主はご昇天の直前に、「父と子と聖霊の名において洗礼を授けよ」と命じておられます。これは、父と子と聖霊の愛の交流に受洗者を参与させ、私たち人間を神の愛によって生かされて生きる存在に高めようとする恵みを、意味している言葉ではないでしょうか。使徒パウロはアテネのアレオパゴスで、「私たちは神のうちに生き、動き、存在する」という前6世紀のギリシャの詩人の言葉を引用して、それを肯定していますが、私たちは実際、太陽の引力・光・熱よりももっと遥かに大きく三位一体の神の存在と働きに依存し、こうして日々の生活を営んでいるのではないでしょうか。本日は、神からのその隠れている絶大な恵みに感謝しながら三位一体の神を讃美し、その計り知れない神秘を崇め尊ぶ祝日なのではないでしょうか。
⑦ 始めに「新約の神の民は神の霊・聖霊の働きによって主キリストを頭とする一つ共同体を構成している」と申しましたが、最後に、この一つ共同体について、少しだけ考えてみましょう。これは、使徒パウロがコリント前書12章の中で、「全てのものの内に全てのことをなさるのは」同じ神の霊であることと、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分なのです」などと詳述している教えに基づいて申した話ですが、私は、キリストの体の部分とされている私たち各人は、現代風に言うなら、成人した人体に60億もあると言われる個々の細胞のような存在であると考えています。各細胞は、それぞれヒトゲノムと言われる人体全体の設計図のようなものを持っており、増殖機能・代謝機能・情報授受機能等々を備えて、かなり主体的に生存しています。しかし、より大きな生命に生かされて生きている存在であり、その生命から切り離されたら死んでしまう小さなか弱い存在であります。同様に私たち各人も、自分では自覚していなくても、より大きな神のいのちの内に生かされているのではないでしょうか。パウロは、その大きな神のいのちを「キリストの体」と呼んでいるのだと思います。その一つ共同体の中を自在に駆け巡って各細胞に必要な養分を供給したり、老廃物を運び去ったり、痛んだ部分を癒したりしてくれる血液は、聖霊の働きに譬えてもよいのではないでしょうか。三位一体の祝日に当たり、神のこのような隠れた働きに対する感謝の心を新たにしながら、本日の感謝の祭儀を捧げましょう。
2008年5月11日日曜日
説教集A年: 2005年5月15日:2005年聖霊降臨の主日(三ケ日)
朗読聖書: Ⅰ. 使徒言行録 2: 1~11. Ⅱ. コリント 12: 3b~7, 12~13. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~23.
① 本日の第一朗読の始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とある言葉は、大切だと思います。弟子たちは、主がご昇天の直前にエルサレムを離れないようにと命じて、「数日のうちに聖霊によって洗礼をうけるから」(使徒 1:5) とおっしゃったお言葉に従ってエルサレムに留まり、聖母マリアや婦人たち、「およびイエズスの兄弟たちと共に心を合わせてひたすら祈っていた」(使徒 1:14) のだと思います。神が計画しておられる五旬祭の日が来なければ、一同が心を合わせてどんなに熱心に祈り続けても、聖霊は降臨しなかったでしょうし、五旬祭の日が来ても、その時主のお言葉に従ってエルサレムに一緒にいなかった人には、聖霊は降臨しなかったと思われます。従って、今でもあの時のように心を一つにして熱心に祈れば聖霊は降臨する筈だ、などと考えることはできません。② 私の学生時代に、ある説教者がそのように説いて、信徒たちの熱心を奮起させようと熱弁を振るっている説教を聞いたことがありますが、私は少し冷めた心でその話を聞き流していました。神の御旨の時でなければ、どんなに熱心に祈っても聖霊は降臨しないと思っていたからでした。神のご計画とそれに従う私たち人間の準備や努力とは、このような関係にあると思います。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という主の呼びかけについても、同様に考えてよいと思います。主が呼びかけておられるその時に、そのお言葉に従って新しい生き方に転向する人は、神の恵みを豊かに受けますが、その時怠っていて好機を逸してしまう人は、後でそのことに気づいて自力でどんなに努力しても、その時失った恵みの豊かさには達し得ないと思います。ですから、常日ごろ何よりも神の働きや導きに心の眼を向け、神のお望みの時にすぐにそれに従うことができるよう、祈りつつ準備していることが大切だと思います。自分の計画や自分の都合よりも、神からの指示や神のお望みに、何をさて置いても従おうとしているのが、主の僕・婢としての心構えであり、神よりの恵みを人々の上に豊かに呼び下す生き方であると信じます。主イエスや聖母マリアが実践しておられたそのような生き方を、現代の私たちも日々実践するよう努めましょう。
③ この東海地方では今年も春の好天に恵まれる日が多いようですが、私は都合がつく時には、そのような日によく数キロ乃至十数キロの散歩や遠足を致しています。3年前の5月3日にも、好天に恵まれて関が原近くの垂井町周辺の姫街道や東海自然歩道を十数キロ歩き、久しぶりに中天にさいずる雲雀の姿や、広々と何町歩も続く蓮華草の花畑を眺めて来ました。しかし、大型連休中なのに、農家の人たちは田植えやその他の仕事で、子供も総出で忙しく働いていました。祝日・連休というくつろぎたい人間側の都合よりも、自然界のリズムによって例年より少し早く訪れた温かい好天の日々を利用して働いていたのだと思います。自然界の草木も虫や鳥たちも、年毎に違う天候自然の動きに何よりも注目しながら、あるいは雨の降るのを忍耐強く待ち、あるいは例年よりも早く芽を出し卵を産むなどの営みをしているのではないでしょうか。私たちもそれに学んで、風のように目には見えない神の働きや導きに対する心の感覚を鋭くし、すぐに従おうとしている忠実な僕や婢の心を堅持していましょう。実際聖霊の導きや働きは、自然界の風のようにいつどちらから吹いて来るのか予測し難く、また突然変わることもあるので、その変化を見逃さないよう絶えず目覚め、気をつけていましょう。
④ 神の国へと召されている私たちキリスト者にとって、決定的なのは人間側の努力ではなく、神の働きであります。大洋を渡るヨットを想像してみて下さい。人間は自分の漕ぐ力によっではなく、自然の風や海流を利用して進んでいます。もちろん人間も目覚めて働いています。特に風の強い時や変わり易い時には、一瞬も休まず油断せずに、その風の動きに従っていると思います。本日の第二朗読の中で使徒パウロは、賜物にも務めにも働きにもいろいろあるが、それらをお与えになるのも働かれるのも神である、と説いています。私たち一人一人は、神の働きの器、神の使者・協力者として造られ、召されていると思います。これが、キリスト教的人間観だと思います。杯やお椀などの中心は空の部分ですが、主のお言葉にもありますように、外側はどんなに綺麗に洗ってあっても、内側に汚れた欲望や利己的計画などがいっぱいに入っているなら、神の器としては使い物にならず、神から捨てられてしまうことでしょう。私たちも、神の器・聖霊の神殿として、何よりも自分の魂の内にいらっしゃる聖霊の現存を信じ、そこからの聖霊の風に心を向けながら、生活するよう心がけましょう。
⑤ 本日の福音によりますと、聖霊が五旬祭の日に劇的に降臨する以前にも、復活の主は、既にその復活当日の夕刻に、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えることと、弟子たちの派遣とを一つに結んで話しておられます。このことは、現代の私たちにとっても大切だと思います。聖霊の霊的な火を心に受けるということは、神から一つの新しい使命を受けることなのです。すなわちその火を自分一人のものとして心の奥にしまい込んだり覆い隠して置いたりしないで、積極的に自分の周囲の人たちの心を照らし温めることに努める、という使命を受けることなのです。
⑥ 人間性の罪と言われる、魂の奥底に宿る原罪に由来する心の弱さや悩みを抱えて苦しんでいる人はたくさんいますが、その人たちの魂をその原罪から解放し、罪を赦して下さるのも聖霊の火だと思います。罪は赦しの秘跡の時に告白すれば、聴罪司祭の赦しの言葉によって皆赦されるなどと、あまりにも外的法律的に考えないよう気をつけましょう。神が問題にしておられるのは、そんな外的法律的な違反行為ではなく、何よりも私たちの心の奥底に隠れ潜む罪の毒素であり、その罪から魂を浄化するのは、神の愛・聖霊の火であります。たとい聴罪司祭から赦しの言葉を戴いても、その赦しの恵みに相応しい心で神の愛に生きるよう努めなければ、その赦しの恵みは魂の中にまでは浸透できず、心はいつまでも元の木阿弥だと思います。私たちが日々の営みの中で、いつも聖霊の火を心の奥に燃やしつつ、出会う人々の心に神による赦しと平和の恵みを、また希望と喜びの光を伝えることができますように、聖霊による照らしと謙虚に仕える心とを願いつつ、本日の御ミサを捧げましょう。
⑦ 皆様もお聞きになったでしょうか、先週のラジオ深夜便に元東大教授で6年前に亡くなられた玉城康四郎氏の、「人類の教師たち」と題する7年前にも放送された話が、再放送されていました。玉城氏によると、古来人類の教師として崇敬されている釈尊もイエスもソクラテスも孔子も、その教えの内容を原典に遡って探求し吟味してみると、表面では宗教・哲学・道徳などと担当領域も、使う言葉や表現も異なってはいますが、結局は皆同じ大きな超越的霊の働きに目覚め生かされて語っています。それで玉城氏は、全人類諸民族が相互にますます密接に関係しつつある現代社会の諸問題を解決するため、これらの偉大な教師たちが等しく強調している生き方を新たに体得し広めることが緊急に必要になっていると、説いていました。私はその話を聞きながら、聖書に述べられている聖霊の働きのことを考えていました。聖霊はキリスト教会の中だけではなく、広く全人類の諸民族・諸文化の中でも旺盛に働いていると信じます。釈尊もソクラテスも孔子も、皆その聖霊の働きに生かされ導かれてその教えを残されたのではないでしょうか。玉城氏の踏み込んだ研究と提案に感謝しながら、私たちも小さいながら、争い悩む現代の諸国・諸民族の救いのために聖霊の導き・働きに一層心を込めて従うよう励み、またその恵みを全人類の上に願い求めましょう。
2008年5月4日日曜日
説教集A年: 2005年5月8日:2005年主の昇天(三ケ日)
① 五月の第二日曜日を「母の日」として祝う慣習が全国的に広まって定着していますが、戦後のわが国で能力主義教育だけが強調され、心の教育が軽視され勝ちであった風潮の中で、多少なりともバランスを取り戻そうとして広まったのかも知れません。しかし、母子の愛が冷えている家庭が今なお少なくないようですから、せめてこの「母の日」に、子供たちが単に言葉で母に感謝し、プレゼントするだけの行事ではなく、その心が自分を生み育ててくれた母の存在と愛にあらためてもっと深く目覚めるように、また母親たちの心にも新たに母性愛が深まり成熟するように、本日のミサ聖祭の中で神の霊の照らしと導きとを祈り求めましょう。
② 本日の福音には、問題となる表現が一つあります。11人の弟子たちがガリラヤの山で復活なされた主と出会って伏して拝んだ後に、ギリシャ語原文によると、「しかし、疑った」と続いている言葉です。それ以前に何度も復活の主に出会って、もう主の復活を確信していたと思われる弟子たちなのに、ここでは主を伏し拝みながら疑ったとあるのは、少しおかしいのではないかという疑問からか、ラテン語訳の聖書は、「しかし、ある者たちは疑った」と訳しかえ、多くの訳書はそれに従っており、日本語の共同訳でも「しかし、疑う者もいた」と訳しています。これについて聖書学者の雨宮慧神父は、ギリシャ語の「疑う(ディスタゾー)」という言葉は、語源から見て、「二つの方向に歩む」という意味を持つので、弟子たちの心は主に出会って、二つの思いに分かれ戸惑うような試練を体験したのではなかろうか、と解説しています。雨宮神父によると、マタイは他にも一度14章に、水上を歩いて主に近づいたペトロが風に荒れる波を見て溺れかかった時、主が同じ言葉を使って、「なぜ疑ったのか」と叱責なされたように書いているので、ペトロの信仰心の奥に、まだ眠っている心の側面に活を入れて徹底的信仰へと立ち上がらせるための叱責であったと思われます。としますと、この「ディスタゾー」という言葉は、弟子たちの信仰に揺さぶりをかけて、それを一層深く固めさせる試練の時に使われる言葉であると思われます。主のご昇天直前の場面でも、11人の弟子たちが皆一瞬心の中にそのような一時的試練を体験し、そこに主が近寄って話し始めると、すぐその試練から解放され、一層徹底的に主に従う心になったのかも知れません。
③ 主はここで、弟子たちに三つのことを話されます。その第一は、主が天と地の一切の権能を授かっていること、第二は、弟子たちが全ての民を主の弟子とし、洗礼を授けて、主が彼らに命じたことを全て守るように教えること、第三は、主が世の終わりまでいつも弟子たちと共にいることであります。「全ての民を私の弟子にしなさい」というギリシャ語の原文が、ラテン語に「全ての民に教えなさい」と訳されたために、古いラゲ訳聖書などには「汝等往きて万民に教えよ」と邦訳され、それが昔のカトリック界に広まったこともありましたが、無学なガリラヤ出身者たちが高度の文化を持つギリシャ・ローマ人たちに教えるなどということは、とてもできない話です。しかし、彼らが人々に自分の信仰体験を語り、人々の心を主の弟子にすることは可能だと思います。主との師弟関係は心と心の関係であって、文化的知識や教養などの上下とは無関係だからであります。このことは、現代の宣教者にとっても大切だと思います。教えるのではなく、自分の信仰体験から語ったり証ししたりして、主の弟子となるように人々の心に呼びかけ、人々の心を主の方へと導けばよいのです。初代教会の宣教者たちは、ペトロもパウロも、皆自分の見聞きした神の働きについて多くを語っていたと思われます。自分の失敗や弱さについても、神から受けた恵みの豊かさについても。ですから、聴く人々の心に「自分もそのような生き方をしたい」という憧れの火を点火して、神信仰へと導くことができたのだと思います。
④ 現代の宣教師たちが大きな成果を挙げることができずにいるのは、神の働きについての自分の不思議体験よりも、形骸化した宗教的知識を教えようとしているからではないでしょうか。パウロはローマ書の第1章に、「福音は信じる全ての者に救いをもたらす神の力です」と力説しています。頭に説明し伝えることのできる単なる知識やノーハウの技術ではありません。驚きと畏れの心が目覚めてこそ受けることのできる、神の救う力、神秘な力なのです。使徒パウロは本日の第二朗読の中でも、「栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の眼を開いて下さるように」、「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれ程大きなものであるかを悟らせて下さるように」などの祈りをなしています。いずれも頭の理知的能力では理解できない神の力とその働きを、神の霊によって照らされ高められた心で悟るようになる恵みを、願い求めている祈りだと思います。現代の宣教師たちも、頭よりも心に語りかけ、心に神の働きと力を悟る恵みを執り成し伝える宣教師であるように、と祈りたいものです。
⑤ 最後に、主のご昇天についても少し考察してみましょう。集会祈願には、「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されてします。云々」という言葉が読まれます。私たちは皆、主キリストと一致してこの世の過ぎ去る命に死に、主のように天に昇るよう召されているのです。日々天体を観測している天文学者の多くは、小さな地球世界とは違う悠久広大な宇宙の神秘に感動し、しばしば自分とは何かなどという人生の神秘についても、考えさせられることがあると聞きます。神はご自身に似せてお創りになった人間を、いつまでもこの小さな地球世界にだけ居住させて置くのではなく、主キリストと一致して罪の体に死んだ後の将来は、もはや死ぬことのない主の復活体のような霊的体にして、広い宇宙を自由に駆け巡りながら神を讃え、神の愛に生きるようにすることを望んでおられるのではないでしょうか。
⑥ しかし、そのような霊的体に復活するためには、最後の晩餐の時の主のように、人々を神の愛をもって極限まで愛することと、何らかの形で主と共に多くの人の罪科を背負い、自分を神へのいけにえとして捧げることが必要なのではないでしょうか。死の苦しみは、私たちキリスト者が一生のうちで為すことのできる最高の業、主と一致して神に捧げる最も価値ある司祭的いけにえだと思います。私たちが主と共に、いつの日か多くの人の救いのために自分を一つの司祭的いけにえとなして天父に捧げ、主のように晴れて昇天できるよう、そして多くの人の上に神からの恵みと助けを呼び下すことができるよう、大きな明るい希望と愛のうちに、今から主と共にこの世に死に、主と共に天に昇る心の準備をしていましょう。主も天上から「私に従いなさい」と、温かい眼差しを向けておられることと信じます。自力では不可能ですが、主の体の無数の細胞の一つとなり、日々自分の中の古いアダムに死んで、主の聖霊、主の御血潮、主の復活の力に生かされて生きることに心がけるなら、可能になるのではないでしょうか。明るい意欲的希望に生きるよう努めましょう。希望は銀の食器のように、この世においては日々心を込めて大切にし、磨いていないと灰色になってしまいます。私たちの希望は、輝きを失っていないでしょうか。反省してみましょう。
2008年4月27日日曜日
説教集A年: 2005年5月1日:2005年復活節第6主日(三ケ日)
① 激動する現代世界の極度に多様化しつつある流れに、大きく心を開いて働く路線を打ち出した第二ヴァチカン公会議が終わって1年半ほど経った1967年の春から、復活節の第6主日は「世界広報の日」とされて、カトリック教会では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画などをはじめとして、各種の社会的コミュニケーションが世界の情報や文化を正しく伝えて、諸国諸民族間の相互理解と共存共栄に貢献するように祈る日、また主キリストの愛の福音がそれらのメディアを介して一層多くの人の心に光と喜びを齎すよう、祈りや献金などで積極的に支援する日とされています。それで私たちも、本日のミサではこの目的のために、特別に心を合わせて祈りましょう。
② ご存じのように、この春には中国でも韓国でも反日デモやそれに類する動きが高まりました。中国では10年ほど前から愛国主義教育が続けられていますから、この動向は一部の中国国民の間で今後も長く継続されると思われます。かつての文化大革命時代に紅衛兵であったりした世代が、今尚軍事や政治の共産主義的中核勢力となって活躍しているようですから。また先日、私の教え子であった韓国人の若手学者と話していましたら、竹島問題についても、韓国人がその島に来ていた古い記録が幾つも残っているのだそうで、この問題も長く燻り続けると思われます。しかし、どちらの国でも狭い国家主義を乗り越えて、人類全体の福祉のために生きようとしている人々も少なくないのですから、日本人も譲ることのできる所は譲って同じ広い心で生きようとするなら、道は開けて来ると思います。広大な中国のほとんどの田舎町には電話線が引かれていませんが、欧米や日本から導入された便利で安価な携帯電話は、驚くほど早く中国全土に普及しています。そして今やインターネットも普及し、民間の若手中国人たちは世界の人々と自由に情報交換をし始めています。保守的共産主義者たちはそのことで神経を尖らせているようですが、思想の自由化へのこの流れの統制は難しいと思います。これまで抑圧されて来た宗教に対しても、関心を示している人が増えているようです。インターネットが福音宣教の新たな手段として大きな成果を挙げることができるよう、祈りたいと思います。
③ 本日の福音は、18節の「私はあなた方を孤児にはしておかない」を境にして、前半と後半とが対照的に違う色合いを示しています。前半の16,17節では「別の弁護者」「真理の霊」すなわち聖霊が中心であり、後半の18~20節では「私」すなわち主イエスが中心になっています。ここで「別の弁護者」と言われているのは、主イエスも御父の御許で弁護者だからだと思います。ヨハネの第一書簡2章の始めに、「御父の御許に弁護者、義人イエス・キリストがおられます」とありますから。しかし、17節と19節に述べられているように、この世は、聖霊に対しても主イエスに対しても、主の弟子たちとは違って、見ようとも知ろうともしていません。弟子たちが聖霊と主イエスの両弁護者を知っているのは、主のご説明によると、どちらの弁護者も弟子たちと一緒に、弟子たちの中にいるからのようです。主は20節に、「かの日には」と話しておられますが、これは旧約聖書以来の伝統的表現で、神がこの世に決定的に介入し裁きをなされる終末の日を指しています。その日が来るまでは、聖霊の働きも主イエスの働きも信仰の霧に包まれていて、この世に生活している私たち信仰に生きる人たちにも、はっきりとは見ること知ることができないようです。
④ しかし、神の無償の大きな愛に感謝しつつ、私たちも日々そのような愛の実践に生きようと励むなら、天の御父が「永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる」と主のお言葉にある聖霊が、不思議に私たちの生活や仕事に伴っていて下さるのを実践的に体験するようになり、やがてその聖霊の勧めや導きに対する預言者的感覚のようなものが、自分の心の中に次第に育って来るのを実感するようになります。主は弟子たちに、迫害される時「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。その時 (中略) 話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」(マルコ 13:10) などと話されましたが、聖霊降臨直後頃の弟子たちは、主のこのお言葉が事実であるのを幾度も体験していたようです。例えば使徒言行録4章には、「ペトロは聖霊に満たされて答えた」だの、「一同は聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語っていた」などの言葉が読まれるからです。
⑤ 2世紀から4世紀始めにかけて迫害が断続的に激しさを増し、殉教者が続出するようになると、日頃から迫害に備えて、聖霊の生きている神殿としての生き方に励んでいたキリスト者たちの中には、聖霊の働きで自分の心が日々神へと高められ強められて行くのを実感していた人たちが多かったようで、3世紀の始め202年に殉教したリオンの司教聖エイレナイオスは、2世紀後半の名著『異端反駁』の第四巻に、人間が日々神の霊によって養い育てられ、進歩して神に近い者になっていくことを明記しています。これは、自らの数多くの体験に基づく話だと思われます。当時のキリスト者たちの人間観では、人間は単に霊魂と肉体との二つの構成要素から成り立つというだけではなく、そこにもう一つ神の霊の働きも添えて「人間」というものを考えていたようで、こういう人間観の伝統は、今でもギリシャ正教会に根強く保持されています。テサロニケ前書5:23にも、「平和の神が、(中略) あなた方の霊も心も体も完全に守って下さるように」とありますから、このようなキリスト教的人間観は、使徒時代からの伝統なのかも知れません。私たちも、自分の内にいつも現存し働いていて下さる聖霊に対する信仰感覚を実践的に磨きつつ、日々聖霊に導かれ養われて生活するよう心がけましょう。
⑥ 本日の福音の始めに主は、「あなた方が私を愛しているなら、私の掟を守る」と言い、福音の終わりには「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。云々」と話しておられますが、この言葉は、愛と主の掟との密接な相関関係を示しています。ここで言われている「私の掟」は、人を外から束縛する社会的倫理的義務や、合理的な道徳法などではありません。主が最後の晩餐の席上で与えたばかりの新しい掟、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という、ヨハネ13章に述べられている掟だと思います。それは、神の愛と助けを体験し、感動している心の内に、感謝と喜びと共に自発的に湧き出て来る決意や誓いのようなものでもあります。人間同士の心と心の関係においても、自ら自分に課するこのような感謝と決意の掟、自分の一生をかけた結婚の誓いのようなパーソナルな心のこもった掟があります。人の心は本来そのように生きるよう創られているのだと思いますが、主が私たちから順守を求めておられる愛の掟も、そのような自ら自分に課する「心の掟」なのではないでしょうか。としますと、何か社会的合理的な規則にだけ目を向けていては足りません。何よりも聖霊の神殿としての自分の心と、聖霊の働きの場である自分の日常体験に心の眼を向けていましょう。そして神の霊に導かれ助けられつつ、相互に愛し合うよう努めましょう。主の求めておられるこの新しい愛の生き方が、私たちの心の中に、また多くの人の心の中に益々深く根を下ろすよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。
2008年4月20日日曜日
説教集A年: 2005年4月24日:2005年復活節第5主日(三ケ日)
① ヨハネ福音書の14章から17章までは、最後の晩餐の席で主が語られた、告別の説教と祈りであると思います。本日の福音は、その長い説教の最初の部分で、途中にちょっとトマスの質問とフィリッポの願いの言葉が入りますが、それ程長くないパラグラフなのに、その中には「父」という言葉が何と14回も登場しています。ヨハネはこの話の少し前で、裏切り者の「ユダはそのパンを食べると、すぐに出て行った。時は夜であった」と書いていますが、夜の闇が主と弟子たちの小さな光の集いを覆い、ユダが外の闇の中へ消えて行ってから、主はご自身の魂の内奥に脈打っていた一番大切な掟や教えや願いなどを、次々と弟子たちの前に披露なされたのではないでしょうか。その最初が、13章後半に述べられている新しい愛の掟ですが、続く14章で主は、父なる神について、愛する者たちに父から派遣される聖霊について、また愛する者たちの心に住んで下さる神について語っておられます。
② 本日の福音の始めに、主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と話しておられますが、それは、「私は光として世に来た」(ヨハネ12:46)と公言なされた神の子の光をも呑み込む程、大きな黒い闇の勢力が攻撃のすさまじさを増して周辺に迫り、暗い不安が海の潮のように、エルサレムの町中に満ちて来ていたからだと思われます。現代世界の状況も、ある意味で当時のユダヤ社会に似ているかも知れません。当時のエルサレムには、明るい建築ブームが続いていました。国際化が急速に進展して、多くの貿易商や観光客、巡礼団などが来訪していたからでした。しかし内的には、政治も宗教もこのあまりにも急激で大きな国際化と多様化の流れにどう対応したらよいかに戸惑い、富の流れに巻き込まれたり、昨日と異なる思想を全て拒絶したりして、形骸化した事なかれ主義に終始していたようです。それで、商工業優先の新しい国際的流れの中で続々と産み出されて来る無数の貧者や苦しむ者たちを救う活力を失っていました。外的経済的には社会は明るく大きく発展し続けていたのですが、内的には心の教育も、家庭の絆も、信仰生活も、内面から崩壊しつつあったようです。このことは、福音書に登場する譬え話や出来事にも反映しています。日本を含め、現代のアジア諸国、いや世界のほとんど全ての国で、今同様の危機的状況が急速に進行しつつあるのではないでしょうか。主は本日の福音の中で、そのような状況の下で生活している現代人にも、父なる神に信仰の眼を向け、信頼と明るい希望をもって生きるよう勧めておられるのだと思います。
③ 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。云々」というお言葉で、主は、私たちが永遠に仕合せに生活する場所が神ご自身によって用意され、主が私たちをそこへ連れて行って下さることを確約なさいました。崩壊しつつある古い社会の激流に押し流されて、浮き草や流れ藻のように神から遠く離れた所へ運び去られ、実を結べない不幸な存在とならないように、父なる神が人類に提供なされた足場、深く根を下ろすための地盤は、神の真理であり、魂に活力を与える神のいのちであり、信ずる者が日々神に近づくのを可能にする道であります。そしてその神の真理・いのち・道は、神から派遣されて人となり、死後は霊的いのちに復活して今も私たちの近くに共にいて下さるメシア、神のロゴス、神の御言葉なのです。主ご自身が本日の福音の中でそうおっしゃっておられるのです。主のこの宣言を堅く信じましょう。主がここで私たちから求めておられるのは、単にそれは本当だと思うだけ、納得するだけの、理知的な頭の信仰ではありません。主のお言葉に日々新たにしっかりと掴まって生きようとする心の実践的信仰、意志的信仰であります。この信仰のある所に神の救う力が働くのです。神の働きに内的に結ばれ支えられて生きようとしない、単なる「頭の信仰」だけの人の中では、神の力が働けません。それは、ある意味で悪魔の信仰のようなものだからです。神の力強さをいつも痛感させられている悪魔も、全知全能の神の存在を信じています。しかし、その心は神に従おうとはせず、神に結ばれて生きようとはしていません。私たちの信仰も、神に対する愛に欠ける冷たいもの、実践の伴わない口先だけの「頭の信仰」にならないよう気をつけましょう。
④ 目に見えるこの世の過ぎ行く事物現象に囚われて、自分の人生をこの世だけの、間もなく朝露のように消え行くものと考えないよう気をつけましょう。洗礼によって神の子のいのちに参与している私たちは死後も、私たちを限りなく愛しておられる天の御父の下で、霊化されたいのちに復活なされた主のお体のように一切の労苦や病苦から自由になって、神の栄光の内に永遠にのびのびと生きるよう召されているのです。復活なされた主の神秘なお体の、言わば無数の細胞の一つとなって父なる神を讃えつつ、仕合せに生き続けるよう召されているのです。あの世のその自由と栄光に満ちた人生の側から眺めると、今の世は何か知らない暗い夢のような世界、あの世に生まれ出るまでの胎児の世界、しかも、原罪による誤謬・誤解・労苦・害悪などが無数に蔓延しているような、狭苦しい世界なのではないでしょうか。それらの誤りや罪悪の毒素によって心が蝕まれたり歪められたりし、出来損ないの人間となってあの世に生まれ出ることのないよう、神の子キリストのいのちに結ばれ、生かされて生きるよう心がけましょう。
⑤ 本日の福音の中で、主は「私は道であり、真理であり、いのちである」と話しておられますが、ここで言われている道について、人間がその上を足で踏んで行くような地上のこの世的道を連想しないよう気をつけましょう。それは、私たちの魂を着物のように四方から包み込んで、神へと運び導いてくれる精神的パイプ、柔軟なホースのようなトンネル通路に似ている道なのではないでしょうか。使徒パウロが「キリストを着る」(ガラ3:27)と表現しているのも、このことだと思います。私たちの魂は、キリストという通路を通ってあの世に生まれ出るのだと思います。ですから、使徒トマスが心配したように、どこへ行くのか目指す行き先やその道筋を、この世においては見通すことができなくても、見ないで信じていて良いのではないでしょうか。主がここでおっしゃった真理についても同様に、この世の人間が持って生まれた自然理性で理解し、自力で利用できるようなこの世的真理ではなく、私たちの心の眼を内面から照らし目覚めさせて、神の啓示や働きを洞察させ確信させるような、生きている信仰の真理なのではないでしょうか。人間イエスや聖母マリアが身をもって示された神の僕・婢としての生き方に倣い、私たちも神の僕・婢として、神の言葉や導きに全く信頼しながら、私たちを愛しておられる父なる神へと進んで行きましょう。
⑥ 本日の第二朗読の中で、使徒ペトロは「石」という言葉を七回も使いながら、「(主は)神によって選ばれた、尊い生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。云々」と書いています。石は、自分主導に神を利用して何かをなそうと積極的に動く存在ではなく、むしろ神のお望み通りに取り上げられるのをじーっと待ち、自分の置かれた持ち場で神の家を下から支える存在だと思います。「隅の親石」となられたキリストに見習って、私たちも神のお望みに徹底的に従う石となるよう努めましょう。
2008年4月13日日曜日
説教集A年: 2005年4月17日:2005年復活節第4主日(三ケ日)
① 本日の第一朗読は、五旬祭すなわちペンテコステの祝日に聖霊の恵みに満たされてから、ペトロが他の使徒たちと共に立ち上がって語った、最初の長い説教からの最後の部分の引用ですが、ペトロはこの説教の中で、ナザレのイエスこそ神から遣わされたメシアであると、いろいろと言葉を変えて幾度も強調しています。その最初の所でペトロは預言者ヨエルの書3章から引用して、「神は言われる。終りの日に私の霊を全ての人に注ぐ。するとあなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」などと話しています。
② 神は預言者の口を通してなぜ幻だの夢だのという話をなさったのでしょうか。またペトロは、エルサレムでの祭りに集まっていた大勢の民衆に向かっての自分の最初の説教の冒頭に、その言葉を引用したのでしょうか。それは、彼らが今エルサレムで見聞きしている、 ラザロの蘇り、イエスの受難死と復活、それに聖霊降臨などの出来事は、神が数百年前から預言者の口を介して予告しておられた夢・幻のように不可解で神秘な現実であり、そこには神が臨在しておられて、私たちから信仰と従順の心を求めておられるということを、示すためであったと思われます。この世の人間的、自然的な出来事であるならば、人間が持って生まれた理性で考究し理解することもできるでしょうが、そういう地上世界を遥かに超える神秘な真理そのものであられる偉大な神が臨在してお示しになる、夢・幻のように不可解な現実に対しては、まずこの世の人間中心の態度や能力は引っ込め、慎んで謙虚に自分の罪深さを反省し悔い改めることが大切だと思います。この観点から本日の第一朗読を見直してみますと、ペトロも集まって来た民衆に、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と勧めています。
③ 神から聖霊の賜物を受けるなら、夢・幻のように不可解な現実も神のお望み通りに正しく知解できると思います。ペトロの言葉を受け入れて、その日のうちに3千人ほどの人が洗礼を受け、使徒たちの仲間に加わったように述べられていますが、その人たちのほとんどは祭りのためにエルサレムに来ていた人たちで、祭りが終わればいなくなるので、エルサレムに残った信徒の数は、多くても2,3百人ほどだったのではないかと推察されます。私見では、受洗した3千人ほどの民衆の多くは、当時ユダヤとその周辺の荒れ野で預言者的精神で貧しく共同生活を営んでいたエッセネ派の人たちだったと思います。第二次世界大戦後に発見されたクムラン文書から、彼らの生活や思想もある程度明らかになっていますが、キリスト時代のその数は4千人ほどに達していたと思われます。メシアを待望していた彼らは、祭りの時に上京してナザレのイエスに会うと、慎重に考えながらもイエスをメシアとして信ずる方に傾いていたと思われます。彼らは福音書では「民衆」と書かれていますが、大祭司たちも預言者的精神で敬虔に厳しい生活を営んでいたエッセネ派には一目置いていたので、イエスを捕えたくても、祭りの時にはその「民衆」の反抗を恐れて手を出せずにいたことが幾度もありました。使徒言行録4:4によると、聖霊降臨後間もないある日、生まれながらの足の不自由な男を癒したペトロとヨハネが大祭司たちに捕えられた頃には、キリストに従う人の数は「五千人ほど」と記されていますが、これもエッセネ派が聖霊降臨後に続々と受洗した結果であると思われます。旧約時代の預言者たちのように、神の霊の働きに対する心の感覚を日頃から実践的に磨いていること、それが主の恵みを早くまた豊かに受ける最良の準備だと思います。
④ 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「キリストはあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたのです」。だから、「善を行って苦しみを耐え忍ぶのが、神の御心に適うことです」と強調しています。聖書のどこにも、教会に来てお祈りしていればそれで救われる、などとは書かれていません。2千年前のファリサイ派はそのように考え、競うようにして沢山の祈りをしていたかも知れませんが、人間側の努力にだけ眼を向けていて、神の働きに対する心のセンスは磨いていなかったのか、メシアを死に追いやってしまいました。何よりも父なる神よりのものに心の眼を向けつつ生活し、神から与えられた苦しみも喜んでお受けし、耐え忍ぶこと、これが主キリストが私たちに残された模範であり、神の御心に適う生き方なのではないでしょうか。
⑤ 主は模範ばかりでなく、私たちがそのように生きるための力も残し与えて下さいました。すなわちキリストを信じて受洗し、主が最後の晩餐の時にお定めになったミサ聖祭の中で与えられる主の御肉を食べ、主の御血を飲んで御受難の主と霊的に一つ体になるならば、主の復活の立ち上がる力が私たちの魂の中にも働いて、私たちは小さいながらも主と同様に生きるようになれると信じます。ペトロも本日の第二朗読の中で、「私たちが罪に死んで義に生きるようになるために」、また「魂の牧者の所へ戻って来るために」、キリストは「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さった」と説いています。信仰は決断です。信仰のない所、決断のない所には神の力も働かず、救いもありません。主キリストと内的に一致して日々自分に与えられる十字架の苦しみを担い、多くの人の救いのために主と共に苦しみを耐え忍び、その苦しみを神にお捧げしようとの決意を新たに致しましょう。この決意に欠けている心には、この世に死んで復活なされた主の救う力も働かない、と信じるからです。
⑥ 本日の福音の中で、主は「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。云々」と話して、「門」と「羊飼い」という二つのテーマを持ち出しておられますが、11節以降に読まれる羊飼いについての話は本日の福音から外されていますので、ここでは、「私は門である。私を通して入る者は救われる。云々」と、主がご自身を「門」と見立てておられる譬えについてだけ考えてみましょう。主は別の箇所ではご自身を「道」と称されていますが、ここで「門」とあるのは、救いに到る真の門である精神、すなわち何よりも神の御旨中心に生きようとする神の子の奉仕的愛、キリストの自己犠牲的精神を指しているのではないでしょうか。
⑦ この愛や精神なしに羊たちの世話をしよう、羊たちを教え導こうとする教師や宗教者たちに対して、主は「盗人であり、強盗である」と、二度も厳しい非難の言葉を浴びせておられます。自分のこの世的地位や知識・能力などを利用して、助けを必要としている羊たちを食い物にする、そのような教師や宗教者たちに、私たちも気をつけましょう。たとえその人たちの話がどれ程面白く、心を和らげ楽しませるものであろうとも、その人たちの心がキリストの自己犠牲的奉仕愛の精神に生かされていないようでしたら、警戒しましょう。18世紀から19世紀にかけてのフランス革命時代に、ウィーンで数多くの若者や知識人たちを伝統的カトリック信仰に復帰させることに成功した聖クレメンス・マリア・ホーフバウエルは、無数の間違った聖書解釈や危険思想の乱れ飛ぶ過渡期には、カトリック者は信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別しなければならないと説いています。現代も、そのような危険が溢れているような過渡期ではないでしょうか。私たちも信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別するよう心がけましょう。二千年前のエッセネ派の人々も、同様の預言者的鼻の嗅覚で真偽を確かめていたのだと思います。
⑧ 本日の福音のすぐ前のヨハネ福音書9章には、生まれながらの盲目を癒された人が、ファリサイ派の人たちから何を言われても、それに従わず、自分の心が真に従うべきメシアをひたすらにたずね求めて、遂にそのメシアにめぐり会い、「主よ、私は信じます」と告白して、主を拝むに到った話が感動的に語られています。主はそういう人たちを示唆しているかのように、羊は門から入る羊飼いの声を聞き分け、その声を知っているので、先頭に立って行く羊飼いにはついて行くが、外の者にはついて行かない、などと話しておられます。しかし、ついて行く行かないは羊の心の問題ですので、やはり日頃から信仰の嗅覚を鋭く磨きつつ、真の牧者の声を正しく識別し、あくまでもその牧者に付き従って行く決意を固めていましょう。
⑨ 最近、韓国や中国で反日感情や反日運動が高まっていますが、この動向はこれからもまだ長く続くと思われます。中国では数年前から愛国主義教育が施行され盛んになっているようですから、その教育を受けて全てを中国中心に評価する偏狭な価値観や世界観で生きる若者たちが非常に多くなっていると思われるからです。しかし、同じ中国には、何よりも人類全体の平和共存を願う国際主義的価値観や民主主義にも温かい理解と好意を抱いている人も少なくありません。中国・北朝鮮・韓国で万事に平和共存を優先する温厚な人々の見解が重んじられて、不要な対立や戦争の危機が解消されるよう、また神の聖霊が隣国の人々の心を明るく照らし守り導いて下さるよう、この四月からは毎月一回、日曜日にミサを捧げてご一緒に祈りたいと思います。本日のミサ聖祭はそのために捧げられますが、ご協力をお願い致します。
2008年4月6日日曜日
説教集A年: 2005年4月10日:2005年復活節第3主日(三ケ日)
① 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「あなた方は、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と教えています。天の父なる神は、深い大きな愛をもって、罪深い私たちの救いのために真剣になっておられるのです。罪や穢れの全くない最愛の御独り子の尊い御血によって私たちを贖い、永遠の栄光への道を開いて下さったのです。私たちが死後永遠に仕合せになれるか否かは、ひとえにこの神の愛を信じて日々その神に感謝しつつ、神と共に生きようと努めるか否かにかかっている、と言ってもよいと思います。終末の時に神がお裁きになるのは、この神の愛を無視して神に背を向ける行為と、背を向けなくても自分の欲や考えや計画などを優先して、神に従って生きようとしない怠りの行為だけである、と思います。神に感謝することを知らない、そんな冷たい心で日々戴いている神よりの恵みを無駄遣いすることのないよう、神の裁きを恐れることに心がけましょう。厳しい裁きの時は、私たちにも遠からずやって来るのですから。
② とかく目前の人間関係や利害関係のことに眼を奪われ、自分中心の煩悩の霧にこもって生活し勝ちな私たちでしたが、この世のそういう霧や雲の上から、私たちに大きな愛と期待の眼差しを注いでおられる父なる神、目には見えなくても温かい春の太陽のように万物を養い育てておられる献身的奉仕愛の神に、感謝と信仰の眼を向けながら祈り、働き、生活するように努めましょう。私たちがそのように生きる時、復活の主キリストの新しい命が私たちの心の内に生き生きと働くようになり、私たちは復活なされた主キリストが、今も目に見えないながら実際に私たちと共におられ、そっと私たちを助け導いておられることを、数多くの小さな体験から次第に確信するようになります。現代は情報も価値観も刻々と急激に変貌し多様化しつつある、ある意味では非常に不安な落ち着きのない時代であり、未だ嘗てなかった程の恐ろしい詐欺やテロや自然災害の危険も高まっている時代ですが、こういう時にこそ、心の奥底に伴っていて下さる復活の主と日々内的に堅く結ばれて生活することは、非常に大切であり、また有り難いことだと思います。神が望んでおられるこの信仰の生き方を体得し、世の人々にも伝えるよう努めましょう。
③ 本日の福音は、24節までの前半部分と、それ以後の後半部分とに分けて考えることができますが、前半と後半には、それぞれ「エルサレム」「互いに」「彼らの目が」「認める」「預言者」などの共通する言葉が幾つも登場していて、ある意味では対照的に対応しています。しかし、前半では主の受難死に深刻な落胆を覚えて立ち上がれずにいる二人の弟子たちが中心になっており、エマオへの途上に出会った見知らぬ旅人に、ナザレのイエスをめぐる最近の出来事について語り聞かせます。彼らは、業にも言葉にも力ある預言者であったイエスに大きな期待を抱いていたのに、そのイエスが十字架刑で死んでしまい、もうこの世にはいないので、暗い顔をしています。その日の早朝、仲間の婦人たちが墓にご遺体がなくなっているのを発見し、天使たちから「イエスは生きておられる」と告げられたことも、仲間の弟子たちがその墓に行って、婦人たちの言う通りご遺体がなくなっているのを確認したことも知っていました。しかし二人は、この世の目に見える出来事にだけ心を向け、ご遺体は誰かに盗み去られたのかも知れないなどと考えたのか、いつまでも落胆から立ち直れずにいました。まだまだ聖書の預言や教えのことを知らず、人間理性中心の立場で全ての出来事や情報を解釈する、この世的生き方にこだわっていたからだと思います。
④ 後半部分では、見知らぬ旅人の姿で出現なされた復活の主が中心です。主はモーセと全ての預言者たちの言葉を解説しながら、メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るのが神の御旨であったことを、聖書全体から説明なさいました。一行が目指す村に到着すると、二人は「一緒にお泊り下さい。そろそろ夕方ですから」と、主を強いて引き止め、宿の家に入って一緒に食事の席に着きました。すると復活の主がパンを取って賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになりました。主が食卓の主人であるかのように振舞われたのです。この動作は、最後の晩餐などの時の主の日ごろの所作に似ていたと思われます。二人がそのパンを戴くと、心の眼が開けてその旅人が復活の主であることに気づきましたが、その瞬間にそのお姿は見えなくなりました。
⑤ 主が主導権を取っておられるこの後半部分では、二人の心は聖書の教えに眼を向けるようになってだんだんと立ち直り、やがて全く新しい希望の火に燃え立ち、メシアの復活を信じるようになりました。そして見知らぬ旅人が復活の主であったことに気づくとすぐ、急いでエルサレムに立ち帰り、見聞きした出来事を他の弟子たちに報告しています。この後半部分は、復活の主との出会いの場がどこにあるかを、現代の私たちにも教えているのではないでしょうか。それは、自分中心の理知的立場で主の復活について幾ら考察しても、復活の主に出会うことはできず、むしろ自分から抜け出て見知らぬ人にも親切を尽くそうとする行為のうちに、また聖書から神のお考えを学びそれに従おうとする心のうちに、そして特にミサ中の聖体拝領の時に、心を大きく開いて神の御旨に徹底的に従って生きようとする意思を実践的に表明するなら、復活の主は、私たちにも心の奥で主に出会う恵みを与えて下さるのではないでしょうか。希望をもって日々復活の主と出会い、現代社会の不安に耐えて生き抜く力を戴くように努めましょう。
