2015年8月30日日曜日

説教集B2012年:2012年間第22主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節
第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節
福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節


   本日の第一朗読には、モーセが神の民に向かって「イスラエルよ、今私が教える掟と法を忠実に行いなさい」という言葉で始まる後半部分に、「そうすれば、諸国の民にあなた方の知恵と良識が示され、彼らは、(中略)この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民であると言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」と話しています。人間は神から優れた理解力、自分で考え出す能力を与えられていますが、その心は原罪によって神から離れ、神のように自分中心に生きようとする強い傾きを奥底に宿しているために、神の御旨に反する望みを抱いたり、考えの違う人たちとの対立や争い事に生きたりもします。無数の人たちの知恵や歴史的体験が山ほど蓄積されて来ている現代世界においても、有り余る情報や知識の流れの中で、自分中心の不賢明な行為や生き方をしている人たちが少なくありません。宇宙万物の創造主であられる神の御旨に、感謝をもって従おうとしないからだと思います。何よりも神の御旨に従おう、神の掟を守ろうとする人の中では神が働いて下さり、その人が神の力に生かされて知恵と良識に富む人間に成長することを、モーセは長年の人生体験から確信していたのではないでしょうか。

   モーセがその話の中で、「あなたたちは私が命じる言葉に、何一つ加えることも減らすこともしてはならない。私が命じる通りにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」と命じていることは、注目に値します。神はモーセを通して、神の言葉に対する徹底的従順を求めておられるのではないでしょうか。神のために何か善業をしようという心で、何かの事業を企画したり、人々にもしきりに寄付を呼びかけたりしている人を見ることがありますが、その熱心には敬意を表しても、それが果たして神の御旨なのかどうかについては、少し距離を置いて慎重に吟味してみる必要があります。いくら善意からであっても、神の掟や神の言葉に、人間のこの世的考えや望みから何かを加えることは、神のお望みに反することになり兼ねないからです。例えば2千年前頃にユダヤ人庶民の宗教教育を担当していたファリサイ派の教師たちは、善意からではありますが、神から約束されている偉大な王メシアが間もなくユダヤのベトレヘムから出現して、ユダヤ民族を栄光の世界支配に導いて下さると信じ、そのような現世的メシア像の夢を民衆の間に広めていました。それで、神から派遣されたそのメシアが、ユダヤ人たちから軽蔑されていたガリラヤの下層民から頭角を現し、この世の軍事的権力などは持とうとせずに、何よりも神の御旨に従おうとする新しい預言者的信仰を説き、その教えを広め始めますと、この人が果たして神よりのメシアなのかと戸惑い、絶えず監視し迷いながらも、ファリサイ派の多くは最後には自分たちの広めて来た伝統的教えを優先して、その預言者精神のメシアをユダヤ民族の将来に大きな危険を齎す偽りのメシアとして断罪した大祭司たちの意見に賛同してしまいました。

   私たちの生活している現代世界も、2千年前のオリエント・地中海世界のように、いやそれよりも遥かに大規模に人類史の大きな変動期にあると思います。2千年前のユダヤでは、ギリシャ・ローマ文明の発達普及で商工業や国際貿易が盛んになり、社会が豊かになって人口移動が激しくなったため、多くの若者たちが、古い堅苦しい伝統からは自由になって新しく考え、新しい生き方に憧れる傾向が強かったようです。そのことは福音書にも、主がお語りになった幾つかの譬え話の中にも反映しています。伝統的社会や家族の絆が内部から緩むこういう過渡期には、神も全く新しい働き方をなさいますので、何よりも神なる御父の新しい御旨をたずね求め、それに従って生きようとする預言者的信仰心が大切になります。伝統的社会や教会や家族の絆が大きく緩み崩壊し始めている現代も同様ではないでしょうか。主イエスの模範や多くの聖人たちの模範に倣って、祈りの内に神の霊の働きに対する心の感覚を磨き深める、預言者的生き方に心がけましょう。そうすれば、個々の具体的な事柄について、神の霊が私たちの判断を照らし導いて下さいます。時にはすぐに判断できず、長く待たされることがあるとしても。

   使徒ヤコブは本日の第二朗読に、「心に植え付けられた(神の)御言葉は、あなた方の魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはなりません」と勧めていますが、この言葉も大切だと思います。神から戴いた御言葉を頭で理解するだけの信仰、いわば頭の信仰に留まっていてはなりません。日常茶飯事の中のごく平凡な人間的行為や小さな奉仕などを、温かい親心をもって隠れた所から私たちを見ておられる天の御父に心の眼を向けながら、実行してみましょう。天の御父は、神現存の信仰の内になす、そのような小さな事を特別の関心を持ってちゃんと見ておられるように思います。私は数多くの小さな体験から、そのように信じています。主イエスも一度天の御父について、「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10:30)と話されましたが、全能の神は実際にそれ程行き届いた御心で私たち人間の生活に伴っておられるのではないでしょうか。欠点多い私たちは、時々小さな失敗や小さな不安に心を腐らすこともありますが、その時すぐに愛する神に心を向け、その失敗や不安をお献げ致しましょう。それは、神が特別にお喜びになる行為であり祈りであると思います。神がその小さな失敗や不安を道具にして、不思議に良い結果が生ずるよう働いて下さるのを体験しますから。


   主イエスは山上の説教の中で、「まず、神の国とその御旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものも皆、あなた方に加え与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩ってはならない」と話されましたが、ここに言われている「神の国」は、どこか遠くにある神の王国のようなものを意味しているのではなく、私たちの心の中での神の支配、神の働きを意味していると思います。ギリシャ語のバジレイアという言葉には、「国」という意味と「支配」という意味の両方がありますから。自分の奥底の心を自分が支配するのではなく、神が支配して下さるよう実践的に願い求めましょう。そうすれば神は私たちのこの欠点多い心を道具として使って下さり、必要なものは何でも次々と与えて下さるのを体験するようになります。幼子のように素直な心で主の御言葉を信じ、その信仰を日々実践的に表明するよう心がけましょう。

2015年8月16日日曜日

説教集B2012年:2012年間第20主日(藤沢の修道院)

第1朗読 箴言 9章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 5章15~20節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章51~58節

   本日の第二朗読の中で、使徒パウロは「皆さん、賢い者として細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」「主の御心が何であるかを悟りなさい」「霊に満たされ、詩篇と讃歌と霊的な歌によって」「主に向かって心からほめ歌いなさい。そしていつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により父である神に感謝しなさい」と勧めています。使徒パウロの生まれ育った2千年前頃のオリエント諸国は、ギリシャ・ローマの優れた文明文化並びにシルクロード貿易によって商工業が大きく発達していたため、社会は非常に豊かに成り、それまでとは比較にならない程人口移動も激しくなっていました。それは、福音書の譬え話などにも反映しています。ヘロデ大王が招いたギリシャの天才的建築家ニカノールによって、エルサレム神殿も無数の大理石によって大きく非常に美しく改築されたので、国際的貿易商たちも大勢ソロモンの回廊内にある広い「異邦人の庭」で祈って献金するようになり、神殿の収入も高額に達していました。社会の下層には貧しい農民や羊飼いたちも少なからずいましたが、しかし社会の上層部や中間層は豊かな生活を営んでおり、その豊かさと国際化の故に人々の価値評価や考えも多様化していたと思われます。それで住民の宗教教育を担当していたファリサイ派の人たちは、神の民ユダヤ人の宗教心や団結心が弱体化しないように、安息日順守の規則などを強調していました。

   しかし、こういう人類社会の大きな過渡期には、神も全く新しい働き方をなさるのです。ユダヤ教の様々の規則は、神の民イスラエルをメシア時代に備えるために、他宗教とは違う神中心の新しい宗教形態の内に団結させ、従順心を磨かせる手段やガードレールのようなもので、それはこれまでの時代にはそれなりの歴史的意味がありました。使徒パウロはそれを、幼い子供を守り育てる「子守り」の働きに譬えています。しかし、神が全く新しい働き方を為されるメシア時代には、神は外的社会的に形骸化しているその伝統的生き方から人々の心を解放して、何よりも神の新しい呼びかけや働きを重視する大人の生き方、一種の預言者的生き方へと導かれます。キリスト時代には荒れ野に拠点を置くエッセネ派の人たちがそのような宗教生活を営んでおり、洗礼者ヨハネもその感化を受けて荒れ野で成長しましたが、それと対立していたのが、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の宗教組織や宗教形態を守り抜こうとしていたファリサイ派の人たちでした。彼らはこの世の道徳を大切にしていましたが、ユダヤ民族のこの世の栄光のためには、神をもメシアをも利用しようとしていた人間中心主義の神信仰者でした。それで、神中心の新しい信仰生活と新しい福音を説いておられたメシアは、弟子たちに「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」と命じておられます。使徒パウロは初めこのファリサイ派に属してキリスト者たちを迫害していましたが、復活の主キリストに出遭って神中心の新しい信仰生活に転向してからは、誰よりも熱心に、神の霊の新しい導きに従う信仰生活を説き勧めています。初めに引用した本日の第二朗読の勧めは、この立場で受け止めましょう。

   ところで、近代文明の発達で当時とは比較にならない程人々が豊かになり、人口移動も激しくなって、全てが極度に多様化しつつある現代も、人類史上未だかつてなかった程の大きな大きな過渡期であります。そして神の霊も、新しい形で多くの人々の心で働いておられると思います。私たちも使徒パウロの勧めに従って、「細かく気を配って歩み」「主の御心が何であるかを悟る」ように心がけるべきなのではないでしょうか。現代もある意味で恐ろしい「悪い時代」であると思います。地球温暖化のせいでしょうか、最近ではニューヨークやモスコーでも異常に高い気温を記録したり、梅雨前線の上って来なかった北海道に前線が停滞して雨が降り続いたり、日本に居座る高気圧を避けて台風が中国の方に向かうようになったりする気象の異常が頻発していますが、極度に多様化した人類世界の政治経済にも異常現象が頻発しています。昨年の9月にドイツの大統領から招かれ、国賓として故国ドイツを訪問した教皇ベネディクト16世は、ドイツの国民議会での演説を、神に民を統治する知恵を願って神から喜ばれた若いソロモン王の話から説き起こし、複雑な現代の諸問題の解決にも、神からの照らし・導き・助けなどの必要性をほのめかしておられます。教皇はその中で第二次世界大戦後に、世界の創造主の自然法に基づいて人権宣言が為されたり、ドイツの基本法が打ち建てられたりした時代に比べると、その後の50年間に人間中心の実証主義的世界観や価値観が殆どの人の心に広まって、今ではもう神の自然法に従おうとするのではなく、何か新しいことを試してみてその結果が善ければ、それは善だと考える科学万能主義の価値観が普及していることを指摘しておられます。

   ここからは私個人の考えですが、神はご自身のお創りになった宇宙万物を、神の呼びかけや導きに従おうとせずに、性道徳も家族倫理も人間中心に自由に造り変えたり変革したりする科学主義的試みの世界的広まりを、いつまでも黙視なさらずに、その乱れによって犠牲にされた無数の小さな弱い命のためにも、遠からず恐ろしい天罰を人類世界にお遣わしになるのではないでしょうか。その時に神の憐れみを受けて救われる者となるように、今から神中心の預言者的信仰生活に心がけ、細かく気を配って神の導きに従うように努めましょう。そして日々神への祈りと感謝の内に生き続けましょう。


   本日の福音の中で主は、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得、私はその人を終りの日に復活させる」と確約し、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もいつもその人の内にいる」などと話しておられます。主が「いつも」とおっしゃったお言葉をそのまま素直に受け止め、たといこの世の人間社会が崩壊し、この世の社会的教会組織が崩れても、日々自分の内に現存しておられる復活の主とますます深く一致して生活するよう心がけましょう。それが、これからの終末時代に神が強く望んでおられる預言者的信仰生活だと思います。2千年前に目に見える人間となってこの世に来られた主は、復活して昇天なされた後には、目に見えない霊的な形でこの宇宙万物の内に新たに受肉し、深く隠れながらも、万物をゆっくりとあの世の永遠の栄光へと押し上げ、変容させつつあるのです。神中心主義のこの明るい希望と信頼の内に、主キリストと共に人類の罪の償いのため全ての苦しみを献げながら、忍耐強く生き抜きましょう。

2015年8月9日日曜日

説教集B2012年:2012年間第19主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 19章4~8節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章30~5章2節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章41~51節

   本日の第一朗読には、天使から与えられたパンと飲み物に力づけられたエリヤが、「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」と記されていますが、ここで「四十日四十夜」とあるのは文学的表現で、その言葉通り四十日四十夜も歩き続けたという意味ではないと思います。神の山ホレブ、すなわちシナイ山は、エルサレムから直線で400キロ程の所にある山ですから、荒れ野のどの位置から歩き始めたのか分かりませんが、一日に40キロずつ歩いたとしたら、十日足らずで到着したと思います。聖書はただ、その遠い荒れ野の道を、天使から二回に分けて与えられた食べ物と飲み物から得た力で歩き通したことを、強調しているのだと思います。後述する福音の中で主は、「私の与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」と、暗に主のご聖体のことを指して話しておられますが、私たちが日々拝領するご聖体の中にも、預言者エリヤに与えられた天使のパンと飲み物に勝る、遥かに大きな力が込められているのではないでしょうか。神から提供されているこのパンに込められている神秘な力に対する信仰と信頼を新たに致しましょう。

   本日の第二朗読には、「あなた方は神に愛されているのですから、神に倣う者となりなさい」という勧めの言葉があります。山上の説教の中にある「天の父のように完全でありなさい」という主イエスのお言葉と共に、心に銘記していましょう。しかし、これらの勧めの中で「神に倣う者」や「完全である」という言葉を、道徳的に落ち度も欠点もない人格者というような、この世的意味で受け止めないよう気をつけましょう。それは、私たちを神の子として下さった神の無償の愛の中でこの世の万物を眺め、絶えず神の視線を肌で感じながら神の御旨に従うことを中心として生活しなさい、という意味だと思います。父なる神の愛の御旨を身をもって世の人々に啓示して下さった主イエスご自身も、神の聖霊に内面から生かされつつ、何よりも神の子としての従順を体現するよう心掛けておられたのですから。私たちもその主と一致して、「神に愛されている子供」「神に倣う者」としての生き方を、神の聖霊・神の愛に生かされ導かれて為すよう日々励みましょう。

   本日の福音は一週間前の主日の福音と同様、主によるパンの奇跡を体験したユダヤ人たちに、主がその翌日カファルナウムで話された長い話の続きであります。本日の福音箇所には、「私はパンである」という主のお言葉が二回読まれます。最初の41節と、中ほどの48節にです。そこで仮に最初から47節までを前半、それ以降を後半としますと、前半ではイエスを神から遣わされて来た方として信じ、受け入れるか否かが問題とされており、後半ではそのイエスを受け入れる人、すなわち「天から降って来たパン」を食べる人が受ける恵みについての話である、と言ってもよいと思います。

   前日湖の向こう岸で5千人もの群衆にパンを食べさせるという大きな奇跡をなされた主が、その奇跡を目撃したユダヤ人たちに前半で、「私は天から降って来たパンである」と話し、彼らから主の本質に対する信仰をお求めになると、彼らのうちの一部はナザレから来ていた人たちだったのか、すぐに「これはヨゼフの息子ではないか。我々はその父母も知っている。なぜ今『天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき始めました。この世で体験する何かの不思議な出来事の背後に、神の新しい働きや神の新しい呼びかけ、神の新しいお望みなどを感じ取り、感謝の心で神に従おうとしていないからだと思います。人類史の大きな過渡期に神は時としてそれまでになかったような不思議な出来事を人々に体験させるのです。エリヤが天から火を呼び下したりエリシャが飢饉の時に百人もの人々に食べ切れない程豊かにパンを食べさせたりした預言者時代も、モーセやヨシアの時代と同様に歴史の大きな過渡期でしたが、2千年前のキリスト時代も歴史の大きな過渡期でした。そして私たちの生活している現代も、そのような大きな過渡期であると思います。これまでの人間の想定を超える思わぬ出来事が、これからも次々と発生することでしょう。私たちも心して、それらの出来事の背後にいつも神の新しい働きや新しい呼びかけを見出し、神の御旨に従うよう心がけましょう。

   神が徴として為さった新しい想定外の御業を、これまでの人間社会のこの世的尺度で受け止め、神の全く新しい働きに心を開こう、神からの新しい呼びかけに従って新しい生き方を始めようとせずにいますと、神の新しい言葉を正しく受け止めることができずに、それを批判の言葉が飛び出します。出エジプトの時代から、聖書はそれを「つぶやく」という言葉で表現しています。本日の福音の中で主も、「つぶやき合うのは止めなさい」と話され、「私をお遣わしになった父が引き寄せて下さらないなら、誰も私の許へは来ることができない (が、私は私の許に来る人を) 終りの日に復活させる。云々」と、預言者の言葉も引用なさって、イエスを天から降って来たパンと信じ受け入れる人が受ける恵みについて話し続け、最期に「はっきり言って置く。信じる者は永遠の命を得ている」と言明なさいます。「はっきり言って置く」と邦訳された「アーメン私は言う」という語句は、何かの真実を宣言するような時に使う慣用句ですから、主のお言葉を信じて受け入れる人が、たといそのお言葉の示す深い神秘をまだ理解できなくても既に永遠の命を得ていることを、主は公然と宣言なさったのだと思います。私たちは、日々聖体祭儀の中でこの祭壇にパンと葡萄酒の形で現存なさる主を、この世の人間的な目で受け止めずに、その大きな神秘を神のなさる御業として信仰と愛の心で受け止めているでしょうか。信じる者には永遠の命が与えられるのだと、主は現代の私たちにも言明して、私たちからもその信仰を強く求めておられると思います。聖体祭儀の時には、この信仰を新たに表明するよう心がけましょう。そこに私たちの受ける恵みも永遠の命もかかっているのですから。この世の祭儀の外的習慣化に負けないよう、自分の心に呼びかけましょう。


   しかし、偉大な奇跡をなさった主のこの宣言を耳にしても、その場のユダヤ人たちはまだ何の反応も示さなかったようで、主はあらためて「私は命のパンである。云々」と、ご自身の本質についてのもっと大きな神秘を啓示なさいます。すなわち主ご自身は、先祖が荒れ野で神から受けたマンナよりも神秘なパンで、「このパンを食べる人は永遠に生きる」のです。しかも、そのパンとは、「世を生かすための私の肉のことである」と言われたのです。本日の福音はここで打ち切られていますが、主イエスのこの話に対してはまたもユダヤ人たちから、「この人は自分の肉をどうして私たちに食べさせることができようか」などと、この世の人間的考えを中心とする立場から批判の声が上がり、主はそれに対しても、「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物である。云々」という、長い神秘的な話をしておられます。後で聖体の秘跡が制定されてみますと、私たちはそれらの神秘なお言葉をそのまま受け入れ、信じることができますが、その場のユダヤ人の多くは、自然理性では受け入れ難い主のこれらのお言葉に躓いて、主の御許から離れ去ってしまいました。ただ12使徒たちは頭では理解できないながらも、日頃から主に対する心の信仰・信頼を保持していたので、主の御許に留まり続けました。私たちの心の奥底にあるもう一つの貴重な能力、すなわち神に対する信仰や献身的愛の憧れという能力を抑圧せずに、神よりの神秘な恵みを素直に受け止めましょう。

2015年7月26日日曜日

説教集B2012年:2012年間第17主日(三ケ日)

第1朗読 列王記下 4章42~44節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 4章1~6節
福音朗読 ヨハネによる福音書 6章1~15節

   本日の福音に記されている、主イエスがガリラヤの湖東の岸辺で、大麦のパン五つと魚二匹を増やし、5千人の男たちに食べさせた奇跡は、四福音書全てに述べられている、かつて無かった程の大きな奇跡であったと思います。四福音書全部に共通して述べられている出来事は、このパンの奇跡の他には、ご受難直前の主のエルサレム入城と、主の最後の晩餐・ご受難・ご死去・ご復活など、主が最後の段階でなされた最も重要な救いの御業だけですので、福音記者たちは主が公生活の途中で為されたこのパンの奇跡を、それらの御業と並べて特別に重視していた、と申してもよいと思います。ところでマタイとマルコ福音書によりますと、主はこのパンの奇跡の後にも、もう一度七つのパンと少しの小魚を増やして、四千人の男たちに食べさせるという奇跡を為しておられます。どちらの福音書でも、主は後で、「私が五つのパンを五千人に与えた時、残りを幾つの籠に集めたか。また七つのパンを四千人に与えた時、残りを幾つの籠に集めたか」と弟子たちに問い、それぞれ「十二籠です」、「七籠です」の返事を聞いて、「それでも、まだ悟らないのか」と、彼らの信仰の弱さを咎めておられますから、主は彼らの信仰を少しでも固めるため、パンの奇跡を二回もなさったのだと思います。

   本日の第一朗読によりますと、天に上げられた神の人エリヤから、その預言者的権能を受け継いだ神の人エリシャも、パン20個を百人の人々に食べさせた奇跡を為しています。エリコに近いギルガルの人々が飢饉に見舞われて苦しんでいた時、一人の男の人が、その地を訪れた神の人エリシャの許に、初物の大麦のパン20個と新しい穀物とを、袋に入れて持って来ました。為政者側の政策でバアル信仰が広まり、真の神に対する信仰が住民の間に弱められていた紀元前9世紀頃の話です。飢饉という恐ろしい自然災害に直面しても、信仰を失わずに敬虔に生活していたその男の人は、神の人エリシャの助けを求めて、その初物を持参したのだと思います。信仰に生きるイスラエル人たちは、神の恵みによって収穫した穀物の初物は、感謝の印に神に献げるべき最上のものと考えていましたから、それを預言者エリシャを介して神に献げようとしたのかも知れません。一人の人が袋に入れて持参したパン20個は少量ではあっても、飢饉時代には特別に心の籠った貴重な供え物であったと思われます。それを受け取った神の人エリシャはすぐに、「人々に与えて食べさせなさい」と召使たちに命じました。召使たちは驚いたと思います。「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えましたが、エリシャは再び命じて、「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる『彼らは食べきれずに残す』」と言いました。それで、召使たちがそれを配ったところ、主のお言葉通り、人々は飢えていたのに、それを全部食べきれずに残してしまいました。

   いったいそのパンは、いつどこで増えたのでしょうか。聖書をよく読んでみますと、預言者エリシャは召使たちに「人々に与えて食べさせなさい」と命じただけですから、パンは預言者の手元で増えたのではないようです。パンは、それを配る召使たちの手元で増えたのではないでしょうか。本日の福音にも、主イエスは過越祭が近づいていた冬から春にかけての頃、すなわち農閑期で多くの農民が主の御許に参集し易い時期に、人里から遠く離れた土地で、五つのパンと二匹の魚を増やして5千人もの人々に食べさせ、残ったパンの屑で12の籠がいっぱいになるほど満腹させています。マタイやルカの福音書によりますと、それは日が傾いてからの夕刻の出来事でありますから、暗くなるまでの限られたわずかな時間内に、パンが大量に配布され群衆を満腹にさせたことを思いますと、パンは主の手元でだけ増やされ、弟子たちがそのパンを、5千人もの人々が分散して腰を下ろしている所に運んだのではなく、預言者エリシャの時と同様に、パンを分け与える弟子たちの手元でも、次々と増え続けたのではないでしょうか。それは、その奇跡を間近に目撃した群集一人一人の心を驚かし、感動させた出来事であったと思われます。全能の主の御力が弟子たち各人の中に現存して、この奇跡を為したのだと思います。その主は今も、ミサ聖祭の時に同様に現存してお働きになります。この「信仰の神秘」を堅く信じつつ、ミサ聖祭に出席していましょう。公会議後に刷新された典礼では、ミサ聖祭の聖変化の直後に司祭が「信仰の神秘」と宣言し、参列者がそれに続く短い祈りを捧げていますが、これは東方教会が古代から続けている典礼から学んで導入したものです。東方教会では古来この祈りを唱える時に、復活の主キリストの現存に対する信仰を新たにしていると聞いています。私たちもこの伝統を心を込めて順守しましょう。

   本日の第二朗読は、神からの招きにふさわしく歩むこと、そして柔和で寛容な心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、神の霊による一致を保つように努めることを強調しています。しかし、それらの勧めを自分の人間的な自然の力に頼って実践しようとしても、次々と弱さや不備が露出して来て、なかなか思うようには行きません。人間関係となると、私たち生身の人間の心には、無意識の内に、各人のこれまでの体験に基づいて築き上げて来た外的自然的価値観に頼って隣人を評価してしまう動きが強く働くようです。そのため、お互いに善意はあっても、心と心とはそう簡単には一致できません。そこで使徒パウロは、各人のその価値観をもっと大きく広げさせるために、「すべてのものの父である神」に心の眼を向けさせ、「神から招かれているのですから、その招きにふさわしく」神の愛の霊によって生かされるよう勧めているのだと思います。「神から招かれている」というこの言葉を、心にしっかりと銘記していましょう。私たち人間相互の本当の一致も、人類社会の本当の平和も、各人が神からの招きに応えよう、何よりも神の御旨に従おうと努めることによって実現するように、神がこの世の全てをお創りになったのだと思います。


   話は違いますが、私は年齢が進んで80歳代になりましたら、気をつけていても物をどこかに置き忘れたり持参しなかったりすることが多くなりました。そこで私は数年前から、全く日常的な小さな仕事や外出を為す時にも、自分の力だけに頼らずに、神の導きや守りを願い求めたり、自分の守護の天使や保護の聖人たちに助けを願ったり感謝したりしています。すると神は実際に私たちの小さな日常茶飯事まで関心をもって眺めておられ、幼子のように素直な心で助けを願い求める者を助けて下さるということを、日々数多く体験するようになりました。神信仰は頭の中だけ、聖堂で祈る時だけのものにして置いてはなりません。こういう小さな日常体験に根ざしたものにする時に、私たちの頂戴している神信仰は、大きく強く成長し始める生き物のようです。ある聖人は、「私はもう神を信じているのではなく、神の働きを見ているのです」と言ったそうですが、この頃の私も、時々同様に感じています。....

2015年7月12日日曜日

説教集B2012年:2012年間第15主日(三ケ日)

第1朗読 アモス書 7章12~15節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 1章3~14節
福音朗読 マルコによる福音書 6章7~13節

   キリストという言葉を幾度も登場させている本日の第二朗読、すなわちエフェソ書の第1章は、キリストにおいて豊かに与えられた恵み故に父なる神を讃える、初代教会の荘厳な讃歌であったと思います。古来多くの聖人賢者たちも、深い感激のうちにこの讃歌を愛唱して来ましたが、私たちもそれに倣って、この素晴らしい信仰の遺産を大切にし、私たちの心が日々その深遠な神信仰と感謝の思想に満たされ養われるように心がけましょう。私たちの神は、毎日そのようにして神とその創造の御業、救いの御業を讃えつつ、大きな喜びの内に感謝と信頼の心で生きる人には、特別に恵み深いように思われます。私はこれまで数十年間の修道生活・司祭生活において、自分が見聞きした数多くの出来事を回顧しつつ、今はそのように確信しています。しかし残念ながら、第二バチカン公会議の頃から急速に発展した現代文明の、黒潮のように巨大なグロバール化、全地球化の流れに巻き込まれ押し流されて、信仰あるカトリック者であっても、日々心の底から喜んで神に感謝の讃歌を捧げている単純素朴な人たちは、非常に少なくなっているようです。主キリスト以来の聖人たちが実践していた、明るい希望と喜びと若さに輝く信仰生活の伝統も、現代のキリスト者たちの中では老化し形骸化して、ふ抜けたものになっているように見えます。残念でなりません。

   そこで本日は、現代の多くの人の心を弱くしていると思われるマイナス面について、ご一緒に少し考えてみたいと思います。私は自分で持たず使っていないのでよく判りませんが、日々頻繁にインターネットや携帯電話を利用している現代人の中には、心がある意味でそれらの文明の機器を通して流入する無数の呼びかけや情報の、言葉は悪いですが、奴隷のようになっている人が少なくないのではないでしょうか。私がまだ南山大学で教えていた十数年前頃に、一部の学生たちの間では、「携帯依存症」や「ネット依存症」という言葉が囁かれていたのを耳にしたことがあります。教室での講義が終わって屋外に出た途端に、いつも携帯電話を取り出し、誰かと話し合うのが習慣的になっているような学生たちも、多く見かけました。
   最近の研究によりますと、そのように頻繁に携帯やインターネットを利用し、依存症のようになっていると、頭の脳の働き方が違って来ることが明らかにされています。私の体験から申しますと、私は子供の頃はソロバンが得意で、大きくなっても足し算・引き算の暗算は比較的速く正しく為していました。ところが、簡便な計算機が普及してそれを利用するようになりましたら、たちまち暗算能力が衰え、働かなくなってしまいました。暗算しようとしても、頭が働いてくれないのです。また長年ワープロで手紙や論文を書いていましたら、昔はよく知っていた漢字も思い出せなくなり、手書きできないことが多くなってしまいました。昔覚えた漢字は皆頭脳の奥に記憶されており、難しい漢字でも読むことはできるのですが、いざそれを書くとなると、頭のシステムが働いてくれず、その漢字を呼び出せないのです。同様のことが、現代文明の利器を日々頻繁に利用している人たちの中でも起こっているのではないでしょうか。

   インターネットは、情報収集や検索などには非常に便利で、現代では必需品だと思います。しかし、人間が造ったその便利さ一辺倒の生活をするのではなく、同時に汗水流して草取りしたり、自然の動植物の世話をしたりして自分の体験から学ぶこと、日々苦労し失敗を重ねて小さな新しい発見をすること、あるいは自分で実際に古い文学書や歴史書などをめくって、こつこつと昔の人たちの業績に苦労しながら学び、自分独自の新しい発見を積み重ねること、自分の頭脳のそういう側面、すなわち自分で苦労や失敗を重ねながら見出し、独自のものを創り上げて行くという能力も、同時に共存させて磨いて行くという二つのことが、大切なのではないでしょうか。私たち人間は皆、二つの足で立って歩くよう創られています。現代文明の利器一つに頼って生活するのではなく、同時の古来の伝統文化や伝統的生き方も大切にしながら、バランスよく生活するよう心がけましょう。

   私たちが日々その恩恵に浴している極度に発達した現代文明も、人間中心の便利さ・豊かさだけを一方的に追い求める偏った傾向が強く、この文明が特に20世紀以来急速に発展して、巨大な海流のようになって世界中に普及しましたら、各種の産業廃棄物や生活廃棄物によって自然環境の汚染が進み、オゾン層の破壊や地球全体の温暖化現象を招いてしまいました。最近では地球環境の秩序や調和を破壊し続けているため、ハリケーンや台風などの規模を大きくしたり、津波・豪雨・竜巻・土砂崩れなどによる自然災害を数多くしつつあるように見えます。神目指して発展上昇しようとしていた古来の精神文化と内的に深く結ばれて、神への従順・人への奉仕愛・事物尊重の清貧愛などに実践的に努め、神と人とのバランス進行に真剣に心掛けないと、全ては人間中心主義に穢れた単なるこの世的流れと化してしまい、やがては神ご自身によって徹底的に崩壊させられてしまうと思います。神信仰と人間の福祉という二つの目標のどちらをもバランスよく大切にしようとしない、このような偏った現代文明の陰には、密かに無数の悪霊が働いているのではないでしょうか。昔には思いもしない凶悪事件が最近多発しているのは、一つにはそのような悪霊が人の心にのり移ったり働きかけたりしているからだと思いますが、同時にあまりにも外的知識や技術に偏った現代文明によって、人の心の教育も心のバランスも等閑にされ、乱れて来ているからだと思います。現代に増えているこの恐ろしいマイナス面を、心に銘記していましょう。


   主は本日の福音の中で弟子たちを宣教に派遣なさるに当たり、かなり厳しい清貧を彼らに命じておられます。アシジの聖フランシスコ程の徹底した清貧愛に生きなくても、一切の無駄使いを賢明に避けて清貧と節制に心掛ける時に、神の霊が私たちの内に生き生きと目覚ましく働き出し、豊かさの内に生きる現代人の心を真の真理へと目覚めさせ悔い改めさせて、神による救いの恵みへと導くことができるのではないでしょうか。溢れる便利さ・豊かさの中で自分の心のバランスが取れなくなり、救いの道を求めて悩んでいる多くの現代人たちのため、またそのような人たちへの宣教使命を担っている宣教者たちのためにも、聖霊による目覚めの恵みと立ち上がりの力とを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年7月5日日曜日

説教集B2012年:2012年間第14主日(三ケ日)

第1朗読 エゼキエル書 2章2~5節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 12章7b~10節
福音朗読 マルコによる福音書 6章1~6節

   本日の第二朗読には、「私は弱い時にこそ強い」という言葉が読まれますが、これは使徒パウロの数多くの体験に基づく確信であったと思われます。現代の私たちの教会も、全てが比較的落ち着いていた昔の時代の教会に比べますと、全地球化時代を迎えて日々激動する世界からの無数の情報が、各人の心を動かし支配しているため、一般社会に流通している多様化・流動化の流れにもまれて、恐ろしいほど一致団結の力を弱めていると思います。しかし、神信仰なしに人間の自力に頼ってもがいている一般社会の考え方や流れに雄々しく抵抗して、神の働きに対する私たち神の僕・婢としての信仰と信頼を若返らせ、揺るがないものとするならば、小さい者ながら私たちも使徒パウロのように、自分の弱さを厭わず、復活の主キリストの来世的命の力に支えられて、強く逞しく生きるように為れるのではないでしょうか。

   恐れてはなりません。全能の神の力は、私たちが数々の弱さの中で、神への信仰と信頼にしっかりと立って希望と勇気に輝いているなら、十分に発揮されるのですから。使徒パウロに倣って、私たちも自分の弱さと行き詰まり状態を「むしろ大いに喜んで」その弱さを誇りとし、ひたすら神に眼を向け、信仰と信頼に励んでいましょう。「キリストの力が」一層豊かに私たちの内に宿り、私たちを助け導いて下さるように。年齢が進んで体力・注意力・記憶力が弱って来ますと、事物をどこかに置き忘れたり、必要な時に名前や番号などを思い出せなかったりすることが多くなりますが、日々幾度も体験するそれらの弱さ・煩わしさも、厭わずに喜んで神から受け取り、主キリストのお苦しみに合わせてお献げ致しましょう。隠れた所から人目に隠れていることを全て御覧になっておられる神は、私たちが信仰の心を込めて為すそのような小さな小さな献げを、喜んでお受け取り下さいます。そして日常茶飯事を幼い子供のような信仰心で捧げる人を、不思議な程助け導いて下さいます。これは、私の長年にわたる体験からの確信であります。

   意図的に少し時代遅れのような生き方をしている私の考えは、現代人にはあまり理解されないかも知れませんが、しかし、時代遅れのこういう特殊な観点に立って私の見聞きしている体験から、現代の若い人たちを陰ながらそっと観察していますと、日々頻繁に携帯やネットを利用している人たちは、ある意味でそれらの機器を通して流入する呼びかけや情報の奴隷のようにされているようだ、と思うことが少なくありません。それらの機器の背後にある目に見えない相手が皆良い人とは限りませんので、文明の利器が犯罪に利用されるケースも多いようです。恐らく一人前の司祭や修道者がそういう犯罪などに巻き込まれることはまずないでしょうが、しかし、外界からの頻繁な呼びかけや問い合わせなどに時間を奪われ、悩まされている司祭・修道者も少しはいるのではないでしょうか。その点、そういう文明の利器を持たない私は、昔の修道者たちのように、自分に与えられている時間を、束縛されずに自由に神と人とに使うことができ、仕合わせであると感じています。

   さらにもう一つ思うことは、日々ネットや携帯に半分束縛されて生活している現代人の中には、それだけ、自然界の動植物にじかに接触して感動したり、苦労して学んだりすることも少ないので、人間理性が勝手に作り上げた半分バーチャルな世界に生きている人が多いのではなかろうか、という不安であります。「誰でもいいから殺して見たかった」などと、大した悪気もなく軽く話す、最近の遊び半分の心で生きているような犯罪者たちの言葉を聞くと、その人たちは、人間を半分バーチャルな世界に生活させる現代文明の利器の犠牲者なのではないのか、と考えさせられます。現実に立脚し苦労して生きている人たちの涙ぐましい心情や、愛する人たちに後事を託して死んで行く人たちの心情などに直に触れて、自分が神から受けているこの貴重な人生の意味などについて考える機会が全く与えられなかったのではないか、と考えさせられます。ネット空間に生きている現代の学生たちが、次々と簡単に卒業論文を仕上げるのを見る時も、この人たちの脳の働きは、インターネットに順応して与えられた資料を巧みに利用することしかできなくなっており、昔の研究者たちのように実際の現実に即して苦しい失敗や観察の苦労を重ねつつ、新しい真理や原理を自分の心で発見する喜びや感激は知らないのではなかろうか、などと考えさせられます。数多くの古典や故人の著作を、何時間もかけてこつこつ読み解く苦労もしていないのではないでしょうか。それでは、現代の文明もやがて巨大な海流だけのような、実際の現実から離れた単なる人工的流れと化してしまい、神を目指した発見も進歩も発展もない無意味なものと化して、遠からず神により内側から崩壊させられてしまうかも知れません。
   本日の福音に述べられている、故郷ナザレの人々から受け入れられなかった主イエスも、察するに同じようなご心配と悲しみを味わっておられたのではないでしょうか。カファルナウムのような外来の商人たちも多く行き来していた国境の町とは違い、当時の先端を行く商工業の営みからは遠く離れた、動きの少ない保守的な田舎町ナザレで神の御子は育ちましたが、神は当時の社会の下積みのような田舎町に、その御独り子が一人前の大人になるまで貧乏暮らしをしながら育ち、ユダヤの一般社会から注目を浴びないようにお計らいになったのだと思います。私の推察ですが、田舎町ナザレでは、聖家族がヘロデ大王の没後にエジプトからお戻りになった頃から、幼児イエスを私生児(テテ無し子)として軽視する風潮があったのではないでしょうか。母のマリアが一人旅をして三カ月程ナザレを留守にして戻って来たら、間もなく妊娠していたことが明らかになって、噂話が囁かれていたと思われる小さな田舎町では、聖家族がエジプトから戻って来てから初めて見たその子の顔が、マリアには似ていてもヨゼフにも似ていないことも、噂の種にされていたと思われます。それで非常に保守的で、外来者の社会的地位が低かったと思われるナザレの町では、聖家族は貧しいよそ者として見降ろされていたのではないでしょうか。

   ところが渡り者の大工ヨゼフの手伝いをしながら、貧しい下層社会で成長したそのイエスが、30歳代になってガリラヤの他の町々では歓迎され、安息日に会堂で説教したり多くの病人を癒す奇跡をなしているという噂が広まったので、そのイエスが弟子たちを連れて安息日に故郷ナザレに来ると、早速会堂で説教してもらいました。会堂に集まっていた町の顔役たちは、自分たちがかつて見下していた学歴のないあの大工が、どんな話をするものか見てみたいという、好奇心と批判の心でその話を聞き始めたことでしょう。しかし、聖書を解説するその知恵とその態度に驚き、いったい彼はどこからその知恵と奇跡を行う力を授かったのか、と騒ぎ始め、「彼は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。その姉妹たちはここで我々と一緒に住んでいるではないか」などと叫びました。ここで「大工」というのは、当時は現代の大工とは違って、頭を下げて仕事をもらい歩く渡り者で、左官屋のような仕事をする社会の下層民の職業でした。また当時は「ヨナの子シモン」などと父親の名をつけて呼ぶのが普通で、「マリアの子」などと母親の名をつけて呼ぶのは、父親不明の私生児を呼ぶ時の軽蔑語とされていました。主イエスはナザレでは子供の時から、そのように軽蔑語で呼ばれていたのだと思います。主に対してそのような軽蔑語が公言されたことを気遣ったのでしょうか、マタイはナザレの人々のその軽蔑語を和らげ、「その母はマリアで」と言い換えています。また「兄弟」「姉妹」とあるのは、当時のユダヤでは広く従兄弟・従姉妹たちをも指していましたので、ここではベトレヘムから移住して来たヨゼフの一族を指していると思います。彼らも皆よそ者でしたから、ナザレでは社会的地位が低かったと思います。それでここでは、主の出身を軽蔑する心でこの言葉が言われたと思います。町で顔を利かしている人たちからこのように公言されたら、もうこの町では誰一人それに反対できないでしょう。


   本日の福音には「人々はイエスに躓いた」とありますが、フランシスコ会訳では、「人々はイエスを理解しようとしなかった」と訳し替えています。これでも良いと思います。社会的上下関係が厳しかった当時のナザレの町は、そのような雰囲気に包まれていたと思われます。そのような所では、何よりも神に従おうとする預言者は何もできません。それで主は、恐らく最下層の貧乏な病人たち数人に手を置いて癒されただけで、他には何も奇跡を為すことがお出来にならなかったのだと思います。神中心に生きようとする信仰心や従順心が、全く見られなかったのですから。今の私たちの社会が、そのような不信仰の社会にならないよう、神の憐れみと恵みを祈り求めましょう。

2015年6月28日日曜日

説教集B2012年:2012年間第13主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 1章13~15、2章23~24節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 8章7、9、13~15節
福音朗読 マルコによる福音書 5章21~43節

   本日の第一朗読には、神は「生かすためにこそ万物をお創りになった」のであって、「命あるものの滅びは」喜ばれません。「滅びをもたらす毒はその中にはなく、」「悪魔のねたみによってこの世に」入って来たのです。ですから、神が「ご自身の本性の似姿として」「不滅な存在として」創造して下さった人間は、その悪魔に抵抗し続けるなら、神と共に永遠に幸せに生きることができますが、悪魔の仲間に属する者になるなら、死を味わうに至るのです、というような旧約時代のユダヤ人たちの人間観が述べられています。その悪魔は極度に多様化し流動化しつつある現代の文明社会の中でも活躍し、多くの人の心を滅びへと導いていると思われます。使徒ヨハネの第一書簡の2章には、主キリストが来臨なさってからの末の世には、反キリストが大勢現れるように述べられているからです。最近の世界情勢は、既にその末の世に入っていることを私たちに示しているのではないでしょうか。私たち被造物に対する神の愛を信じつつ、神に堅く結ばれて生き抜くよう心がけましょう。

   かつての私たちは、数十年間も消費主義的な生活の快適さを享受し、人間が自然を際限なく自由に利用できるかのように思い込んでいました。しかし、地球温暖化による地球規模の気候変動が拡大して来たからなのでしょうか、最近では世界各地で人間の力を遥かに凌ぐ大地震・津波・豪雨・洪水・竜巻などの自然災害が多発するようになり、2004年に大津波が東南アジアを襲撃した頃からは、米国を襲うハリケーンも巨大化して来ているようです。それで、人類総人口の増加や水資源の限界、並びに大森林の激減と砂漠化なども考慮し、将来の人類社会に対する絶望的観測が広まって来ているようです。例えば20093月にオーストラリア南東部で発生した大規模の森林火災は、これまでの自然界では考えられなかった程の異常災害だったようです。火災発生の3週間前には州都メルボルンで気温が46.6度を記録したそうですが、熱せられた強風が夜に風向きを変えると、メルボルン北東の林にある町々で大規模の火災が発生して、200人以上の人が逃げ遅れて命を落とし、数万ヘクタールもの森林が焼失して、無数の家畜や野生動物が焼け死んだそうです。私たちの生活を見守り支えてくれていた大自然界の変動が進むと、想定外のこういう災害は今後も次々と発生するかも知れません。それで一部の人たちは、万物を創造し歴史を導いておられると言われる愛の神はどこにおられるのか、罪のない無数の人々が死ぬのを黙認しておられるのかなどと、恨みの声を挙げているようですが、本日はこの事について少し考えてみましょう。

   私は時間空間の制約の下に置かれているこの世は、言わば過ぎ去る「試しの世」であって、私たちが神の愛に抱かれて永遠に幸せに生きるのは、あの世に行ってからと考えています。使徒パウロも、コリント前書15章に「自然の命の体として蒔かれ、霊的な体に復活する」などと書いていますから。この世の宇宙万物をお創りになった神は、ご自身に似せてお創りになった人間にだけではなく、その他の万物にもそれぞれ自分に与えられた能力に従って生きる大きな自律性を与えておられ、神の特別な愛の発動や神の御計画実現に必要でない限り、通常はなるべく干渉を控えておられるのではないでしょうか。神は被造物を愛して、創造の御業によって各被造物にお与えになった自律性と自由を尊重しておられるからだと思います。人祖の罪によってこの世の被造物界が神に背を向ける苦しみの世に成ってしまっても、神はすぐにその罪の穢れを取り除き、この世を相互愛と調和の世に造り変えようとはなさいません。各被造物が夫々の苦しみから何を学び、どのように苦闘しながら、神がお定めになった終局のあの世的幸せを目指して進むか否かを、じーっと黙して観察しておられるように見えます。神は創造の御業によって、各被造物に夫々その終局目的へと進む、自律的能力をお与えになったのですから。

   時満ちて、神は罪の穢れと不調和に悩むこの苦しみの世に、御独り子を人間として派遣なさいました。「見えない神の姿」(コロサイ1: 15)であられるこの主キリストが、人祖の罪を償い清めて被造物を贖い、終局のあの世的幸せへと救い上げるために。しかし、主の受難死によって人祖の罪は償われても、すぐにはこの世の苦しみや不調和が無くなりませんでした。神は私たち各人がその主キリストがこの世でお示しになった生き方に見習って、自分に与えられる状況や苦しみを受け止め、主と共に神の僕・婢として人祖の罪を償い、神の愛(聖霊)に導かれ生かされて、あの世の幸せへと自由に進むことをお望みのようです。私たちにはそのために必要な力も、神の愛の計らいも十分に与えられています。主は最後の晩餐の席でご自身の肉と血を食べ物・飲み物となして人類にお与えになり、ご自身を記念してこの真に神秘な秘跡を続けることを弟子たちとその後継者たちにお命じになりました。ということは、この秘跡が続けられる限り、あの世の命に復活なされた神の御子は、全く新たな霊的形でこの苦しみの世に受肉し、全ての被造物に呼びかけ、必要な導きと力を世の終りまで提供し続けておられると思われます。その主は、終末的様相が強まって悪霊たちの働きが激しくなると思われるこれからの時代には、これまで以上に私たちの近くに現存して、信仰をもって主に近づき主に助けを祈り求める私たちの歩みを、護り導いて下さると信じます。……


   本日の第二朗読には、「あなた方の現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなた方の欠乏を補うことになるのです」という言葉が読まれます。これは、使徒パウロの数々の体験から滲み出た確信であると思います。パウロはコリント後書4章に、「私たちは生きている間、イエスのために絶えず死に曝されています。死ぬ筈のこの身にイエスの命が現れるために。こうして私たちの内には死が働きますが、あなた方の内には命が働きます」などと書いています。パウロは、洗礼によって霊的に主キリストの体に組み入れられ、その一つ体の一部分・一肢体として戴いている私たちキリスト者は、この世の命に生きながら、内的には既に永遠に死ぬことのないあの世の主キリストの大きな命に包まれて、いわば主キリストを着物のように纏いながら生活しているのであり、その限りでは死に伴われて苦しむことの多い私たちのこの世の苦しみは、主キリストの受難死に参与して人類の他の部分で主のあの世の命を広めるのに大いに役立っている、と信じていたのではないでしょうか。新約の神の民の復活の主キリストの中での、このような内的生命的な連帯性は、現代に生きる私たちも大切にしたいと思います。