2015年10月18日日曜日

説教集B2012年:2012年間第29主日(泰阜のカルメル会)

第1朗読 イザヤ書 53章10~11節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章14~16節
福音朗読 マルコによる福音書 10章35~45節

   毎年十月の最終日曜日の前の日曜日は、84年前の1926年に当時の教皇ピオ11世によって「布教の主日」とされましたが、その伝統が受け継がれて、今日では「世界宣教の日」と改称されています。十月に日曜日が五つある時には「世界宣教の日」は第四日曜日になりますが、今年は四つしかありませんので、第三日曜日である本日が「世界宣教の日」となります。ピオ11世教皇はこの「布教の主日」を制定するに先だって、1925年の聖年にヴァチカン宮殿で盛大な布教博覧会を開催し、宣教師たちを介して収集したカトリック布教地諸国の文化財を数多く展示して欧米人の布教地諸国の文化に対するそれまでの見解を改めさせています。この時展示された文化財はその後ラテラノ博物館に展示されるようになりましたので私も皆拝観していますが、そこに展示されていた日本の文化財の中には、何方が寄進したのか知りませんが、日本の博物館でも見られないような素晴らしく豪華な七重の重箱や豪華な屏風などもありました。またニューギニアから収集された幾つかの民俗学的発掘品も、その後にはもう二つと発見されない貴重な古い生活用品のように見えました。アジア・アフリカの布教地諸国から収集されたこれらの文化財は、今は1970年代に拡大されたヴァチカン博物館に保管されています。それで、ラテラノ博物館は無くなりました。
   ピオ11世教皇は最初の「布教の主日」が祝われた直後の1028日に、御自ら中国人6名を司教に祝聖し、続いてインド人、フィリピン人、韓国人、アフリカ人たちも司教に祝聖しました。これは、それまで西洋人司教たちの統治下でだけ営まれていた布教事業に、新しい風を吹き込む画期的出来事でした。翌271030日には、最初の日本人司教早坂久之助師もローマで長崎司教として祝聖されました。ローマ教皇がこのようにして、先頭に立って布教地諸国の文化や生活様式などに適応する布教活動を推進しましたら、例えば1933年、昭和8年には、奈良の東大寺のすぐ近くの大通りに面して、奈良市役所の斜め前の敷地にフランス人のビリオン神父が、鐘楼を備えた仏教風の木造カトリック教会を献堂したり、昭和10年には、英国人のワード神父が軽井沢で丸太造りの多少神道風の聖パウロ聖堂を献堂するなど、各国でそれまでのカトリック布教とは違う様々の新しい動きが盛んになり、第二次世界大戦とその後の世界の動きによっていろいろと抑圧されましたが、しかしそれなりにかなりの成果をあげて、今日ではアジア・アフリカのカトリック教会は、西洋化し高度に文明化した我が国を別にすれば、かなりしっかりとそれぞれの国の伝統の中に根を下ろしつつあるという印象を受けます。
   ところで、現代文明が極度に発達して全地球化時代・グローバルと言われる時代を迎えている今日では、第二ヴァチカン公会議までの昭和前期とは宣教対象の様相が大きく違って来ています。わが国を含め、先進諸国の人々の文化や考え方が、それまでの伝統的世界観・人生観・人間観・宗教観などから大きく離れて多文化的になって来ており、それに伴って各国の教育内容も、以前とは大きく違って来ていると思います。それため、かつてキリスト教国と言われていた欧米でも、伝統的キリスト教信仰から離れて生活している人が多くなり、再布教・再福音化が必要だなどと叫ばれています。わが国のカトリック教会も、大なり小なり似たような状況に置かれていると思います。グローバル時代の現代では、以前とは違う新しいタイプの宣教活動が神から求められているのではないでしょうか。
   それで、ローマ教皇は昨年の1017日に自発教令『信仰の門』を発布して、第二ヴァチカン公会議開幕50周年の本年1011日から来年の1124日「王であるキリストの祭日」までを「信仰年」と定めて、神との交わりの生活に励むことと、その信仰と愛の生き方を実践的に証ししながら、周辺に住む人々にも広めることを強く勧めておられます。信仰を支え深めるためには、信仰の根本的内容を再発見する研究も必要です。それで教皇は、『カトリック教会のカテキズム』を読むように説いておられますが、しかしすぐに、「どの頁を見ても、そこに示されているのは理論ではなく、教会の中に生きておられる方(すなわち主キリスト)との出会いです。云々」と書いて、信仰の知識を広げることよりも、神に対する信仰と愛のうちに生きること生活することの重要性を説いておられます。今私たちの祝っている「信仰年」も、神に対する信仰と愛をもって生きる生き方をしっかりと身につけさせるために導入された行事だと思います。私たちが主キリストから聖人たちを介して受け継いだ信仰に生きるという伝統を、日々の日常茶飯事の中でどのように生かし証ししているかをこの期間に改めて吟味し、信仰と愛を強化したいものです。
   私は37年前の1975年の秋に、京都の黄檗宗本山万福寺で三日間、厳しい禅宗の生き方を体験させて頂きましたが、そこの禅僧たちは水をなるべく無駄にしないように生活していました。例えば食事の時に各人の使ったお椀などは、最後にお湯と漬物の香香で綺麗にしてその御湯を飲み、各人に与えられている布巾で拭いて包み、その包んだ食器を各人に決められている食器棚に片付けていました。研修に参加していた私たちも、皆そのようにして水を大切に使うことを実践的に学びました。万福寺の禅僧たちが今もそのように生活してか否かは知りませんが、北陸の禅寺永平寺では、今もそのような厳しい清貧生活を続けているそうです。聖書の教えは知らなくても、そこの禅僧たちはその清貧の実践を介して、慈しみ深い全能の神から豊かな祝福と救いの恵みを受けているのではないでしょうか。私たちカトリックの修道者は神に清貧の誓願を宣立していますが、日常生活における清貧の実践は、万福寺や永平寺の禅僧たちに劣っているように思われます。それで私は、30数年前から個人的には人目につかない小さな節水・節電に心がけていますが、すると不思議な程屡々神からの小さな愛の計らいや導きを体験させて頂いています。私たちの神は信仰をもって為す小さな実践を特別の関心を持って見ておられ、それらに豊かに報いて下さる愛の神であると、私は数多くの体験から確信しています。
   この十月には皆様の修道会の二人のテレジアの祝日が祝われましたが、二人とも教会から聖なる教会博士の栄誉を与えられています。しかし二人は、教会の伝統的神学を専門的に研究してその博士号を受けたのではありません。何よりも自分の信仰体験から学んで神の働きや導きについての深い叡智を身につけ、それを伝えることによって非常に多くの人に信仰に生きる喜びをお与えになった聖人、神の豊かな恵みの器・道具となった聖者であります。これまで長年安定していた伝統が次々と弱体化して崩壊しつつある、真に不安な激動の時代に直面している現代の人類も、信仰に生きる実践体験から神の働きや導きについての新たな叡智を身につける人たち、そして神の新しい恵みの器・道具となる聖人たちを数多く必要としていると思います。「信仰年」は、信仰に生きるそのようなキリスト者が一人でも多く世に出ることを願って、定められた行事だと思います。皆様ご存じの話でしょうが、リジューの聖テレジアは宣教師ルーラン神父に宛てた59日の手紙の中で、ゼロという数字の価値について書いています。ゼロはそれだけでは何の価値もありませんが、他の数字の前にではなく後ろに置かれると、大きな価値を持つに至ります。自分を無にしてひたすら宣教師たちのために祈っていたテレジアは、その自分をゼロに譬えて、「あなた達の傍に神が置かれたこの小さなゼロに、皆さんの祝福を送るのを忘れないで下さい」と書いていますが、神に対する信仰と愛の内に自分を徹底的にゼロにして、ひたすら兄弟姉妹への祈りの奉仕に生きる人を、神は現代においても、豊かな恵みの器としてお使い下さると信じます。人間が主導権を握って考え宣教するのではなく、神が人間をご自身の道具・器となして宣教し実を結んで下さることが、現代の人類が一番必要としていることだと思います。

   本日の福音の中で主イエスは、一般社会に流布している支配様式を述べた後に、「しかし、(中略) あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。云々」と、一般社会とは対照的に異なる、全く新しい仕方で教会活動を為すよう命じておられます。同じ主イエスは、現代文明・現代思潮の中に生活している人たちに対する宣教活動においても、一般社会の思想的流れや生き方とは全く異なる、神への従順中心の生き方にまず自分を無にしてしっかりと立つことから始めるよう、強く望んでおられるのではないでしょうか。今東洋・西洋を問わず現代世界の各地で福音の宣教に従事する人たちが、一人でも多く主のこのような御要望を心に深く受け止め、神の霊に導かれ支えられて福音宣教の実績をあげ得るよう、照らしと導きの恵みを祈り求めつつ本日のミサ聖祭を献げましょう。

2015年10月11日日曜日

説教集B2012年:2012年間第28主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 7章7~11節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 4章12~13節
福音朗読 マルコによる福音書 10章17~30節

   本日の第一朗読である知恵の書は、紀元前1世紀に当時のエジプトの首都アレキサンドリアに住むユダヤ人によって執筆されたと考えられています。アレキサンダー大王没後の紀元前4世紀の末以来、エジプトを征服し支配していたギリシャ系のプトレマイオス王朝は、被支配者の人口に比べてギリシャ人の少ないのをカバーするため、隣国のユダヤ人を優遇して大勢エジプトに移住してもらい、軍事面でも行政面でも活躍させていました。それで紀元前1世紀頃には、アレキサンドリアの町の五つの区画のうち、二つはユダヤ人街になっていたと言われています。有能で支配者に対して忠実であったこの頃のエジプト在住ユダヤ人たちは、経済的に豊かであっただけでなく、時間的余裕を利用して既にギリシャ語に翻訳された聖書もよく研究し、高い教養を持つ人たちが少なくなかったと思われます。知恵の書は、そういうユダヤ人によってギリシャ語で書かれたと考えられます。それで、エジプトでは聖書とされていても、ユダヤのラビたちには聖書と見なされていません。ヘブライ語で書かれたものでないからだと思います。

   神よりの智恵は、人間の体験や思索に基づくものではなく、神から直接に授けられるものであります。ですから執筆者は神に祈ったのであり、神から知恵の霊を授けられたのです。この世の金銀・宝石も、またどんな富も、この神よりの智恵に比べれば「無に等しい」と思われるほど貴重なものであります。しかし、本日の朗読個所に読まれる「願うと智恵の霊が訪れた」、「智恵と共にすべての善が私を訪れた。智恵の手の中には量り難い富がある」などの表現から察しますと、神よりの智恵はここでは生きている存在として描かれています。この書の8章や9章には、「智恵は神と親密に交わっており、万物の主に愛されている」だの、「(神の) 玉座の傍らに座している」などの表現も読まれます。知恵の書のこういう言葉を読みますと、コリント前書1章後半に使徒パウロが書いている「召された者にとっては、キリストは神の力、神の智恵である」という信仰の地盤は、ギリシャ人のこの世的智恵との出会いを契機として、すでに旧約末期からユダヤ人信仰者の間に築かれ始めていたように思われます。神の知恵は、生きている人格的存在なのです。

   主イエスも、ギリシャ文化が広まりつつあったユダヤで、「天地の主である父よ、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを智恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(マタイ11:25~26) と祈ったり、弟子たちに「どんな反対者も対抗できず、反駁もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束なさったりして、理知的なこの世の知者・賢者に対する批判的なお言葉を幾つも残しておられますが、最後の晩餐の時には「真理の霊」の派遣を約束なさり、その方が「あなた方を導いて真理を悉く悟らせる。云々」と、その知恵の霊を、神がお与えになる生きる存在として話しておられます。聖書のこの教えに従って、人間のこの世的経験や思索を最高のものとし、神の啓示までも人間の理性だけで批判的に解釈するようなおこがましい態度は固く慎み、聖母マリアの模範に見習って、幼子のように素直に神の智恵、主イエスの命の種を各人の心の畑に受け入れ、その成長をゆっくりと見守りつつ、神の智恵の内に成長するよう心がけましょう。私たちの心は、神より注がれるこの生きる智恵に生かされ信仰実践を積み重ねることによって、神が私たちに伝えようとしておられる信仰の奥義を体験に基づいて悟るのであって、その奥義は、人間理性でどれ程綿密にキリスト教を研究し、その外殻を明らかにしてみても、この世では悟り得ないものだと思います。

   本日の第二朗読でも、第一朗読の「智恵」のように「神の言葉」が人格化されています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、心の思いや考えを見分けることができます」などと述べられていますから。この「神の言葉」は、主イエスを指していると思います。その主は、私たちが日々献げているミサ聖祭の聖体拝領の時、特別に私たち各人の内にお出で下さいます。深い愛と憐れみの御心でお出で下さるのです。三日前から始まった「信仰年」に当たって、神の知恵・神の言葉の内に日々の生活を営むことにより、心の奥底の信仰を実践的に深め強めるように心掛けましょう。それは、たくさん色々なこの世的研究を読んだり聞いたりして、自分の見解を広げ深めるような頭の信仰とは違います。私たちは既に神信仰の成長に必要に基本的情報は、神から全て頂戴しています。今の私たちに必要なのは、その信仰の生命が私たちの奥底の心の中に逞しく成長することなのです。そのためには日々の平凡な茶飯事を、「神が観ておられる」という神現存の信仰の内に、神にお見せする心、神にお献げする心で為すことが大切なのではないでしょうか。

   宮本武蔵が晩年に書いた兵法書『五輪書』が、武蔵の墓所がある熊本にありますが、そこには「観の目強く、見の目弱く」という言葉が読まれます。観は観察の「観」、見は見解の「見」ですが、心で観るのが「観」、肉体の目で見るのが「見」だと思います。私はこの言葉を神の現存信仰の内に観るのが「観」と受け止めて、小さなゴミを拾う時にも、ミサ聖祭を捧げる時にも、神が私のこの行為を観ておられるという信仰の内に為すよう心がけています。すると不思議な程万事が順調に進展するので、神は私のこの小さな行為まで全てを観ておられるのだ、そしてその信仰実践に豊かに報いて下さるのだ、という体験を数多く重ねています。それでこれからの「信仰年」にも、このようにして自分の奥底の心の信仰を実践的に深めたい、と願っています。

   今の日本社会には、戦後の自由主義・個人主義・能力主義の教育を受け、社会に出ても能率主義で競わされる生活を続けて来た人たちの中で、うつ病になっている人が少なくないようです。特に真面目に努力して来た生真面目な性格の人間が、ある時急に全てが恐ろしい程虚しく感じられる虚脱感に襲われ、過激な反社会的行動に走ったりするのだそうです。そういう話を耳にしますと、同様に生真面目人間だった私は、カトリック信仰の恵みに浴し、神様に救って戴いたのだという感謝の念を新たに致します。最近の医者たちの中には、「燃え尽き症候群」という診断を下す例も増えているそうです。全世界的な情報の流れの中で、小さな自分の力で自分中心の生き方を続けていますと、急に自分の夢も意欲も熱情も消えて、深い不安と無力感の内に全てが嫌になってしまう症状のようです。私の知人の娘さんも、親から優秀な能力を頂戴して学校の成績は良かったのに、今はそのようなウツの症状に悩まされているそうですので、私は日々聖母マリアの導き・助けを祈り求めています。自分の力で生きるエネルギーが燃え尽きてしまう所に、原因があるのだと思います。最近自死する人が増えている一つの要因も、そのような自分中心の自力主義の生き方にあるのではないでしょうか。自分に死んで神の僕・婢としての生き方を実践的に身につけるのが、治療の道だと思います。


   本日の福音の中で主は、「なぜ私を善いと言うのか、神お独りの外に善い者はない」と、走り寄り跪いて語りかけた人に答えておられます。私が神学生であった時、同僚の神学生の一人が主のこの言葉を、「私を善いと呼んではならない」という意味で受け止め、主はご自身を神と考えておられなかったのか、と言ったことがありました。その時、一緒にいた指導司祭のドイツ人司祭がすぐに、「あなたの前にいるこの私は神ですよ、という意味で主がおっしゃった言葉で、ご自身が神でないという意味でおっしゃったのではない」と説明して下さいました。その通りだと思います。聖書の言葉は、時々この世の人に間違って受け止められる恐れがありますので、私たちも気をつけましょう。そして何よりも大切なのは、人間理性による聖書解釈の知識よりも神の現存信仰に実践的に生きることだ、ということをしっかりと心に銘記していましょう。福音に登場した金持ちの人も、主のお言葉に従って貧しい人々に大きな施しをなし、主に従って生きる清貧な生活を為していたなら、あの世で永遠にどれ程幸せになったであろうと思うと、真に残念に思われてなりません。清貧に生きることを神に誓って生活している私たちも、「私に従いなさい」という主のお言葉や生き方を、忘れないよう気をつけましょう。27年前に京都の万福寺という黄檗宗本山の禅寺で三日間生活した時に学んだのですが、道元が創建した北陸の永平寺でもこの万福寺でも、由緒ある禅寺では豊かになった現代においても、水などをなるべく節約して生活する昔ながらの厳しい生活を続けています。禅僧たちは、その清貧の実践によって神から祝福され守られているのではないか、という印象を受けました。私たちキリスト教の修道者もその生き方に学び、もっと主キリストの清貧愛を日常生活の中で体現する心がけたいものだと思います。神はそのような信仰に生きる人を愛し、不安の多いこれからの終末時代にも、特別に守り導いて下さると信じます。

2015年10月4日日曜日

説教集B2012年:2012年間第27主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 2章18~24節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 2章9~11節
福音朗読 マルコによる福音書 10章2~16節

   ご存じのように今週の木曜日、1011日から「信仰年」が始まりますので、本日はそれに関連した話をさせて頂きます。60年前の1011日は聖母マリアのMaternitas(母性)の祝日とされていて、少しだけ大きな祝日となっていました。当時は普通の聖人の記念日はSimplexか一段上のSemiduplexの祝日とされていましたが、多くの信徒から特別に崇敬されていた聖ベネディクト修道院長らの記念日は、もう一段高いDuplexの祝日とされていました。しかし、この聖母の母性の祝日はそれよりももう一段高い祝日で、聖母の元后の祝日や聖母の聖心の祝日などと同様、Duplex classisとされていました。聖母被昇天などの大祝日は、Duplex classisでしたから、それに次ぐ祝日としてお祝いされていたのです。それで私が神学生であった頃の神言神学院では、毎年1011日には歌ミサを捧げて少し盛大にお祝いしていました。60年前の教皇ヨハネ23世は、公会議の前頃にイタリアにあるあちこちの聖母巡礼所を訪ねて聖母の導きと助けを願い求めましたが、教会の母であられる聖母の助けで、現代世界に逞しい若々しい教会が生れ出るようにと願いつつ、聖母マリアの母性の祝日に第二ヴァチカン公会議を開会なさいました。

   その公会議は初めは順調に進んで、教会は新しい信仰精神によって初代教会のようになり、もっと身軽に大きく発展し始めるかも知れない、という希望が支配的になりましたが、しかし聖母の働かれる所には悪霊たちの勢力も激しく働いたようで、公会議が初めに意図した教会現代化の動向は、二年目の第二会期の途中からかなり大きく変更されて、当時のプロテスタント諸教会の動きに近づいて行きました。そしてこの会期の10月下旬には、よく準備されていた聖母マリア憲章の議案は、プロテスタントとの間に溝を造る虞があるとの理由から、その議案を取り下げるよう主張する教父たちも増えて来て、1029日に行われた票決では、1,114票対1,074票というわずか40票の差で、聖母憲章の議案は取り下げられ、その内容の一部が教会憲章の最後の章(第八章)に、短く書き改められることになりました。第二ヴァチカン公会議では、殆どすべての票決で進歩派が圧倒的多数で保守派を上回っていましたが、この聖母憲章をめぐる票決の時だけは、二つの勢力が殆ど対等に多寡を競っていました。しかし、聖母憲章が退けられたこの時点から、カトリック教会にはプロテスタント過激派の改革精神が大きくなだれ込んで来て、特に若手の聖職者たちの間では、新約聖書非神話化を説く過激なプロテスタント聖書学者ブルトマンの著書を読んだり、カトリック司祭も牧師たちのように結婚すべきだと主張したり、ロザリオの祈りに反対したりすることが世界的に広まり始めました。当時ローマで公会議の下働きをしていた私は、自分の体験を振り返っても、6310月末が流れの変わり目であったと感じています。

   公会議の会期中はいつもドイツの司教たちに伴なってローマに滞在していた若い神学者ラッツィンガー(今の教皇)も、恐らく同様に感じておられたと思います。公会議の5年後の12月にミュンヘンのラジオ局から、公会議後のカトリック教会について厳しい批判を放送した最初の神学者でしたから。その教皇は、今週から始まる「信仰年」のために出された自発教令『信仰の門』の中で、「キリストと出会う喜びと新たな熱意をますます明らかに示すため」(2)「現代においても、信じることの喜びと、信仰を伝える熱意を再び見出す」(7)ためなどと述べておられます。これらのお言葉は、私たち各人が何よりもまず主キリストと内的に出会う喜びを体得すること、そしてその喜びを隣人たちに伝えることを説いています。これが、これからの信仰年の努力目的だと思います。公会議を招集なさったヨハネ23世は回勅『地上の平和』の後半に、科学技術の目覚ましい進歩にも拘わらず、教会が現代社会の堕落を防げ無かったのは、信仰教育のレベルの低さと信徒使徒職の不在にあった、と嘆いておられます。それで公会議は教会憲章の中程に「第4 信徒について」というかなり長い一章を設け、全てのキリスト者は洗礼によってキリストの司祭職・預言職・王職にも参与しており、教会から宣教師とされて社会に派遣されなくても、自分の信仰生活の証しを通して家庭や社会で地の塩となり、キリストを世の人々に伝えて行く信徒使徒職の使命を与えられていること、主キリストにおいて本質的に信仰の宣教に召されていることを教えています。今の教皇は、私たち各人が主から洗礼によって与えられているこの特別の使命を一層深く自覚して、各人が生活している場で実践的に信仰を深め、信仰に生きる喜びを人々に伝えるようにと、「信仰年」を定めたのだと思います。


   本日の第二朗読は、多くの人を神の愛の共同体の「栄光へと導くために」、死んで下さった主イエスについて教えていますが、神が「彼らの救いの導き手」であられるイエスを、「数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、ふさわしいことであった」とある言葉は、注目に値します。心の奥に自分中心に生きる強い傾きをもっている人の多い今の世で、神中心の来世的愛に忠実に生き抜こうとする人も、主イエスのように多くの人の罪を背負わされ、神から苦しみを与えられることを、教えているのではないでしょうか。しかし、神がお与えになるその試練や苦しみを通して心は鍛えられ、あの世の栄光の共同体に受け入れられるにふさわしい、完全なものに磨き上げられるのだと思います。私たちの心も、その主イエスと同様に苦しみによって鍛えられることにより、キリストの神秘体の一員として留まり続け、死の苦しみの後に、主と共に栄光の冠を受けるのだと信じます。神のお与えになる試練や苦難を嫌がらず、逃げ腰にならないよう心がけましょう。神は私たちを特別に愛しておられるので、時として病気や失敗や誤解などの苦しみをお与えになり、私たちの心をまだ奥底に残っている罪の穢れから浄化し鍛え上げて、主キリストの栄光の内に一層美しく照り輝くようにして下さるのだと信じます。思わぬ苦しみに出あうと、自分のこの世で為した行いだけに眼を向け、理性の考える原因結果の原理を中心にして、どこからこの苦しみが来たのかと理知的に考えたり、他人を疑ったりする人が多いようですが、思わぬ苦しみに襲われた時はすぐに神に心の眼を向け、その苦しみの背後に現存し私たちの心にそっと温かいまなざしを注いでおられる神に、一言感謝の言葉を申し上げましょう。それが、主キリストとの内的一致を深める道だと思います。神は、その苦しみに耐え抜く力も、自分に打ち克つ喜びも与えて下さいます。

2015年9月27日日曜日

説教集B2012年:2012年間第26主日(三ケ日)

第1朗読 民数記 11章25~29節
第2朗読 ヤコブの手紙 5章1~6節
福音朗読 マルコによる福音書 9章38~43、45、47~48節

   本日の第一朗読には、神がモーセに話された後に、モーセに授けられている霊の一部を70人の長老たちにも授けられたこと、そしてモーセと共に主の幕屋に出席していなかった二人の長老にも同じ霊の恵みを授け、この二人も自分の住む宿営で預言状態になったことが述べられています。そのことを聞いたモーセは、「私は主が霊を授けて、主の民全てが預言者になればよいと切望している」と話していますが、各人の考えも価値観も極度に多様化して、家庭でも地域社会でも共同体が内側から分裂する危険性を抱えている、現代の個人主義社会に生きている私たちにとっても、モーセのこの言葉は大切だと思います。私たち各人も、自分の考えや好みなどは二の次にして、預言者たちのように何よりも神のお考えや神のお望みに従って生きるように心掛けましょう。そうすれば、神の霊の導きによって私たちの直面している諸問題が次々と不思議に良く解決されて行くのを、見るようになると信じます。豊かさと自由の支配する現代は、そのような意味での預言者時代だと思います。

   第二朗読は、神を信ずる人たちの間にもいる利己的蓄財に没頭する金持ちたちを、厳しく糾弾した使徒ヤコブの書簡からの引用です。ヤコブはエルサレムの信徒団を統括し指導する初代司教でしたから、ここでは富裕なユダヤ人地主たちを念頭に置いて、警告しているのかも知れません。全ての人の救いに奉仕するキリストの愛の実践に励んでいないと、現代の私たちの教会内にも、貧しい者、弱い者を除け者にする悪習がはびこる虞があると思います。「あなた方は、この終りの時のために宝を蓄えたのでした」という言葉から察しますと、第二朗読にある金持ちたちは、伝統的な各種共同体が豊かさと自由の内に崩壊しつつあった、当時の過渡的社会を巧みにくぐり抜けて儲けをあげ、不安な終末の時のため備えていたのかも知れません。これまでの社会倫理の基盤が、打ち続く激震で液状化現象を起こしているように見える現代世界にも、同様に巧みに大儲けをしている人たちが少なくないことでしょう。殊に近年世界的に広まったネット社会では、自分を隠して相手と交渉したり、金を振り込ませたりすることが容易にできるので、悪魔たちはこの現代文明の利器を各種の詐欺犯罪などに頻繁に利用させているようです。しかし、この世の富を第一にして、そのためには他の人たちを搾取することも厭わない、そのような精神や生き方に、使徒ヤコブは非常に厳しいです。万軍の主なる神は、何よりも助けを必要としている小さな者や弱い者たちの嘆きや叫び声に耳を傾けておられ、その人たちの願いに応じて裁きを行おうとしておられるからです。私たちも気をつけましょう。富める人や能力ある人たちをいつも特別扱いにすることは慎み、何よりも小さな者や弱い者たちの願いを優先しておられる神の御心を、身をもって世に証しするよう心がけましょう。

   本日の福音は、二つの話から構成されています。前半は、主が第二の受難予告に続いて弟子たちに話された教えで、弟子たちが自分たちの団体や組織に属していない人たちを敵視せずに、その人たちが主の御名を使って悪霊を追い出し奇跡をなしているのなら、「私たちの味方」としてその活動を止めさせないようにと命じておられます。このお言葉は、マタイやルカの福音書にも読まれますから、福音記者たちは皆、宗教の世界からわが党主義を排斥しようとなさる、主のこの寛大な御精神を重視していたと思われます。

   教会内も教会外の世界も極度に多様化しつつある現代においては、この教えは大切だと思います。神の驚くほど多様な働きを原理主義的に一つの体系、一つの組織だけに閉じ込め、独占することのないよう気をつけましょう。私たちはカトリック教会の伝統的慣習や生き方を大切にし、それを将来にも残し伝えようと努めていますが、しかし、全人類の救いを望んでおられる神は、私たちの所だけではなく、キリスト教の伝統を全く知らずに、新しい道で救いをたずね求めている無数の異教徒たちにも、キリストによる救いの恵みを分け与えることがおできになりますし、事実、その人たちの信仰に応えて数々の奇跡をなしておられます。心を大きく開いて、教会外のそういう神の働きにも信仰の眼を向け、その人たちの活動を敵視したり悪く言ったりしないよう気をつけましょう。私たちが日々捧げているミサ聖祭の功徳、主キリストによる救いの恵みは、まだ主の御教えを知らずにいるその人たちの所で、私たちの所以上に効果的奇跡的に働くかも知れませんが、そのことで気を悪くすることのないよう心がけましょう。理知的な人たちは、自分の信ずる理論に対する合理的整合性を重視するあまり、人間側の努力や業績中心に神が報酬をお与えになると考えない人たちを嫌うようですが、しかし、私たちは人間の理論や組織などを遥かに越えておられる、神秘な神の御旨と神の働きに従うよう召されているのですから、ファリサイ的原理主義者たちの固い冷たい「石の心」は退け、神の愛に生かされている寛大で温かい「肉の心」を持つように心がけましょう。


   本日の福音の後半は、主を信じる小さな者の一人をも躓かせないようにという教えですが、主は同時に、そのような小さな者を躓かせてしまう心は私たち各人の中にもあることを明言し、この世中心・人間中心に生きようとするその心を、切り捨ててしまうようお命じになります。私たちには素晴らしい永遠の幸福が約束されているのです。あの世のその幸福への道を妨げるものは容赦なく切り捨てて進む、来世的人間の美しい潔さと勇気とを世の人たちに示しつつ、明るい希望に生きるよう努めましょう。神はそのように生きる私たちに時々、挨拶しても見向きもしてくれない冷たい態度の人を派遣なさいます。そのような時、その人の心を詮索したり非難したりせずに、すぐに神の現存に心の眼を向けましょう。その人は、神から自分に派遣された恵みの使者なのです。その人を介して私のすぐ近くにまで来られた神に対する、畏敬の念を新たに致しましょう。まだ完全には神中心に生きていない私の心の片手、片足、片目を切り捨てさせ、そこに新しい愛の片手、片足、片目を産み出させるために、神は時折愛する子らにそのような試練をお与えになるのです。くよくよ心配せずに、潔く神に全てを献げて古い自分に死に、新しい心に生まれ変わりましょう。そうすれば、自分の心の中に復活の主の力が働いて、失った手も足も目も立派に新しいものに生まれ変わり、その試練が自分にとって大きな恵みであったことも、冷たい態度をとっていた人たちがその恵みによって温かい心に変わって行くことも、見ることでしょう。

2015年9月20日日曜日

説教集B2012年:2012年間第25主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 2章12、17~20節
第2朗読 ヤコブの手紙 3章16~4章3節
福音朗読 マルコによる福音書 9章30~37節

   本日の第一朗読には、神に逆らう者が「彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ」などと話していますが、マタイ27章によりますと同様の嘲りの言葉は、十字架上の主イエスに対して、道行く人たちもユダヤ教の祭司や律法学者・長老たちと一緒になって主に浴びせています。全人類の罪、彼らの罪をも背負って、その償いのいけにえとなって極度の苦難を受けておられた主にとっては、真に耐えがたい程の公然の侮辱・嘲笑であったと思われます。豊かさと便利さの中で生まれ育ち、子供の時からこの世的成功や幸せだけを目指す能力主義教育を、家庭でも学校でも受けて来た現代人の中には、自分の成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおう、自分たちの価値観と違う精神で生きている者を見つけたら、皆で嘲笑したり苛めたりして自分たちの一体感や団結心を産み出し固めようとする人たちも、少なからずいるかも知れません。最近の子供たちの間に陰湿な「苛め」が広まっていることをマスコミで知り、昔にも小さな一時的苛めは小学校時代にも中学校時代にも耳にしていましたが、現代の子供たちは、それよりももっと酷い苛めが長く継続するような状況に置かれているのではないか、と不安になりました。

   実は私の従兄弟の長女も、20年程前の女学生時代に酷い集団的苛めに悩まされ、担任の先生は親身になってその苛めの解消に努めてくれたようですが、数年間も精神医の世話になる程の病気を患いました。従兄弟は大阪の建築会社に勤めていたので奈良県に立派な自宅を建て、その次女は毛利元就の子孫と結婚して立派な生活を営んでいますが、小学・中学時代には優等生であった長女は、病気のためか結婚せずに親元で生活し、3年程前に死去しました。集団的苛めによって子供の心がこれ程にまで傷めつけられるのかと思うと、苛めを受けて自殺した子供をはじめ、そのような体験を持つ多くの子供たちのことも心配になります。私から受洗し日ごろ親しくしている名古屋のある女性が、数日前に私の所に訪ねて来た時に聞いたのですが、その人の孫娘で、私もその三歳頃からよく知っている二十歳代の女の人が、未だに定職に就けずアルバイトで生活していること、そして小学・中学時代に苛めで5回も学校を変更したことを知って、マスコミでは報道されていませんが、現代には子供時代に受けた苛めのため、人並に幸せな人生を営むことができずに苦しんでいる人が多いのではなかろうか、と思うようになりました。主はそのような社会の隅に隠れている罪を償うためにも死なれたのだと思います。

   現代には視野の狭い利己的精神や人生観に囚われている心の人が少なくないようですが、そのような人たちも、誤った教育の犠牲者、正しい心の教育の欠如から数多く生み出された犠牲者だと思います。2千年前頃の豊かなギリシャ・ローマ文明の中で生まれ育った人々の中にも、そのような視野の狭い利己的人間、わが党主義の人間が、社会の中にはびこっていたのかも知れません。救い主は、貧しい者、弱い者、助けを必要としている者たちを社会的に抑圧し、苦しめて止まないそういう人たちの無数の罪を背負って償うためにも、天の御父神からあれ程大きな苦難を与えられ、それらによく耐えて人類救済の御業を達成なされたのだと思います。その背後には、心の教育の歪みや欠如に対する、万物の創り主であられる全知全能の神の激しい怒りと憤りの御心があるのではないでしょうか。

   「我に従え」という救い主の御言葉を受けて、主に従う信仰生活を営んでいる私たちも、視野の狭い利己的精神の蔓延している現代世界に対する神の御怒りに対する、恐れの心を失わないよう心がけましょう。神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、全ての人、全ての存在は神中心に永遠に幸せに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いて、そういうこの世的精神の人々の所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時をお遣わしになるかも知れません。覚悟していましょう。


   第二朗読の中で使徒ヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのは、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まずは徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。本日の福音には、「全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」という主のお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神から派遣された救い主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる無信仰の一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉も心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰を大切に致しましょう。助けを必要としているこの世の小さい者・貧しい者・悩んでいる者の内に現存しておられる神との、そのような出遭いと愛の奉仕は、私たちにとって大きな恵みの時でもあると思います。

2015年9月13日日曜日

説教集B2012年:2012年間第24主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 50章5~9a節
第2朗読 ヤコブの手紙 2章14~18節
福音朗読 マルコによる福音書 8章27~35節

   バビロン捕囚とその直後頃の預言書である第二イザヤ書には42章、49章、50章、52章から53章と、「主の僕の歌」と言われている美しい詩文が四つ読まれますが、本日の第一朗読は、そのうちの第三の歌からの引用であります。第二イザヤ書に登場するこの「神の僕」が誰であるかについては、旧約時代には大きな謎でした。しかし、メシアの受難死が現実となってみますと、それらは全て何よりもメシアのことを預言したものとあるという解釈が、新約時代のキリスト教会内に定着しました。

   「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、云々」と続く長い独り言は、ご受難の時の救い主イエスのご心情についての預言であると思います。感謝の心で主のお言葉に耳を傾けると共に、本日の朗読箇所に二度登場する「主なる神が助けて下さる」というお言葉も、心に銘記しましょう。私たちはそのような耐え難い苦難に直面すると、自分の弱さや自分の力の限界にだけ目を向け、もうダメだと思い勝ちですが、主イエスはそのような絶望的苦難の時にこそ、何よりも全能の父なる神の現存と助けに心の眼を向け、第一朗読にありますように、「私の正しさを認めて下さる方は近くにいます」と心に言い聞かせて、天の父なる神のその時その時の助けに支えられつつ、受ける苦しみを一つ一つ耐え忍んでおられたのではないでしょうか。主は本日の福音の中でもペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責しておられます。何よりもまず、神の御旨をたずね求めてそれに従おうと努める、このような信仰心のある所に神の力が働いて、人間の力では不可能なことも可能にしてくれます。いつの日か死の苦しみを迎える時、主のこの御模範に倣い、主と一致してその苦しみを多くの人の救いのために献げるように致しましょう。

   2年前にNHKが「無縁社会」という題で放映した番組によりますと、わが国では誰からも看取られずに、社会の片隅でひっそりと亡くなって行く人たちが増えており、その数は年間32千人を超えているそうです。戦後の自由主義・個人主義教育を受けて育ち、何でも各人の思いのままに自由に利用しながら生活できる豊かな現代文明の中に生活する人が多くなりますと、伝統的な血縁・地縁・社縁の共同体的絆がズタズタにされて弱められ、多くの弱者や老人たちが孤独に追いやられて、孤独死・無縁死を迎える人が多くなったのだと思います。その原因は、現代の資本主義企業が競うようにしてモノを大量に生産し、低価格で提供して人々の生活を便利・快適にしたことが、家庭や学校、職場や社会の仕組みを個人主義中心に変革したからだ、とされているそうです。伝統的な奉仕の助け合い制度を根底から崩壊させたり、あるいは自分の生活に不都合な妊娠であれば、中絶によって孕んだ胎児を殺したりするような現代人の個人主義に対して、宇宙万物の創り主であられる愛の神は、いつまでもそのまま黙認しておられないと思います。わが国での妊娠中絶は年間20万にも達するそうですから、遠からず神からの厳しい天罰を覚悟していなければならないかも知れません。

   本日の第二朗読であるヤコブ書は、様々の具体例をあげて神に対する信仰と愛に基づく行いの重要性を教えていますが、本日の箇所に読まれる、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は大切だと思います。ただ聖書を研究するだけ、あるいは聖堂で祈るだけのファリサイ的な頭の信仰に留まっていてはなりません。それは、神から戴いた言葉の種や神の愛の火を、心の奥に蓋をしてしまい込んで置くようなもので、やがて神のその言葉に込められている命も火も消えてしまいます。神よりの命は、実生活に生かしてこそ心に根を張り、成長して実を結ぶのであり、愛の火も、日々小刻みに実践を積み重ねることによって、次第に輝き始めるのだと思います。その実りや輝きを期待しつつ、隠れた所からそっと私たちを見ておられる、神の現存に対する信仰の内に決心を新たにつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。

   本日の福音では、「それでは、あなた方は私を何者だと言うのか」という主のお言葉に、ペトロが「あなたはメシアです」と答えると、主は「御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」と述べられているだけですが、マルコと違って実際にその場にいたと思われるマタイによりますと、主はペトロに、「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間ではなく、天におられる私の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。よみの国の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは天上でも繋がれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」とペトロを褒め、ペトロに大きな権限を約束なされてから、弟子たちに御自分がメシアであることを誰にも話さないようにとお命じになっています。これが事実だと思います。しかし、そのすぐ後で、主の受難死の予告をそのまま素直に受け止めようとしなかったペトロに対して主は、本日の福音にもあるように、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、弟子たちの前で厳しくお叱りになったのです。


   主から「あなたに天の国の鍵を授ける」と約束されたペトロは、神の国の最後の勝利を確信しており、主に自分の一生も命も捧げて従って行こうと、心に堅く決めていたでしょうが、しかしその頭の中には、それまで人々から聞いていた人間的な聖書解釈やメシア像が支配していて、神秘な神のご計画などは毛頭知らずにいたと思います。従ってその人間的な考えを中心にして、大きな善意の内に主にひと言おいさめ申し上げようとしたのだと思います。私たちも気を付けましょう。2千年前のキリスト時代と同様、いや恐らくはそれ以上に現代は人類史の大きな過渡期を迎えていると思います。神はこのような過渡期には、人々の聖書解釈とは違う全く新しい働き方をなさるかも知れません。例えば多くの信者はローマ・カトリック教会は世の終りまでこのまま続くと信じているかも知れませんが、神はその教会に主キリストの受難死にも似た、恐ろしい恥と苦しみをお与えになり、これまでの教会の罪や人類の無数の罪の償いをお求めになるかも知れません。躓かないように気を付けましょう。聖母マリアと一致して、ひたすら天の御父の御旨に従って忍耐と祈りの内に生き抜き、救いに達するよう今から心を堅めていましょう。

2015年9月6日日曜日

説教集B2012年:2012年間第23主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 35章4~7a節第2朗読 ヤコブの手紙 2章1~5節福音朗読 マルコによる福音書 7章31~3節


   本日の第一朗読には、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」という預言者の言葉が読まれますが、心の教育が大きく乱れて立ち遅れているため、現代世界にはかつてなかった程の規模で犯罪が多発したり、それが国際的に普及したりしているようです。昔の保守的ドイツ人宣教師たちの感化を受けて育った私は、これ程多くの異常な犯罪発生の背後には、無数の悪魔が策動しているのではないかと考えています。恐ろしい犯罪や各種の悲惨なテロ事件は、これからも多発し続けるかも知れません。神がお創りになった大自然界の大小全ての能力や可能性を次々と発見し、人間中心に利用することに意欲的であった現代文明社会の地盤は最近液状化現象を起こし、神を無視する社会の地盤に潜んでいたものが続々と表面に現れて来るからです。そこに地球温暖化が進むと、今の私たちには想像できない程の深刻な自然災害が、これからの人類社会を絶望的状態に追い込むかも知れません。

   余談になりますが、ちょうど百年前の1912年に東京神田の下町で職人の家に生れた福田恒存という人は、そこで身に着いた職人気質と庶民の良識を大切にし、東大で英文学を学ぶと「生の哲学」に関心を寄せて、人間の非合理的な生命の力を直視し、当時の知識人たちの論理的な発想や考えにはいつも批判的であったそうです。それで戦争中は、戦争指導者やその政治にすり寄る知識人たちを嫌い、東大出ではありましたが社会の要職に着こうとせずに、自宅の庭で防空壕掘りなどをしていたそうです。そして戦後は劇団「雲」や「襷」を統率し、劇作家・評論家として目覚ましい活躍をしています。この福田恒存は、日本人庶民の伝統的良識の立場から、西洋文化にかぶれた知識人たちの人間理性中心論理の不完全性を鋭く批判して退け、絶対者の働きや導きに従う心と、人間の自主的努力との両方をバランスよく生かす生き方を説いています。それはちょうど旧約時代の預言者たちが、その時代の社会に流行していた人間的思考の立場でだけものを考えずに、歴史を支配し統合しておられる神の御摂理にも同時に心を向けながら、物事を判断しようとしていたのに似ていると思います。想定外の不穏な事件や災害が次々と発生すると思われるこれからの時代に賢明に生きるにも、江戸庶民の伝統的良識に根ざした、福田恒存のバランスの取れた両面的考え方、生き方が必要なのではないでしょうか。

   前述した、預言者を介して語られた神のお言葉を心に銘記し、どんな事態をも恐れずに、雄々しく生き抜く心を堅めていましょう。この世の社会や生活が不安で危険になればなる程ますます真剣に神に縋り、神に信頼と希望をもって祈るよう努めましょう。社会を内的に堕落させるような恐ろしい嵐に抵抗することは誰にとっても嫌ですが、嫌がって逃げ腰になっていると悪の勢力につけ込む隙を与えます。神の力に頼って雄々しく立ち向かおうとすると、神から私たち各人の心の奥底に与えられている本当の勇気が、目覚めて働き出します。神はそのような勇気と信仰と希望を堅持している人たちをご覧になると、その人たちを介して力強く働いて下さいます。神の御言葉に対するこの信仰を堅持して、前向きに希望をもって力強く生き抜きましょう。


   本日の第二朗読はヤコブ書からの引用ですが、ヤコブ書の122節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけの人になってはなりません」という言葉があり、これがヤコブ書全体のテーマになっている、と申しても過言ではないと思います。本日の朗読箇所も一つの具体例をあげて、人をその外的服装などから差別扱いをしないよう、厳しく警告しています。神が私たちから求めておられるのは、福音の御言葉を受け入れて心に保つだけではなく、その御言葉に従って生きる実践であります。種蒔きの譬え話から明らかなように、主の御言葉は種であります。その種が心の畑に根を張って、豊かな実を結ぶようにする実践が何よりも大切だと思います。しかし、ここで気をつけたいことがあります。それは、私たちが主導権を取り自分の考えや望みに従って、その種に実を結ばせようとしてはならない、ということです。使徒パウロはコリント前書3章に、「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」と書いています。神がなさる救いの御業に協力し仕える姿勢を堅持しながら、人々の心の中での神の働き、神の命の御言葉の成長に下から奉仕し、温かい心でその豊かな実りを祈り求める実践に励みましょう。