2009年1月25日日曜日

説教集B年: 2006年1月22日、年間第3主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヨナ 3: 1~5, 10. Ⅱ. コリント前 7: 29~31.
Ⅲ. マルコ福音 1: 14~20.
① 本日の第一朗読であるヨナの預言書については、そこに描かれている話は歴史的事実ではなく、単なる作り話ではないのか、と考える人が多いと思います。当然だと思います。大きな魚の腹に三日間入れられてから吐き出されただの、ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかっただの、国王が人にも家畜にも食べること飲むことを禁じた、などの事実とは思われないことが幾つも書かれているのですから。しかし、主イエスはマタイ12章やルカ11章などに、「ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」だの、「ここに、ヨナに勝るものがある」などと、ヨナの話が単なる作り話ではないかのように話しておられますし、カトリック教会の伝統も主のこのお言葉を重視しているようですので、聖書の他の箇所にも幾つかのとんでもない誇張や誤りがあるように、ヨナ書にもそのような人間的不完全があることを容認した上で、ここではヨナが大きな魚の腹に三日間入っていた奇跡を含めて、ヨナが実際にニネベで説教し、ニネベの人たちが改心して天罰を免れたことを、一応事実として信じる立場で、聖書を受け止めたいと思います。
② 私たちが神の大いなる御業や御威光に触れる道は、二つあると思います。一つは神の怒りにおいて、もう一つは神の救いにおいてです。神の恐ろしい怒りを体験したヨナの心は、神による全く奇跡的救いを体験して、どんな困難や迫害も恐れずにニネベで説教する気になったのではないでしょうか。ニネベの都では神の言葉に従って大胆に、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫び続けました。人々がそれを信じても信じなくても、それは彼にとって問題ではなかったと思います。ただ神の語られた言葉を、そのまま住民に伝えようとしていたのではないでしょうか。私たちはよく結果を問題にし、こんなことを話したら、人々からどう思われるだろうかなどと心配し勝ちですが、一番大切なことは神の言葉に従う実践であって、その行為の結果ではないと思います。神がその行為の結果について責任を負って下さるのですから。ヨナの説教を聞いたニネベの人たちは、国王をはじめとして皆改心に励み、ヨナの告げた天罰を回避することができたようですが、その時ヨナはすでにニネベにはおらず、人々から感謝されることも、あるいは逆に「お前はでたらめを言いふらしたのではないか」などと、疑われることもなかったと思われます。
③ 本日の第二朗読の出典であるコリント前書7章は、新約聖書の中で最も詳しく結婚問題について扱っていますが、パウロはその中で、信仰に生きる人たちの結婚不解消については主の命令として強調しています。しかし、信仰をもっていない配偶者が信者との離婚を望むなら、離れて行くままにさせなさいと勧め、これは「主ではなく、私が言います」と、このような場合の離婚を認めています。また結婚者は「結婚のきずなによって奴隷として縛られているのではありません」と書き、信仰者は主によって代価を払って買い取られたキリストの奴隷ですから、「人間の奴隷となってはいけません」などとも書いて、結婚したい人は結婚してよいですが、結婚のきずなをキリストとの一致のきずな以上のものに絶対化しないよう警告しています。パウロはその後で、ただ今ここで朗読された言葉を書いているのです。これらの言葉から察すると、独身者であるパウロは、結婚生活の価値をあまり高く評価していないような印象を受けます。
④ しかし私は、結婚生活は確かにこの世に生きている間だけの過ぎ去る生活形態ですが、利己的に生まれついている人間の心に献身的奉仕の愛を目覚めさせ、逞しく成熟させる一つの真に貴重な手段であると思い、結婚生活を高く評価しています。主キリストもご自身を「花婿」と称して、私たち救いの恵みに浴している人類から「花嫁」としての献身的愛を期待しておられるのではないでしょうか。独身の生き方を選んでいる私たち修道者も、日々の茶飯事の中で主キリストに対する細やかな愛と配慮を表明することに、結婚者に負けないよう励みましょう。申命記6章には、「あなたは心をこめ、魂をこめ、力を尽くしてあなたの神を愛せよ」「家にいる時も、道を歩く時も、寝る時も、起きている時もこれについて語れ」という神の命令が読まれます。神は私たちから、そのような絶えざる愛の表明を求めておられるのではないでしょうか。使徒パウロもエフェソ5章では、「教会がキリストに仕えるように、妻も夫に仕えるべきです」などと、キリストと教会との関係を夫婦の関係になぞらえて、夫も自分の体のように妻を愛すべきことを強調していますが、パウロもやはり、夫婦の愛の関係を、主に対する愛の観点から高く評価しているのだと思います。
⑤ 本日の福音は、ガリラヤでの主の神の国宣教と最初の弟子4人の召し出しについての話ですが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は、主の宣教内容を最も短く要約していると思います。以前にも皆さんに話したことですが、「時は満ち」という言葉は、単に神があらかじめ予定しておられた時が来たという意味だけではなく、この世の人類社会も満ち潮の時の砂浜海岸のように流動化して、人々がそれまで定着していた伝統的価値観や上下関係などから自由になって、新しく考え、新しく生き始めることができるようになっていることも意味していると思います。また「悔い改める」という言葉は、何か自分が人々に対してなした悪い行為、あるいは自分の欠点などを反省して改めようとすることではなく、もっと根本的に自分の心構えや生き方を変革すること、特に神の国が近づいたという神による新しい事態に適切に対応するよう、自分の心を準備し整えることを意味していると思います。人類社会の流動化は、今日では2千年前のキリスト時代に比べて遥かに大規模に進行しており、各種の社会的伝統もその拘束力を失って、内面から崩壊しつつあります。「時は満ちた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の呼びかけを、現代の私たちは2千年前の人たち以上に真摯に受け止め、神の国に対する自分の命をかけた受け入れ態勢の実践的確立に努めるべきなのではないでしょうか。
⑥ シモン・ペトロとその弟アンデレ、ならびに彼らの漁師仲間ヤコブとヨハネの兄弟は、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の招きを受けると、すぐに主の御後について行きました。ペトロとアンデレについては、「網を捨てて従った」と邦訳されていますが、網を放棄してしまったのではなく、のちにもその網を使って漁をしていますから、「網をそこに置いて」とか「そこに残して」と訳すべき言葉だと思います。原文では同じ動詞なのに、ヤコブとヨハネの場合には「舟に残して」と訳し変えています。この後者の訳の方が適切だと思います。現代の私たちに対しても、主は思わぬ時全く唐突に、困っている人や苦しんでいる人を介して何かをお求めになることがあります。そのような時、私たちは自分の今なしている仕事をそこに置いて、すぐに主のお求めに従うことができるでしょうか。何をなす時も、内的にはいつも主の御前に、時々主の方に心を向けながらなすように心がけましょう。自分の夫を深く愛している妻は、いつもそのような心で家事にいそしんでいると思います。私たちも、それに負けないよう努めましょう。なお、毎年1月18日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。全世界の教会はキリスト者の一致のために祈りを捧げており、私たちもこの一週間、毎日そのために祈っていますが、本日のミサは、例年のようにすべてのキリスト者の一致のため、神に照らしと導きの恵みを祈りつつお捧げしたいと思います。一緒に祈りましょう。ご協力をお願い致します。

2009年1月4日日曜日

説教集B年: 2006年1月8日、主の公現 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
 Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.

① イザヤ書の56章から最後の66章までは、エルサレムに帰国した民に向かって語った第三イザヤの預言とされていますが、第二イザヤの預言に励まされ、大きな夢と希望を抱いてバビロンから帰国した神の民は、エルサレムの荒廃のひどさに極度の落胆を覚えたと思われます。それに対して第三イザヤは、本日の第一朗読に読まれるように、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と、今は荒廃しているその地に神の民を照らす主の栄光が輝き出ると、多くの国民がエルサレム目指してやって来るようになるという、遠い将来を予見した預言を語り、神の民を励ましています。
② この預言は、2千年前のアウグストゥス皇帝の時代にシルクロード貿易が盛んになると実現しており、ある意味では現代にも現実となっている、と言うことができましょう。預言の言葉は、東方の博士たちの来訪のことだけを念頭に置いて大げさに表現したものではなく、キリスト時代のエルサレムとその神殿の繁栄ぶりを、予告したものではないかと思います。当時は遠いアジア諸国とオリエント諸国との間にらくだの隊商が往復しており、それらの国際的貿易商たちは、ギリシャの天才的建築師ニカノールによって見事に増改築されたエルサレム神殿にも、大勢拝みに来ていたのですから。本日の第一朗読の後で歌われた答唱詩篇には、「タルシスと島々の王は贈り物を、シバとセバの王はみつぎを納める」という、詩篇72番から引用された句がありますが、これはソロモン王の時代のエルサレムの繁栄ぶりを讃えた言葉で、タルシスはその頃フェニキア人の商船がツロの港から往来しいた一番遠い国、今のスペインの南端辺りの国を指しており、シバは「シバの女王」が支配していたアラビア半島南西部の国を指しています。そしてセバは、そのシバの西南、紅海の海峡を挟んで西側にあった国と聞いています。いずれもソロモンの時代に国際貿易によって豊かになっていた国ですが、キリスト時代には、海路によって結ばれていた地中海沿岸諸国の富だけではなく、陸路によって結ばれたインドや西アジア諸国の富までも、国際貿易商を介して流入したのですから、エルサレムとその神殿の繁栄ぶりは見事なものであったと思われます。
③ 本日の第二朗読の中で「秘められた計画」と言われているのは、キリストの受肉・受難死・復活によって成し遂げられた救いの御業全体を指していると思いますが、中でも使徒パウロが書いているように、「異邦人が福音によりキリスト・イエスにおいて、(神から) 約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となること」は、それまでの神の民にとっては誰一人想像することもできないほど、驚天動地の驚きと新しさを感じさせる神の御業だったと思われます。神はその救いの御業を、今や聖霊によって使徒たちや預言者たちに啓示し悟らせつつ、実際に全人類の上に広め定着させつつあるのです。現代の私たちも、民族や文化の違いを超えて、すなわちある意味では自分の民族や文化の限界から抜け出て、太祖アブラハムをはじめ多くの預言者たちを介してなされた神からの約束を素直に受け継ぎ、キリストの一つの体、一つの命に参与する細胞となるよう心がけましょう。各人の受け継いでいる相異なる諸民族の血液や諸文化の伝統は、この一つの共同の命の中で互いに一層親密に出会うようになり、切磋琢磨しながら神によって磨かれ、無数の美しい花を咲かせ、神を讃美するようになるのではないでしょうか。
④ 本日の福音の始めには「ヘロデ王の時代に」とありますが、それは大規模な国際的経済発展の中で、それまでの時代の社会的伝統や仕来たりなどが時代遅れの束縛と見做されて、守られなくなっていた一つの大きな過渡期を指しています。ですから、伝統的社会秩序がよく保たれていた通常の平穏な時代でしたら、とてもユダヤ人の王などには成れないイドゥマイヤ人のヘロデが、巧みにローマの権力者たちに取り入って、ローマ軍に征服されたユダヤの国王になったばかりでなく、数々の新しい経済政策によって大いに儲け、エルサレム神殿を美しく増改築したり、各地に大きな施設や宮殿などを建築したりして、ユダヤ人たちからも「大王」と呼ばれたほど、大きな繁栄をユダヤ社会にもたらすことができたのです。
⑤ 私たちの生きている現代世界も、ある意味ではよく似た過渡期の繁栄を謳歌しているのではないでしょうか。科学文明の極度の発達で生活が便利で豊かになったのは結構ですが、能力主義・個人主義の普及でそれまでの各種共同体の連帯精神も統制力も崩壊しつつあるのに、人類が新しい事態に見合った強力な統合精神を生み出せずにいるため、ただ外的に一つの巨大なマンモス家族、グローバル世界になりつつあるだけで、その陰には無数の貧困に苦しむ人たちも産み出されつつあり、家庭も国家も統制力を大きく失って、人間は皆砂漠の砂粒のようにバラバラになって来ているようにも見えます。多くの若者たちは、日々人間たちの造り出す仮想の現実を真の現実と思いこみ、浮き草のようにその流れに疲れた身を委ね勝ちですが、テレビ・ラジオ・新聞などを介して伝えられる情報は皆、今目立っている現実の一面を示しているだけで、多面的な現実そのものではありません。ですから、ちょうど天気予報と異なる気象異変がしばしば発生するように、いつその情報と異なる事態が発生するか分からないという不安を、いつもその中に秘めています。このことを心に銘記し、磐のような神の存在にしっかりと根ざした信仰の内に、主体的に生きるよう努めましょう。砂粒のようにバラバラになっている人々の心にマスコミが日々提供する大量の新しい水が浸透すると、場合によっては長年安定していた人と人との結びつきも流動化し、そこに群発地震のようなものが発生すると、その上に建つ組織はひび割れや倒壊の危険にさらされると思います。このような時代における世渡りには、神との心の結束が何よりも大切ではないでしょうか。
⑥ 本日の福音の中心をなしているのは、ヘロデ王でも東方の博士たちでもなく、この世に来臨した神の子メシアです。このメシアの来臨が、ヘロデ王のようなこの世の富や権力の獲得保持を第一にして生きている人間には、心に深刻な不安を与えるのであり、その支配下にあって何とか旨い汁を吸いながら生きていたユダヤ教の指導者たちは、ヘロデ王の怒りや嫌疑を買うことのないようにと、生まれたばかりのメシアには無関心を装います。しかし、そういうこの世の流れからは自由になって、ひたすら人類の救い主を待望し、メシア中心に生きようとしていた人たちは、東方の博士たちのように、あるいはマリアとヨゼフ、ベトレヘムの羊飼いたちや老シメオンたちのように、幼子のメシアに会って心が大きな喜びに満たされ、恵みから恵みへと導かれ高められて行きます。しかし、この生き方にも不安がないわけではありません。ヘロデ王のような人間は、自分の利害のためには東方の博士たちのような善人をも巧みに利用しようとしたり、あるいは罪のない幼子たちを残酷に殺害することも厭わないからです。でも、神の導きを祈り求めつつその導きに従おうと努めているなら、神はヘロデ王やユダヤ教指導者のような人たちをも使って、神による救いの御業が実現する方へと導いてくださいます。場合によっては、博士たちや聖家族たちが体験したように、夢で知らせを与えて様々な危険から救い出してくださいます。
⑦ 本日の福音に登場しているヘロデ王、ユダヤ教指導者たち、東方の博士たちの三種類の人々のうち、私たちはどのグループに属しているでしょうか。もし第三の博士たちのグループに属しているなら、騒々しい現代世界の中でも人々の心に語りかけて止まない神の神秘な導きを鋭敏に受け止め、それに聞き従うことができるよう、日々信仰と愛のセンスを磨いていましょう。多くの聖人たちの実例から明らかなように、神は信仰のセンスを磨いている人の心には確かに呼びかけ、その人を導いてくださいますから。

2009年1月1日木曜日

説教集B年: 2006年1月1日、神の母聖マリアの祭日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
 Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

① 皆様、新年おめでとうございます。元日に清さを尊ぶのはわが国の尊い慣習ですが、しかし、神が何よりも望んでおられるのは、私たちの内的聖(きよ)さだと思います。この世の真・善・美という価値観とは違って、それは神の愛に美しく輝いているあの世的聖さを指していると思います。ミサの中で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を讃えるとき、私たちは神の愛のその美しい輝きと聖さを讃美し、崇め尊ぶのではないでしょうか。私たちの人生も神の恵みによってそのような内的聖さに輝くものとなるよう願いつつ、神に対する希望と信頼のうちに、本日のミサをお捧げ致しましょう。
② 聖母マリアを「神の母」として崇め、その取次ぎや御保護を願って神に祈ることは、古代ローマ帝国によるキリスト者迫害が激しくなった3世紀の末か、遅くとも4世紀初頭のディオクレチアヌス帝による迫害の頃から広まっており、キリスト者たちがその時ギリシャ語やラテン語で唱えていた短い祈りは、その後の教会にも受け継がれていて、カトリック中央協議会編集の『公教会祈祷文』にも入っています。近年はあまり唱えられなくなっているようですが、私が学生であったときにはよく唱えていましたので、皆様もご存じだと思います。文語体の終業の祈です。「天主の聖母の御保護によりすがり奉る。いと尊く祝せられ給う童貞、必要なる時に呼ばわるを軽んじ給わず、かえってすべての危うきより、常にわれらを救い給え。アーメン」と邦訳されています。
③ どれ程多くの人が、この祈りを唱えることによって神による助けを体験したか分かりません。その感謝のためなのか、ローマ中心部のフォーロ・ロマーノの一角に迫害後に建てられた小聖堂の跡地には、昔この祈りが刻まれた石壁も残っていました。しかし、キリスト教迫害が終わって信仰の教理を人間理性で合理的に解説しようとしたアリウス派の人たちが、「マリアは人間イエスの母ではあるが、神の母ではない。神の母と呼んではならない」などと言い出したら、多くの信徒が強く反対し、431年にエフェソの聖母聖堂で開催されたエフェソ公会議により、聖母を「神の母」と宣言する教義が確立されました。マリアは神を産んだのではありませんが、イエスは人間であると同時に神であり、母子関係はパーソン同志の関係なので、「神の母」として崇めることもできるからです。本日の第二朗読で使徒パウロは、神がその御子を女から生まれた者としてお遣わしになったのは、「私たちを神の子となさるためでした。あなた方が (神の) 子であることは、神がアッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実から分かります」と述べていますが、天の御父が、マリアからお生まれになった神人キリストの霊的いのちに私たちが参与して、神を「父よ」と呼ぶ神の子になることをお望みなのなら、同じ主キリストとの生命的一致のうちに、マリアを私たちの母として崇め尊ぶこともお望みなのではないでしょうか。
④ 事実、そのように受け止めて聖母崇敬に努めてみますと、不思議に神の御保護や助けと思われることを数多く体験するようになります。これは単に今の時代に始まったことではなく、4世紀以来それを証ししている例が歴史上に数多く残っており、聖母に対する感謝の心で建立された聖堂や巡礼所、ならびに聖母の祝日も、古代・中世を通じて現代に至るまで数多く残っています。それで、プロテスタントにも賛同し易いようにと、最初の草案を大きく書き改めた第二ヴァチカン公会議の教会憲章第8章にも、二度も「カトリック」という言葉を「カトリックの諸学派」、「カトリックの教理」という形で使いながら、「真の信仰は神の母の卓越性を認めるように我々を導き、我らの母を子どもとして愛し、母の徳を模倣するように我々を励ますのである」などと、伝統的聖母崇敬が細かく擁護されています。
⑤ 本日の福音は羊飼いたちの幼子イエス礼拝の話ですが、これについては昨年も、また一週間前にも皆様と一緒に黙想しましたので、本日は、第二ヴァチカン公会議後の1968年の新年に教皇パウロ6世が全世界で平和のために祈ることを呼びかけた時以来、カトリック教会で元日が「世界平和の日」とされていることに思いを馳せ、現代世界の平和を脅かしている諸原因のうち、一番深く隠れている基本的精神態度について、ご一緒に考えてみたいと思います。ご存じかも知れませんが、現教皇は昨年の4月に教皇に選出される直前の、まだ枢機卿であられた4月1日にスビアコの聖スコラスティカ修道院で、現代の西洋文化の根底を厳しく批判し、それが危機的状況にあることを指摘した講話をなさいました。一部のイスラム過激派のテロ活動が、その西洋文化の世界的広まりに対する反発である側面も否定できませんし、その文化が今後も世界各地に平和を抑圧する個人主義的、あるいはわが党主義的精神態度を広め、定着させる虞が大きいと思いますので、現代世界は正に危機的状況に揺らいでいると思います。
⑥ その時のラッツィンゲル枢機卿の豊富な話を短く要約するよりも、その一端を世界平和と関連させながら、私の言葉でごく簡単にまた自由に紹介してみましょう。ヨーロッパで始まったものでないキリスト教は、本来「ロゴス」の宗教で、神に向かって開かれている人間の信仰と知性を啓発する特性を豊かに保持するためか、ヨーロッパでは知的文化の発展に大きく貢献し、特別な意味でヨーロッパと一体化しましたが、ルネサンス時代以来、ヨーロッパはそこから科学的合理主義を発達させて、大陸と大陸、文化と文化との出会いをもたらし、やがてその技術文化を全世界に深く浸透させつつ、ある意味で世界を均一化させるようになりました。しかし、こうして世界的に広まった合理主義的西洋文化は、伝統の異なる諸宗教・諸文化をすべて同列に扱って同一の原則で統合し、各々を自由に平和共存させるために、人間の理性と経験を最高基準とする新しい啓蒙主義を普及させ、理性では立証できない神の存在や神信仰を、各人の主観的選択の領域に追いやって、神を信ずる人も信じない人も平等に自由に生活できるよう、実証主義によって合理的に発達させて来た現実の啓蒙主義的法制国家や政治の統制下に置くようになってしまいました。
⑦ 旧来の多種多様の思想・文化・宗教などを皆、一つの新しい共通理念の下に平等に統合し管理しようとすると、当然その啓蒙主義的理念以外の絶対主義は排除され、すべては相対的な価値しか持たなくなります。何ものもそれ自体では善でも悪でもなく、すべては個々の行為から生み出される、あるいは予測される結果によって実証的に善悪評価されるのです。ちょうど薬の善悪を判断するときのように。欧州連合(EU)の欧州憲法の中では、キリスト教会の権利は保証され保護されていますが、キリスト教の信仰や信仰生活は、もはやヨーロッパ人の精神基盤の領域では居場所がなくなっており、神を信じたい人は自由に信じてよいが、その神を信じていない人も一緒にいる学校や社会の場では、他の人たちの自由を妨げないよう言行を慎んで、皆と同様に行動してもらいたいと求められるようになってしまいます。イスラム教徒たちは、自らの絶対主義的神信仰とその信仰実践を冷笑的に扱うこの世俗的啓蒙主義文化が今や欧米人の共通理念となって、すべての人の自由と平等を「人間の権利」として表明しつつ、世界的に普及しつつあることに大きな危機感を抱いていると思います。そのような精神基盤が支配的になっているEUにトルコが加盟した場合、経済的には豊かに発展し始めるでしょうが、精神的にはEU諸国の社会に複雑な対立をかもし出すか、あるいはトルコが一つの世俗国家になって行くことでしょう。
⑧ 正に同じ理由で西洋のキリスト教も、現代技術文化の豊かさの中で、次第に枯れ死んだ根っこのようになって行く虞があります。理知的思考の啓蒙主義哲学は意識的に自らの歴史的宗教的な根源を捨て去り、その根元から湧き出る再生の力に心を閉ざすのですし、神は公的生活や国家の精神基盤から完全に排除されつつあるのですから。しかし、すべての人間を神の愛する被造物、神の似姿と考え、神への畏敬と神と人への奉仕を説く宗教から心の糧を受けなくなるなら、教育は技術的理解や能力の伝授だけと化して、心の欲を制御する各個人の力は極度に衰え、法規は次第に守られなくなって、自由は放縦と化して行くことでしょう。そしてすでに各地で激増しつつあるように、テロや詐欺や暴行などが頻繁に横行するようになり、世界の平和も大きく乱されるに到ることでしょう。
⑨ 蛮族の侵攻で西ローマ帝国が滅んだ後、その瓦礫の中から新しいキリスト教世界を打ち立てる力を再生させた聖ベネディクトのような人を、現代の私たちも新たに必要としているのではないでしょうか。彼は、アブラハムのように多くの国民の精神的父となりました。その会則の最後に述べられている修道士たちへの勧告は、私たちに危機と廃墟を乗り越えて天に至る道の指針を与えています。枢機卿はこう述べた後に、その会則第72章から引用して講話の結びとしています。「人を神から引き離して地獄に導く熱意があると同様に、人を悪徳から引き離して神と永遠の命に導くよき熱意がある。修道士が最も熱烈な愛をもって発揮すべきは、この熱意である。云々」という言葉であります。新しい年の始めに当たり、幼子イエスを胸に抱きつつ、人類救済のための祈りと熱意を心に燃やしておられたと推察される聖母マリアの取次ぎを願いつつ、私たちも同じ愛の熱意に生きる決心を固め、世界の真の平和のために神の祝福と助けを祈り求めましょう。
⑩ 使徒パウロは、神から離れてこの世の楽しみいっぱいの生活を営んでいる人たちの多いローマ社会に住んでいた信徒団に向けて、「あなた方は、この世に見倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御旨か、何が善で神に喜ばれるかをわきまえるようにしなさい」(ローマ 12:2)と勧めていますが、この勧めは、今の世に生きる私たちにとっても大切だと思います。この世では神の御旨を第一にして、清貧に生活しておられた聖家族の模範に見倣って、私たちも世の救いのため、また世界平和のために、自分の日々の営みや苦しみを献げるように心がけましょう。

2008年12月28日日曜日

説教集B年: 2005年12月28日、年聖家族の祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヘブライ 11: 8, 11~12, 17~19.
 Ⅱ. ルカ福音 2: 22~40.

① 神の御子イエスを中心とする聖家族を特別に崇敬することによって自分たちの家族精神を浄化しよう、その精神の上に神の恵みを祈り求めようとする信心は、一部の地方ですでに17世紀に始まり、人間中心の合理主義的啓蒙主義が18世紀にヨーロッパ各地で盛んになり、それまでの家族の温かい結束が乱され始めると次第に広まったようですが、教皇レオ13世は1893年に任意の祝日として定め、推奨しています。その後第一次世界大戦によってヨーロッパ社会の伝統が崩壊し、民衆の力で新しい社会を築こうとする機運が高まり、共産主義やその他の思想が広まり始めると、教皇ベネディクト15世は1921年にローマ教会の典礼に導入し、それ以来全世界のカトリック教会で祝われるようになりました。その時は1月6日の主の公現祭後の最初の日曜日に祝われていましたが、1969年の典礼暦改定後は主の降誕祭後の主日に祝われることになりました。ただし、今年の場合のように降誕祭が日曜日と重なり、年末までに日曜日がないときは、12月30日に祝われることになっています。その場合には主日ではないので、朗読聖書は二つだけとなります。
② 本日の第一朗読は、典礼の上では創世記15章から選ぶことも、ヘブライ書11章から選ぶこともできますが、このミサではヘブライ書から朗読してもらうことにしました。ヘブライ書11章は、「信仰とは、希望していることの保証、見えないものの確信です」「信仰によって私たちは、この世界が言葉によって創造されたこと、したがって、見えるものは現われ出ているものから生じたのではないことを知っています」という言葉で始まって、アベル以来の旧約時代の信仰の模範を列挙しています。本日の朗読箇所は、そのうちのアブラハム関係の所からの引用です。神の声を聞いたアブラハムは、その声が自分を実際に幸せに導くものであるかを確かめようとして従ったのではなく、自分に語りかけてくださった神の愛に信頼し、これからの旅の行き先も知らず、自分の将来に何があるのかも知らずに出発したのでした。神の招きの声に従って人生の旅を続けているうちに、神はアブラハムのその信仰実践に応えて、次々と遠い将来に、自分の子孫だけではなく全人類に与えられる大きな祝福を約束してくださいました。しかし、それがいつどのようにして実現するのかは、人間の側からは全く知る由もありませんでした。人間理性にとってはすべてが深い闇に包まれていて、限りなく不安な人生であったかも知れません。
③ でも、こうして神からの約束、神から与えられる夢のような祝福をひたすら信じ希望して、日々の労苦を神に捧げつつ生活しているうちに、アブラハムの心は次第に、自分が目に見えない神から特別に愛され、いつも神に見守られ伴われていることを、数多くの体験から確信するに至ったのではないでしょうか。神に信頼し切って生きているアブラハムのこの骨太信仰に感化されて、妻サラも甥のロトも神の御旨中心主義の生き方を次第に体得するに到り、一族はどんな試練に出遭っても堅く団結し、その試練を乗り越えることができたのではないでしょうか。カトリック教会が聖家族の祝日の聖書朗読にヘブライ書のこの箇所を選んだのは、家族の成員の団結も一致も本当の幸せも、各人が神の愛に信頼し、神の導きに従うことを万事に優先させることから生まれることを教えていると思います。聖母マリアも聖ヨゼフも、そして成長して自主的判断ができるようになった主イエスも、いずれも父なる神の人類救済の御旨に従うことを万事に優先し、そのためその日その時の神の導きに従うことに努めていたと思われます。私たちの修道家族の団結と一致と幸せも、各人がこの一事に励むか否かにかかっていると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の福音は、生後40日目の幼子イエスの神殿奉献の話ですが、律法に従って男子の初子を神に献げるため、聖母マリアと聖ヨゼフがエルサレム神殿に連れて来たら、エルサレムに住んでいた信仰の厚いシメオンという老預言者が、聖霊に導かれてちょうどその時神殿の境内に入って来て、その幼子がメシアであることを悟り、両腕に抱かせてもらって神を讃えたこと、神殿で夜も昼も神に仕えていた84歳の女預言者アンナも、その子がメシアであることを看破して神を讃え、救い主を待ち望んでいた人たちにこの幼子について話したことに、注目したいと思います。ここで聖書に「初子」とあるのを取り上げて、「初子」と言うからには、マリアはその後も子供を産んだのではないか、などと主張した人がいたそうですが、ユダヤ社会ではそんな意見は通用しません。一人っ子であっても「初子」と言いますから。日本でも「初孫が生まれた」といってお祝いしても、その後にも孫が生まれたとは限らないのと同様です。ついでながら、「イエスの兄弟」という言葉もユダヤ社会では広い意味で使われており、ヨゼフの兄弟姉妹の子供たち、すなわちイエスの従兄弟姉妹をも指しています。
⑤ さて、死を間近にした高齢のため、日々メシアを待望しながら祈りと断食に専念していたと思われる預言者シメオンとアンナは、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などからは離れて、精神的には神の民全体を自分の家族として愛し、生活するようになっていたのではないでしょうか。そして神から預言者たちを通してその神の民に約束されていたメシア到来の時は近づいていたので、死ぬ前にできればひと目神から派遣されたメシアに会いたいと願いつつ、祈りに励んでいたのではないでしょうか。エルサレムに住む二人の預言者は、当時の世俗化しているユダヤ教指導者たちが預言者的精神に欠けていること、しかし年毎にエルサレム神殿に来る巡礼団の中に、神の霊に生かされていない無力なユダヤ教の実態に満足できず、ひたすら神による救いを待ち望む願いが高まっていることを、鋭く感知していたと推察されます。シメオンが幼子イエスを胸に抱きながら神に申し上げた祈りと母のマリアに語った言葉とは、日ごろ預言者の心に去来していたそのような願いや心配などを反映していると思います。しかし、預言者たちは問題の多いその神の民を自分の家族として愛し、神が万民のために備えてくださったメシアがこの神の民の中に生まれ出ることで、この家族の中から異邦人を照らす啓示の光が輝き、それが神の民イスラエルの誉れになることも予見していたと思われます。
⑥ この推測が正鵠を得ているとしますと、二人の預言者に神の民全体との家族的連帯感を与え、祈りのうちに日々その連帯感や結束を強めていたものは、太祖アブラハムの場合と同様、神の啓示や働きに対する信頼、従順と愛と言ってよいでしょう。私たち修道者も、こうして歳が進んでみますと、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などは超越して、一緒に生活している修道家族に対する愛着が深まっていることでしょうが、しかしその段階に留まってしまわずに、主キリストと一致してもっと大きく神の民全体、人類全体のための家族的連帯精神にも成長すべきなのではないでしょうか。すべての家族的精神、家族的愛の源は神にあると思います。日々その神に祈っている私たちは、救い主の全人類的家族愛にも成長するよう心がけましょう。子供の心が悩み苦しめば苦しむほど、その子を愛する親や教師たちは一層愛に燃えると言います。現代の教会、また現代の人類が数々の問題を抱えて悩み苦しめば苦しむほど、私たちも主キリストと一致して、まずは祈りによる献身的愛の奉仕に努めましょう。その恵みを願いつつ、聖家族を崇め記念する本日のミサ聖祭を献げましょう。

2008年12月25日木曜日

説教集B年: 2005年12月25日、年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 52: 7~10.  Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
 Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

① 本日の第二朗読は、「神はかつて預言者たちによって、多くのかたちでまた多くのしかたで先祖に語られたが、この終りの時代には、御子によって私たちに語られた」という言葉で始まっていますが、ここでは、2千年前の神の子メシアの来臨が、すでにこの世の終末時代の始まりであることが教えられていると思います。マタイ福音書3章やルカ福音書3章で悔い改めを説いた洗礼者ヨハネの厳しい説教も、終末時代の到来を示しています。しかし、聖書によると、終末は神による恐るべき審判の時であると同時に、神による被造物世界の徹底的浄化刷新の時、救いの時を意味しており、それは、人となられた神の御子とその御子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、ゆっくりと実現するもの、長い準備期や成長期・変動期などを経てから実現するもののようです。ちょうど受難死と復活によって短時日のうちに完成したメシアによる救いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い生命的準備期・成長期・活動期などを基盤としているように。
② 聖書が、神の子メシアのこの世への来臨によってすでに終末時代が始まったとしていることは、注目に値します。本日の朗読箇所にある「神は、この御子を万物の相続者と定め、」「御子は神の栄光の反映、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」などの言葉を読みますと、私たちの生活しているこの病的な世界は、メシアの受肉によって根底からしっかりと神の御手に握られており、すでにゆっくりと栄光の世へと持ち上げられつつあり、その過程で発生する無数の善悪闘争や悲劇は、根の深い病気が癒される過程で生ずる各種の症状や痛みのようなものと考えても良いのではないでしょうか。救い主の復活のすぐ前に恐ろしい受難死があったように、この終末時代の終りにも、神により最後の恐ろしい苦難と試練が予定されているかも知れません。神の力によってそれらの試練に耐え抜くことができるよう、今から覚悟を堅め、心を整えていましょう。
③ 本日の福音は、この世に来臨した神の子メシアの本質が何であるかを教えています。それによると、赤貧のうちに無力な幼子の姿でお生まれになったメシアは、実はこの世界が存在する前から永遠に存在しておられる神であり、万物を創造した全能の神の御言葉、すべての人を生かす神の御命、すべての人を照らす神の光なのです。私たち人間が互いに話し合っている言葉とは違って、父なる神の発する言葉には、私たちの想像を絶する巨大な力と光が込められているのだと思います。この神の御言葉は、三位一体の神の共同体的愛の交わり中では永遠に力強く燃え輝いている光ですが、その神に背を向け目をつむる暗闇の霊とその支配下にある人々には理解されず、その暗闇に覆い包まれ、その勢力下に置かれて罪の世に呻吟している人々を救うために、神の御言葉は己を無にして本来の力と光を隠し、か弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中で、深く身を隠して臨在しておられるその神を、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのではないでしょうか。私たちの恐るべき終末の審判は、目に見えないながらすでに始まっていると考えるべきだと思います。
④ 神を無視し、何よりも自分の自由、自分の考えや望み・計画などを中心にして生きている人は、温かい世話を必要としている小さなか弱い存在、貧しい者の来訪を喜ばず、足手まといとして嫌がることでしょう。しかし、小さな者のかげに隠れて伴っておられる神は、万物の創造主、絶対の所有者で、私たちに何事にも神のため、神中心に生きるよう求めておられること、ならびに「私はねたみの神である」「どんな偶像も造ってはならない。それらに仕えてはならない」と厳しくお命じになったことを忘れてはなりません。神が「偶像に仕えてはならない」という言葉で禁じておられるのは、未開民族の間に広まっていた木や石で造った神々の像を崇めることよりも、現代人にも多く見られる、自分の富・名誉・社会的地位等々、万物の創造神以外のものを神のように崇め尊ぶ生き方を指していると思います。私たちも、そのような偶像を崇めることのないよう心細かに気をつけましょう。そのため、何よりもまず神の隠れた臨在に心の眼を向け、小さいものを大切になさる神に仕えよう、神のお望みに従おうと心がけましょう。そうすれば、思わぬとき、思わぬ形での神の隠れた来訪にも適切に対応することができ、ますます豊かに神の恵みに養われ、栄光から栄光へと次第に高く導かれて行くのを体験することでしょう。
⑤ 日本語の「いのち」という言葉の「い」は語源的に息を、「ち」は力を指していると聞きます。太古の日本人は「いのち」を「息の力」と表現して、息のなくなることを死と考え、外的には真にはかなく見える息の中に、神秘な神の力を感じていたのではないでしょうか。黒潮のように巨大な現代の国際化・流動化の流れにより、世界中の諸国諸民族の伝統的道徳も価値観も社会組織も根底から突き崩され押し流されて、社会全体がますます暗い不安な霧の中に呑み込まれて行くように覚える終末期には、これまで生活の拠り所として来たものすべてが、真に頼りなく感じられるかも知れません。そのような世界的混沌時代には、社会や国家が形成され発展する以前の、神の護りと導きを願い求めつつ一日一日を生きていた原初の単純な人々の心に立ち帰り、隠れてこの世に現存しておられる神の息吹の力に生かされ、導かれようと心がけることが大切だと思います。
⑥ 「私は世の終りまであなた方とともにいる」とおっしゃった全能の神の御言葉、神の子の受肉は、霊的に今もなお続いている現実です。神の御言葉は、忽ち色あせて過ぎ去る木の葉のような人間の言葉とは違って永遠に残るものであり、私たちの生活に伴っていて、事ある毎に私たちの前に密かに現われてくる生きている神秘な存在だと思います。多くの人はそれを見ても、それと気づかずにいるのではないでしょうか。神の子の臨在を感知するには、花や鳥や四季の移り変わりなどに感動する詩人や画家たちのような、鋭敏な心のセンスが必要だと思います。神の働きの微妙な動きを感知し、心を開いてその恵みを受け止める信仰も、一種の芸術的センスだと思いますから。私たちがそのような「心の信仰」に生き、神の力と御保護とを豊かに受けることができるよう照らしと導きとを願いつつ、神の子の来臨に感謝する本日の「感謝の祭儀」を献げましょう。

2008年12月24日水曜日

説教集B年: 2005年12月24日、年降誕祭夜中のミサ (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 9: 1~3, 5~6.  Ⅱ. テトス後 2: 11~14.
 Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の後半に恐ろしいアッシリアの支配下に置かれ、絶望的な闇の状態に置かれているガリラヤの民が、大きな希望の光を見るに至ることを預言しています。紀元8世紀に破竹の勢いでオリエント諸国を征服し、サマリアをも征服して、エルサレムを襲撃する気配を示していた凶暴なアッシリア帝国の大軍を、神の救う力に頼っている預言者イザヤは少しも恐れずに、神がその支配を粉砕してくださることを予見し、ただ今朗読された神の言葉を書きました。「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者たち」とあるのは、そのすぐ前に「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とありますから、アッシリアの支配下に呻吟しているガリラヤの人々を指していると思います。神は「彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を」すべて折ってくださるのです。かつて士師ギデオンが、侵攻して来たミディアン人たちを打ち破った時のように。
② ここで預言者イザヤの予見は、間もなくアッシリアの支配から解放されたガリラヤの民衆から離れて、悪魔の支配下にあって、罪と死の内的暗闇の中で呻吟している無数の人々、全人類にまで思いを馳せ、その人々のために神から派遣された一人の男の子が生まれることを預言します。神の権威がその肩にあって、その子はやがて「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と崇められ、その王座と王国、また平和は永遠に続くこと、万軍の主であられる神がこれを成し遂げられるのであることも、預言します。ガリラヤの民をアッシリアの支配から解放して下さった神は、この男の子によって全人類を悪魔の支配、罪と死の闇から解放して下さることを預言しているのだと思います。イザヤが預言したこの男の子が、2千年余り前にベトレヘムで誕生なされた救い主イエスであります。
③ 今宵のミサで、私たちはその男の子の誕生を祝いますが、それは2千年前の出来事の単なる記念ではありません。この世の万物を時間空間の枠組みの中に創造なされた全能の神は、被造物であるその枠組みの外で全存在の中に現存し、それらの存在を支えておられる方であります。その神が、この世の時間空間を超越しているその世界から神のロゴス、神の御独り子を人間となして派遣なされた受肉の神秘は、特定の歴史的時間空間の中に生じたという意味では歴史的事実ですが、歴史的要素と永遠的要素とを含んでいて、単なる歴史的出来事ではありません。19世紀の著名なデンマーク人のプロテスタント神学者キェルケゴールは、こういう出来事を「絶対的事実」と呼んで、歴史的探究からはイエスが神であるという結論は導き出せないとしても、神からの啓示を素直に受け止める各人の心の信仰、心の意志によって、その歴史的不確実性は乗り越えることができるので、神の啓示を信ずる人には、その出来事は「今ここに」確実に現存する事実となるのである、と説いています。
④ カトリック教会もこの教説を受容しています。第二ヴァチカン公会議後に導入された第四奉献文には、聖変化の直後に「聖なる父よ、私たちは今ここに贖いの記念をともに行って、云々」という祈りがあります。ここで「今ここに」の言葉を入れたのは、時間空間の制約を超えて実際に現存する神の絶対的事実を想起させるためであると思います。本日私たちも、信仰によって幼子イエスが霊的に私たちの心の内にお生まれになり、現存してくださることを堅く信じましょう。12月16日までの待降節はメシアの再臨を待望しつつ救いを願う典礼になっています、と申しましたが、待降節最後の一週間は、同じ救い主の私たちの心の中での霊的誕生のために、心を準備し整えるための典礼と申してもよいと思います。今宵の聖体拝領のとき、聖母マリア、聖ヨゼフと共に神の御子を感謝の心で迎え入れ、慎んで深く礼拝し致しましょう。粗末な私たち各人の心は、いわばその幼子を迎え入れるまぐさ桶のようなものかもしれませんが、救い主はどんな所をも厭わずにお出でくださるのですから。
⑤ 本日の第二朗読では、「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れ出ました」という言葉に続いて、その恵みが私たちにどうするようにと希望し教えているかが、述べられています。そして最後に、「キリストが私たちのために御自身を捧げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」とありますが、主が私たちの中にお生まれ下さったその目的について、少し考えてみましょう。「贖い出す」という言葉は日本人にはなじみ薄い言葉ですが、それは奴隷状態から解放することを意味しています。罪と死の闇の中に生まれ育った私たちは、不安と苦しみの絶えないこの不条理の世にあって嘆くことはあっても、自分が奴隷状態に置かれていることを自覚していません。しかし、神からの啓示によると、これが神が初めに意図された私たちの本来あるべき姿、あるべき状態ではないのです。小さな儚い存在である朝露でも、朝日に照らされるとダイヤモンドのように美しく輝くように、私たち人間の眼も顔も、神の愛を反映して喜びと感謝に美しく輝いているはずなのに、現実がそうでないのは、心の奥底がまだ神に背を向けていて神中心に生きようとしておらず、そこに自我中心主義が居座り続けているからではないでしょうか。
⑥ 神の子は私たちの心を、罪に穢れたその自我への奴隷状態から解放するために、か弱い幼子の姿で私たち各人の心の中に生まれて下さるのだと思います。私たち自身も、救い主の力によって自分の中の古い自我に死に、幼子のように素直な心で神中心に生きる決意を堅めながら、主の御聖体を拝領し、主の御降誕に感謝致しましょう。私たちは今の世の奴隷状態から完全に救い出されてみて初めて、救いとは何か、神が初めに意図された人間とはどういう存在であるのかを、はっきりと知るに至るのです。それまでは幾度神の恵みに浴しても信仰の闇は続くでしょうが、しかし、神の御子はすでにこの闇の世にお出でくださっているのですから、その現存を信じつつ、希望のうちに日々その神の御子と共に生きるよう努めましょう。
⑦ 今宵のミサの福音に登場するベトレヘムの羊飼いたちは、天使から救い主誕生の知らせを受けると、すぐに話し合ってから、急いでお生まれになった神の子を拝みに行きましたが、彼らのその対応について少し考えてみましょう。遊牧民の生活の現場で神の声を聞き、神に希望をかけながら信仰と愛と感謝に生きていた太祖アブラハムたちの時代と違って、社会形態も宗教形態も大きく発展し、人々が皆子供の時から神殿の境内や会堂でファリサイ派の教師たちから律法順守の教育を受け、神殿礼拝や会堂礼拝に参加しながら安息日を厳守しているような時代には、昔ながらのアブラハム的生活を続けていた羊飼いたちは、社会の人々から見下げられ、まだ誰の私有地にもされていない、町や村から離れた草地を経巡りながら羊の群れを世話するという、非常に苦しい生活を営んでいたと思われます。羊の群れは絶えず保護し世話しなければならない生きている財産・生きている生活の糧ですから、その生活の場から遠く離れて会堂礼拝などに参加することはできません。羊を襲う狼や盗人たちも出没していた時ですから、親が干草を集めたり羊毛を売ったりする仕事に忙しい時には、子供も羊の群れを監視してくれる大事な働き手です。羊が一頭迷い出ても病気になっても、貧しい一家にとっては困るのです。子供に宗教教育を受けさせることはできません。あるラビは、「羊飼いほど罪に沈んでいる職業はない。彼らが貧しいのは、律法を守らないからだ」と言ったそうですが、当時の社会形態・宗教形態の下では、律法を守りたくても守れず、ひたすら忍従しながら生きるのが、羊飼いたちの生活実態であったと思われます。
⑧ それだけに、彼らは互いに助け合い励まし合って、日々の生活の場で一心に神による保護と救いを祈り、羊の群れと家族と隣人に対する愛一筋に生きることで、あらゆる苦しみに耐えていたのではないでしょうか。当時の社会の最下層にあって、最も熱心に神による救いを祈り求めていたその羊飼いたちに、神の天使は真っ先に救い主誕生の知らせを告げたのでした。おそらく真夜中ごろの出来事でしょうから、彼らは交互に睡眠をとりながら、共同で羊の群れを守っていたのだと思います。天使と天の大軍による壮大な讃美を目撃した後、彼らは相談し合って、寝ている羊の群れをそのまま交互に監視しながら、交代で生まれたばかりの救い主を拝みに行ったのではないでしょうか。天使から彼らに与えられた「乳飲み子」という印は、同時に神ご自身、救い主ご自身でもありました。彼らは、聖母と聖ヨゼフに次いで、最初にその救い主を、人となられた神をじかに眺めて拝む栄誉に浴した人々であります。彼らは同時に、天の大軍による壮大なクリスマス讃美についての福音を、聖母と聖ヨゼフをはじめ、その後も出会う人々に語り伝えた最初の福音伝道者でもあったと思います。しかし、彼らはその後も会堂礼拝などには参加せず、自分たちの生活の場で一層大きな希望と感謝のうちに神を讃え、神信仰に生き続けていたと思います。これが、神から喜ばれる新約時代の生き方なのではないでしょうか。
⑨ すでに諸外国で問題になっているように、ミサを捧げる司祭数の激減のため、これまでの伝統的教会形態は、将来大きな改変を余儀なくされるかも知れません。しかし、日曜・大祝日などにミサに出席しないからと、その信徒の信仰を疑ったり見下げたりするようなことは固く慎みましょう。何よりも太祖アブラハムのように、自分の生活の場で神の働き、神の導きに心を向け、神と人への奉仕の愛に生きるよう努めましょう。神はベトレヘムの羊飼いたちを介して、私たちにもその生き方を求めておられると思います。

2008年12月21日日曜日

説教集B年: 2005年12月18日、年待降節第4主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ.サムエル下 7: 1~5, 8b~12, 14a, 16. Ⅱ. ローマ 16: 25~27.
Ⅲ. ルカ福音 1: 26~38.

① 本日の第一朗読は、神の助けにより周辺の敵をすべて退けて、平安のうちに王宮に住むようになったダビデ王が、神の臨在する契約の箱が昔ながらの素朴な天幕の中に置かれたままなのを心配し、預言者ナタンに相談した話から始まっています。自分の住む王宮よりも立派な神殿を建立すべきではないのか、と考えたようです。ナタンも同様に考えたのか、王に「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と答えました。するとその夜、ナタンに臨んだ神の言葉が、本日の朗読の後半部分です。神はそこでダビデを「私の僕」と呼び、ダビデとその子孫、ならびにその王国のため、遠大な祝福の約束を披露なさいました。ダビデが死んでもその身から出る「子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。私は彼の父となり、彼は私の子となる」というお言葉は、将来ダビデの家系から世に出ることになるメシアのことを予告していると思います。
② 本日の第一朗読に続く箇所を読んでみますと、ナタンはこれらのお言葉をすべてそのままダビデ王に告げましたが、それを聞いた王は神の御前に進み出て、幾度も神を「主なる神よ」と呼び、自分自身を「僕」と称しながら、長い感謝の祈りを捧げています。そこではもう、神のために神殿を建立しましょうなどという、人間が主導権をとって神のために何かをなそうとするような言葉はなく、ひたすら神の御計画に感謝し、神の御旨に従って従順に生きようとする僕の心だけが輝き出ています。「ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、」「御言葉のとおりになさってください」など、このダビデの祈りに読まれる言葉に接していますと、神を「主」と崇め、自分をその「僕」あるいは「婢」として、万事において主の御旨を尋ね求めつつ、ひたすら主に従って生活しようとするのが、神に最も喜ばれる信仰の生き方であるように思われてきます。聖母マリアも救い主も皆、この生き方の秘訣を心得て、その模範を身を持って世に示しておられます。
③ ついでながら申しますと、西洋的キリスト教はそのままでは日本の人々に適合していないという理由で、日本の精神的風土や文化的特徴などを細かく研究し、現実のキリスト教をもっとその風土や特徴に適合したものに変えることができないものかと、さまざまの理論的試案を出している人たちがいますが、現実のキリスト教の形態がかなり西洋化していることと、それが日本人の精神的文化的傾向と大きく違っていることとは認めますが、しかし、人間が主導権を取って日本的キリスト教の形態を産み出そうとする試みには、私は賛成し兼ねます。まず、今ある現実のキリスト教の中で主キリストと徹底的に一致しようと努め、聖霊の導きに対する心のセンスを磨くことに努めましょう。そうすれば、聖霊が私たち日本人の心の中で働いてくださり、ごく自然に日本的な信仰生活・信心思想がそこから形成されるようになります。そういう日本人の数が増えるなら、それに応じて現実のキリスト教の形態も次第に日本人の精神的文化的特徴に適合したものになって行き、しかもそれは、他国の精神的文化的特徴ともバランスよく共存して、人類全体・神の民全体の一致共存にも大きく貢献するようなものになると信じます。これが、「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ 17: 21)と祈られた、主の聖心に適う信仰生活であると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や」「信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」と書いていますが、「信仰による従順に導くため」という言葉に注目したいと思います。それは人間たちには知り得ない、神の内に深く隠されている御計画を、神がその僕・婢となって生きようとしている人たちに次々と逐一啓示しながら、今や全人類を救いに導きつつあることを指しており、救いに招かれている人たちには、神よりの恵みを自主的に利用しながら生きようとする生き方を脱皮し、むしろ神の僕・婢となって信仰による従順に生きるよう導いていることを意味していると思います。
⑤ パウロはその書簡の挨拶文を通常祈りの形で書いており、また度々送り先の信徒団のために祈っていることを伝えていますが、テサロニケ第一書簡の末尾には、珍しく「兄弟の皆さん、私たちのためにも祈ってください」と願っています。信仰に生きている人たちに祈ってもらう必要性を痛感していた時に書いた書簡だったのかも知れませんが、しかし、神の僕・婢として生きている人たちは、口には出さなくても、自分の人間的弱さを痛感させられて不安になり、自分でも一心に祈りますが、同時に他の人たちにも祈りを願いたい気持ちになることが少なくないのではないでしょうか。ゲッセマネで弟子たちに祈るようお命じになった時の主の御心境も、同様だったかも知れません。すべてを自分で計画し、自分にできる範囲で神のために働こうとしている人は、予想外の事態にでも直面しないかぎり、不安を痛感するようなことは少ないでしょうが、神の僕・婢として生きようとしている人は、自分でまだ全容を知らない神の御計画に従って生きよう、働こうとしているのですし、悪魔の攻撃に悩まされることもあるようですから、多くの不安や自分の心の弱さと戦いながら、ひたすら神の御力に頼って生き抜くことを、覚悟していなければならないように思います。しかし、神は多くの人の救いのために、そのような器の人、信仰の不安の中に逞しく生きる人を切に求めておられるのではないでしょうか。そういう人の中でこそ、神は豊かな実を結ばせることがおできになるのでしょうから。
⑥ 本日の福音に登場するヨゼフの婚約者マリアは、察するに全く一人で自分の部屋で祈っていた時に、突然どこからともなく入って来た男の姿の天使から挨拶され、非常に驚いたと思います。しかし、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活することを身につけておられたのか、マリアは驚くほど冷静に対応しておられます。本日ここで朗読された邦訳聖書では、「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」と天使に答えていますが、この言い方では、天使を介して伝えられた神の子出産という素晴らしい神の御計画に対して少し距離を置き、神の御計画に多少の戸惑いを感じているような印象を与えます。英訳も同様の印象を与えますが、そのせいか、私が神学生時代に読んだある著書の中でアメリカの神学者フルトン・シーン神父は、マリアのこの質問から、マリアは終生処女として生きようと決心していたのではないかと推察していました。しかし、ギリシャ語原文では「どのようにしてそうなるのでしょうか。私は男を知りません」となっていて、これは神の子を産む精子をどこから受けるのでしょうか、と質問した意味になっています。これが正しい訳ではないでしょうか。天使はその質問に答えて、「聖霊があなたの上に来て、いと高き方の力があなたをおおうでしょう」と説明していますから。
⑦ 全く思いもよらない大きな神秘を啓示されて、マリアの心はすぐにはその全体像を理解できなかっでしょうが、しかし理解できなくても、それが神の御計画、神の御旨と確信したので、すぐに「私は主の婢です。お言葉どおり、この身に成りますように」と承諾したのだと思います。日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けて生活しておられたから、冷静にまたごく自然に、この承諾の言葉を話すことができたのではないでしょうか。私たちも、ファリサイ派の人たちのように自力で神のために何かを成そうとするのではなく、聖母マリアの模範に倣って、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活するよう心がけましょう。この実践に努めていますと、神の霊の導きに対する心のセンスも次第に磨かれてきます。その恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。